| 山田が入団した頃の阪急は「ヨネカジ」と呼ばれた米田哲也、梶本隆夫の他、石井茂雄、足立光宏など一流投手の揃った投手王国で、山田は「俺なんかどうやって入っていったら…」と不安だったという「阪急ブレーブス黄金の歴史永久保存版―1936-1988よみがえる勇者の記憶」(ベースボール・マガジン社)における福本との対談より。 |
| しかし2年目のから主力投手として台頭、初完封勝利を挙げるなど10勝をマーク。 |
| 背番号が25から17になった3年目には22勝を挙げ、最優秀防御率のタイトルも獲得し、エースに成長した。 |
| 当時は速球でグイグイ押す強気な投球が身上で、西本幸雄監督が「投手で一番大切なのはコントロールや」と言っても「いえ、ストレートに力があればど真ん中でも打たれません」と反発した。 |
| このことは、山田が引退して20年以上経っても西本に「ワシに真っ向から逆らったのはお前だけや」と苦笑されるという。 |
| しかし、その強気な姿勢は時として落とし穴にはまることもあり、同年の日本シリーズでは第3戦で王貞治にサヨナラ3ランを浴び、手痛い敗北を喫した。 |
| この時、山田はマウンドにしゃがんだまましばらく動けず、西本監督に抱きかかえられるようにしてベンチに引き上げた |
| 山田は後に「天狗の鼻をへし折られた。 |
| あのホームランがあったからその後の自分がある」と述懐している。 |
| なお、この試合は山田の母親が観戦していたが、この試合を機に球場に足を運ばなくなった。 |
| 翌年は上述の敗北をも糧にして20勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得。 |
| しかしこの年に膝を痛めたことで球速が落ち始め、翌まではやや低調な成績に終始した。 |
| 1975年の阪急は豪速球で知られた新人の山口高志の活躍で悲願の日本シリーズ優勝を果たしたが、山田は12勝にとどまり、自責点95、防御率4.32はローテーション入りした1970年以来では自己最低と、満足のいくものではなかった。 |
| 同じ12勝だった山口を重用する首脳陣の方針に納得できなかったこともあり、山田は同年オフに引退まで考えたが、それを察知した球団に慰留され、現役続行を決意。 |
| この間、成績こそ低迷していたが、チームメートの足立光宏を手本に新しい球種・シンカーを研究していた。 |
| 当初山田はストレート中心の投球に限界を感じ始めた時に足立にシンカーの投げ方の教えを請うているが、足立は「ストレートが通用するうちはシンカーは投げるな」と握りすらも教えてくれなかったという。 |
| 山田は足立からシンカーを盗み取ろうと毎日のように研究を重ね、足立も最後にはヒントを教えてくれるようになった。 |
| 1975年から1986年までプロ野球記録の12年連続開幕投手を務めておりトム・シーバーが持つMLB記録とも並んでいた。 |
| 、記録更新のかかったの開幕投手は佐藤義則だった。 |
| この年はキャンプ、オープン戦となかなか調子が上がらなかったが、オープン戦で調子が上がらないのは例年のことなので山田自身は大して気にしていなかったという。 |
| しかし、上田監督がマスコミに「今年の山田はいつもと違うなあ」と言っているのを知り、「監督のいいと思うならそのようにしてもらっていいですよ」と話したら、開幕投手に佐藤が抜擢され、「そりゃないだろう」と思ったという。 |
| この年清原和博相手に通算2000奪三振を達成したものの、7勝に終わり、17年続けていた二桁勝利も途絶えた。 |
| 翌は開幕からなかなか勝てず、5月にはもうこの年限りの引退を考えていた。 |
| この時真っ先に相談したのは監督の上田ではなく、西本だったという。 |
| 結局4勝10敗の成績に終わり、現役引退。 |
| 通算300勝を目指していたが、あと16勝届かなかった。 |
| なお、現役最後の試合は10月23日の西宮球場での阪急ブレーブス最後の試合(対ロッテ)で、山田は完投勝利を挙げ(通算284勝目)、阪急ナインに胴上げされた。 |
| 現役引退と前後して球団の親会社が阪急電鉄からオリックスに変わったことから背番号17は球団の永久欠番とはならず、しかも、山田の引退からわずか2年後、オフに入団した長谷川滋利に与えられた。 |
| 山田は「(福本の)7と17は永久欠番にしてほしかったなあ」と語っている。 |
| 通算284勝はアンダースローの投手としてはプロ野球最多勝記録である。 |
| 一方、日本シリーズとは不思議に相性が悪く、上記の王のサヨナラ3ランなど通算6勝9敗1セーブと不本意な成績に終わっている。 |
| 通算最多被本塁打(23)、シリーズ最多タイ自責点を2度(1976年、1978年の12)、シリーズ最多敗戦のタイ記録(1984年の3敗、他には1956年の別所毅彦、1964年の村山実)といった不名誉な記録も残している。 |
| ただし、1984年の3敗のうち2敗は完投敗戦で、残る1敗(第7戦)も7回途中まで3失点の内容だった。 |
| 日本シリーズとは対照的にオールスターゲームには強かった。 |
| 通算7勝はオールスターゲーム記録。 |
| また敗戦投手に一度もなっておらず、勝率10割である。 |
| 当時のパ・リーグには豪快な選手が多かったが、山田もその類に漏れず豪快な性格の持ち主であった。 |
| 先発を翌日に控えたある夜、「今日は大雨だから明日の試合はない」と他の選手達と飲み明かしたところ、翌朝の天気は雲ひとつない快晴。 |
| 二日酔いで嘔吐を繰り返しながらのランニングでなんとか体調を整え、その夜の試合で完投勝利してしまった。 |
| この時のランニングの様子を見ていた西本幸雄監督は後日、「山田は昨日吐きながら練習していた。 |
| この姿勢が大事なんだ」と事情を知らずに全選手の前で訓示したという。 |
| 水島新司の漫画「あぶさん」にはこのエピソードに似たストーリーが登場する(飲みすぎた投手を佐藤義則にしている)。 |
| 同期入団の加藤英、福本とは仲がよく、二軍時代からよく寮の門限過ぎまで遊び歩いていたため、内外から「阪急の三バカ」と呼ばれていた。 |
| 一方で、同期入団の他の選手はすべて高卒で大成しなかったこともあり、3人で「俺たちが引っ張っていかなければ」とも言っていたという。 |
| また、球速が落ちたりそれまでの変化球が通用しなくなってから新球を模索する投手が多い中、山田は「新しい変化球は試合で使えるようになるのに3年かかる。 |
| 今の球が通用しなくなってから研究しても遅い」と、それまでのボールが通用するうちに将来を見越して次の変化球や投球術を研究していたという。 |
| 山田とともに阪急の黄金時代を支えながら自らは短命に終わった山口高志は「そこが山田さんと僕の違うところだった」と評している。 |
| 3月に開催の読売ジャイアンツとのオープン戦(西宮)での引退記念試合は福本とともに阪急のユニフォームを着用して出場した(ただし、オリックスのコーチとして残留した福本は引退セレモニーの時にはオリックスのユニフォームに着替えている)。 |
| 福本とは同期入団で若いころは仲が良かったが、山田が先発した試合で福本がセンターフライを落球、それに対してあからさまに怒りを表し、イニング終了後謝罪に来た福本を無視したことがある。 |
| 以来不仲説もあり、引退後、福本の記念祝賀会に招待されながらも欠席し、星野仙一に批判されている。 |
| 昭和50年代(1975年から1984年)にあげた勝利数が163で、2位の鈴木啓示の155を抑えて1位である。 |
| しかし、1970年代(昭和45年から昭和54年)にあげた勝利数が171であるが、鈴木啓示が174をあげて2位に終わった。 |
| 初勝利こそ、8回2死まで投げながらベテラン・足立光宏のリリーフを仰いだものの100勝、150勝、200勝、最後の勝利(登板日は阪急最後の公式戦でもある)でもある284勝と初勝利以外の節目の勝利は全て完投勝利である。 |
| 1971年第3戦で痛恨のサヨナラ本塁打を浴びた王とは、日本シリーズでは通算でも25打数8安打、対戦打率.320、4本塁打と分の悪い対戦成績だが、オールスターでは逆に7打数0安打と完璧に抑え込んでいる。 |
| 自身の得意とした変化球シンカーについて、「私のシンカーが本当のシンカー」と自負している。 |
| 同じくシンカーの使い手と言われる高津臣吾や潮崎哲也のシンカーについては「シンカーというよりもチェンジアップ」と言っている。 |