| 大阪市西区立売堀生まれ。 |
| 母は船場の綿花問屋山重の主人の長女。 |
| 和泉市で育ち、後に泉大津市助松に引越し浜寺小学校に入学。 |
| 少女時代、花柳禄寿門下の花柳禄之助について日本舞踊を習う。 |
| 大阪府立大津高女(現・大阪府立泉大津高等学校)→京都府立第一高女(現・京都府立鴨沂高等学校)卒業。 |
| 1950年、読売新聞社、中部日本新聞社、西日本新聞社の三社が主催する第1回ミス日本(700人近い応募者があった)の栄冠に輝く。 |
| その類稀なる上品な美貌は審査員達の間でも話題の的で、ミス日本選定は満場一致で短時間で終了したという逸話が残っている。 |
| この第1回ミス日本コンテストは終戦から間もない当時の日本の明るい話題だった。 |
| 審査や授賞式の模様を伝えた白黒ニュースフィルムが現存する昭和館5階にある映像・音響室のブースにてニュース映画を選択後「ミス日本」と検索すると京都代表として出場した彼女の初々しい姿を視聴可能。 |
| 1951年、ミス日本として公式訪米し、ニューヨークのヤンキー・スタジアムでマリリン・モンローとジョー・ディマジオに会うなど、アメリカでもその美貌が話題になった。 |
| 当時はまだ海外渡航自由化の前で、貴重な訪米となった。 |
| ミス日本に選ばれた後、映画界からスカウトが相次ぐが彼女には女優になる意思はなかった。 |
| しかし、スカウトの話はその後もずっと途切れずに続き、悩んだ末、姉・喜代子の「これからの女性は仕事を持つことよ」という言葉に女優になる決心をする。 |
| ちなみに、喜代子も薬剤師の仕事に就き、富士子と同じく家庭を持った後も仕事を続けた。 |
| ミス日本になってから3年後の1953年、映画会社各社の争奪戦の末、大映に入社。 |
| 契約内容は「1本あたりのギャラはスライド制で1年目が10万円、2年目が20万円、3年目が30万円と意外に安いかわりに3年たったら自由契約」であったが、3年後の自由契約の約束は守られなかった。 |
| 同年、映画「花の講道館」で長谷川一夫の相手役としてデビュー。 |
| 戦後ミスコン出身女優第1号と言われている。 |
| 1954年に「金色夜叉」(島耕二監督、根上淳共演)、1955年には「婦系図湯島の白梅」(衣笠貞之助監督、鶴田浩二共演)と後世に語り継がれる映画のヒロインとして活躍。 |
| 1956年の映画「夜の河」(吉村公三郎監督、上原謙共演)が大ヒットし、美人というだけでなく演技者としても高い評価を受けるようになる。 |
| 以後も大映の看板女優として大活躍し、日本を代表する女優となる。 |
| 1963年1月、大映との契約更改を月末に控え、前年と同じ条件の「年に大映2本、他社2本出演」の契約を主張したが受け入れられず、1月末の契約切れを待ってフリーを主張。 |
| 大映の社長・永田雅一は烈火の如く怒り、彼女を解雇し五社協定にかけると脅した。 |
| それに対し山本はフリー宣言をし、同年2月28日、帝国ホテルでの記者会見で「そんなことで映画に出られなくなっても仕方ありません。 |
| 自分の立場は自分で守ります。 |
| その方が生きがいがあるし、人間的であると思います。 |
| 」と語り、永田社長に詫びを入れろとの周囲の声に耳を貸さなかった。 |
| それに対し永田は彼女を一方的に解雇し、五社協定を使って他社や独立プロの映画や舞台からも締め出すよう工作する。 |
| この事は当時の国会でも取り上げられ、世間でも「人権蹂躙」と非難の声が上がった。 |
| 看板女優の彼女を失った大映の映画館は空席が目立つようになり、大映倒産そして日本映画界全体の斜陽化の遠因となった。 |
| この後、彼女はテレビドラマに活路を求め、「山本富士子アワー」などに主演した後、舞台に新境地を開き、現在まで舞台一筋で主演を続けている。 |
| 尚、五社協定から48年が経過した2011年の今も映画界には復帰していない。 |
| ただ、テレビ番組「映像美の巨匠市川崑」(1999年、NHK)の中で、1983年に市川崑監督から映画「細雪」への出演依頼があったが、スケジュールの都合で実現できなかったと明かしている。 |
| 結局、岸惠子が演じることとなったが、公開になった映画を観て、出演できなかったことを後悔したと語っている。 |
| 1962年、作曲家の山本丈晴(旧姓:古屋、古賀)と結婚(2011年に死別)。 |
| 1968年、長男を出産。 |
| 現在は孫もいる。 |
| 2002年12月、日本経済新聞で「私の履歴書」を連載。 |