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プロフィール
- 山田宗有とは
- 生い立ち
- トルコとの関わり
- 実業家としての活動
- 家元襲名後
- 参考文献
山田宗有(やまだそうゆう、慶応2年(1866年)8月-昭和32年(1957年)2月13日)は、実業家、茶人。茶道宗&24487;流の第8世家元であるが、家元継承以前の山田寅次郎(やまだとらじろう)の名で実業界でも活躍した。また寅次郎の名は、明治25年(1892年)に初めてオスマン帝国(現・トルコ)の首都・イスタンブルに渡って以来、大正3年(1914年)までの間のほとんどの期間をイスタンブルに滞在して貿易と民間交流に努め、日本とトルコの友好親善の礎を築いた人物としてもきわめて有名である。
生い立ち
| 宗有(寅次郎)は、幕末の慶応2年(1866年)に沼田藩江戸家老・中村雄右衛門(莞爾)の次男として現在の群馬県沼田市に生まれ、明治14年(1881年)に宗徧流家元山田家に養子入りした。 |
| 宗徧流は、寅次郎が生まれるより以前に6世家元の山田宗学が死去し、その妻が7世を継いで山田宗寿と称していたが、宗学夫妻の間には後を継ぐ子がいなかったため、後継ぎとして寅次郎が迎え入れられたのである。 |
| しかし彼は茶道の家元を若くして継ぐ意志に乏しかったらしく、明治16年(1883年)に家元宗寿が亡くなったあとも家元を襲名せず、進んで言論界に入って陸羯南、福地源一郎らと交わった。 |
トルコとの関わり
| 明治23年(1890年)、訪日から帰国途上のオスマン帝国軍艦エルトゥールル号の遭難事件が日本中に大きな衝撃を呼ぶと、寅次郎田は民間に義捐金を集めて犠牲者の遺族に寄付することを思い立った。 |
| 彼は親交のあった新聞社に働きかけて募金運動を起こし、日本中を演説会をして回って、2年をかけて5000円(現在の価値で1億円相当とされる)の寄付を集めた。 |
| 明治25年(1892年)、寅次郎は義捐金を携えてオスマン帝国の首都・イスタンブルに渡った。 |
| 彼が自ら渡航したのは、先に外務大臣・青木周蔵を訪問して義捐金の送付を依頼したところ、君が自ら集めた義捐金なのだから君自身が届けるのがよい、と青木に勧められたためという。 |
| 同年4月、イスタンブルに到着した山田は早速オスマン帝国外相を訪問し、義捐金を送り届けた。 |
| これにより彼が遠い日本から民間人でありながら義捐金をもって自らやってきたことがイスタンブルの人々に知れわたると、彼はイスタンブルの朝野から熱烈な歓迎を受け、皇帝・アブデュルハミト2世に拝謁する機会にすら恵まれた。 |
| このとき、彼が皇帝に献上した山田家伝来の甲冑は、現在もトプカプ宮殿博物館に保存、展示されている。 |
| 寅次郎はアブデュルハミト2世から士官学校での日本語の教育や、東洋の美術品の整理を依頼され、イスタンブルにしばらく滞在していたが、そのうちにトルコに愛着を覚え、そのままイスタンブルに留まって事業を起こすことを決意した。 |
| 明治29年(1896年)、一時帰国を経て再びイスタンブルにやってきた寅次郎は、イスタンブルに中村商店を開いて日本との間での貿易事業を始め、以後、数回日本とトルコの間を何度か行き来しながら、前後20年近くイスタンブルに滞在した。 |
| この間、一時帰国した時に大阪の紡績商の娘と結婚し、子供も設けたが、妻子は大阪に置いたままで、日本に落ち着くことはほとんどなかった。 |
| 寅次郎がイスタンブルに滞在していた当時、日本とオスマン帝国の間では治外法権の問題から国交交渉が進展せず正式の国交がもたれなかったこともあり、彼はこの町でほとんど唯一人の日本人長期滞在者であった。 |
| そこで、イスタンブルを訪問する日本人たちは官民、公用私用を問わずみな中村商店を訪問し、寅次郎に様々な便宜をはかってもらっていたという。 |
| また、彼のイスタンブルに滞在中に起こった日露戦争では、ロシア黒海艦隊所属の艦艇3隻が商船に偽装しボスポラス海峡を通過したとの情報がイスタンブルから在ウィーン日本大使館を経て日本に送られ、重要情報として高い評価を受けたことが知られている。 |
| 晩年の寅次郎が語ったところによれば、この監視と打電を行ったのは寅次郎自身であったという。 |
| このように彼はイスタンブルにおいて日土両国の政府関係者と繋がりを持ってトルコにおける日本の便益をはかったので、この時期の寅次郎はいわば日本の「民間大使」であったと言われることもある。 |
| トルコ滞在中の寅次郎は、トルコ人たちの呼びやすいムスリム(イスラム教徒)名をつけられ、トルコ人の友人たちからはムスリム名で呼ばれていた。 |
| 彼が正式にイスラム教に改宗する手続きを行ったかどうかは定かではないが、のちに寅次郎は「当時は心情的にはイスラム教徒に近かった」と語っており、そうしたことから彼は日本人ムスリムの草分けのひとりに数えられることもある。 |
| 大正3年(1914年)、第一次世界大戦が勃発するとドイツら同盟国側に引き入れられつつあったオスマン帝国の対外情勢は緊迫したため、寅次郎はイスタンブルを最終的に退去、帰国した。 |
実業家としての活動
| トルコの地で商売を始めた寅次郎は、これを手がかりに日本の実業界に進出しようと考えたが、彼が当初手がけた日土間の貿易事業は、両国の間で交流がほとんど行われていなかったため、将来的な発展性に乏しかった。 |
| そこで寅次郎は当時、輸出のためオスマン帝国の領内で盛んに製造されるようになっていたタバコに目をつけた。 |
| 明治37年(1904年)、日露戦争の戦費捻出のため日本の大蔵省がタバコの専売制を強化し、材料の買い上げから製造、販売まで一括して独占的に行うようになったのを機に、寅次郎はトルコのタバコ工場から日本に技術を導入して、紙巻きタバコを巻くのに使うライスペーパー(シガレットペーパー)の製造を国産化し、大蔵省に納入することを計画した。 |
| 明治38年(1905年)、日露戦争終結直後の日本に一時帰国した寅次郎は、大阪で東洋製紙株式会社(後に王子製紙と合併)を設立、日本最初のライスペーパー製造を開始した。 |
| 同社の事業は軌道に乗り、一時的には大蔵省専売局で使うライスペーパーを独占的に生産する成功を収めた。 |
| ただし、寅次郎自身は東洋製紙の経営からは早くに離れている。 |
| その後、第一次世界大戦の勃発で帰国してからのちの寅次郎は製紙業に専念することになり、長く関西実業界で活躍した。 |
家元襲名後
| 山田が国外や実業界で活躍する間、家業の宗徧流は、40年近くにわたって家元不在のままであった。 |
| 大正12年(1923年)、57歳の寅次郎は弟子たちの懇請によって家元を襲名し、宗徧流第8世山田宗有となる。 |
| 家元として宗有は、流派の組織化を進め、機関誌『知音』を創刊するなど、宗徧流の振興に尽力した。 |
| また宗徧流が、流祖山田宗徧が赤穂浪士の吉良邸討ち入りに間接的にかかわった忠臣蔵ゆかりの流派であることにちなんで東京の墨田区で義士茶会を始めるなど、全国で茶道を広める活動を盛んに行っている。 |
| 一方で、家元襲名後も山田は実業界からは手を引かず、昭和2年(1927年)には吹田製紙(現・三島製紙吹田工場)を創業した。 |
| 同社は昭和11年(1936年)に三島製紙と合併するが、その後も宗有田は経営に関わり、三島製紙の社長、会長を歴任している。 |
| また、トルコとの親善交易にも関心に持ちつづけた。 |
| 日本とトルコ共和国が国交を結んで東京にトルコ大使館が開かれると大使と大阪の財界との間を取り持ち、大正14年(1925年)に大阪財界主導で日土貿易協会を設立、その理事長に就任して日本とトルコの間の貿易を行った。 |
| 昭和6年(1931年)には17年ぶりにトルコを訪問し、イスタンブルに滞在して現地の財界から大歓迎を受けた。 |
| また、ムスタファ・ケマル大統領にアンカラに招かれて面会したが、このときケマルは士官学校で宗有が日本語を教えていた時、自分もその中のひとりとして日本語を教わったという思い出を語り、大変な友誼を示したという。 |
| 昭和23年(1948年)、宗有は三島製紙の会長を辞任して実業界から離れ、以後は茶道に専念、90歳で没した。 |
参考文献
| 浅田晃彦『上州奇人伝』(あかぎ文庫シリーズ3)、あかぎ出版、昭和60年(1985年)。 |
| 松谷浩尚『イスタンブールを愛した人々』(中公新書)、中央公論社、平成10年(1998年)。 |
| 長場紘『近代トルコ見聞禄』慶應義塾大学出版会、平成12年(2000年)。 |
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