| 社長就任直後にガンプラがヒット。 |
| その年に発売された機動戦士ガンダムのプラモデルはわずか半年で100万個を販売し、翌年にはシリーズ累計2500万個と一大ブームを巻き起こす。 |
| 前述の直治との約束もあり「『ガンプラ』が売れたおかげでその後も社長でいられた」と語っている。 |
| 当時の新聞に「機動紳士」と書かれた。 |
| 1983年にバンダイグループ8社をバンダイ1社に合併する。 |
| この際にポピーのキャラクター路線でバンダイの社風を統一する。 |
| これに関して後に「(キャラクターが)一番イージーだった」と語っている。 |
| また純玩具をなくしキャラクター玩具のみになってもよしとした。 |
| 輸出部にいた経緯から海外展開に積極的だったがバンダイのような日本のブランドは海外では相手にされなかった。 |
| 最初の成功はフランスで、同国では日本のアニメ(UFOロボグレンダイザー、仏:Goldorak(ゴルドラック))のフランス語吹替えで成功した。 |
| しかしこの手法はアメリカでは通用せず、同国で成功するには、戦隊シリーズ『パワーレンジャー』の登場を待つことになる。 |
| 経営の多角化は社長就任後加速し、文房具、アパレル、菓子、映像、音楽、パソコン、アミューズメントなど次々と新規事業を手掛けることになる。 |
| 直治は「また赤字事業がはじまった」と周囲にこぼしていた。 |
| これは玩具事業だと山科直治が育てた古参社員が邪魔だったからとされている。 |
| バンダイ・ミュージックエンタテインメントは、悪戦苦闘が続き事業継続を断念し、2000年に解散・清算された。 |
| 趣味に走りすぎて柱のないレコード会社だったといわれる。 |
| 映像事業は「社長の道楽」と言われるもののガイナックスなどの若い才能を育てることとなる。 |
| ガイナックスは、1987年に東宝東和系にて劇場公開された「王立宇宙軍」を製作するために設立された会社。 |
| 予算3億6千万円にたいして実際にかかった総制作費は8億円だった。 |
| 初制作作品にもかかわらず、この作品のクオリティの高さは、メインスタッフが商業アニメ作品の経験がないとは思えないほどといわれている。 |
| 1989年の第39回創立記念式典で山科誠は「バンダイランド」の構想を語る。 |
| これはディズニーを手本としたレジャー施設の構想である。 |
| 多角化戦略の最終目標はディズニーのような「総合エンターテインメント企業」であり、「私は日本のウォルト・ディズニーになりたい」と語っている。 |
| 1985年にプラザ合意による急激な円高で輸出の採算が悪化。 |
| 1986年5月、山科社長は「もう(日本国内での)合理化はやめた」と語り海外生産比率を引き上げることを決定する。 |
| 後には「将来、国内生産をゼロにしたい」、「日本でおもちゃを造る時代は完全に終わった」などと語っている。 |
| 1970年代よりエレクトロニクス玩具に注目しており、玩具事業ではこれを積極的に手がける。 |
| しかし1982年の「LSIショック」でビデオゲーム機から撤退。 |
| 1985年に任天堂のファミコンに参入する。 |
| 1980年代は一般玩具の需要はすでに成長が見込めず、「任天堂さんにおんぶさせてもらっている」と語っている。 |
| 「それがいやなら自分でハードを作ればいい」とも語っている。 |
| 1990年代に成長戦略としてマルチメディア事業を重視するようになり、1996年にマルチメディアゲーム機「ピピンアットマーク」を販売するも失敗、「マルチメディアは短期で成功するのが難しいと感じた」と語る。 |
| 当時、山科は「マルチメディア事業が軌道に乗るまで、連結収益のけん引役は海外事業となる。 |
| 」とがん具メーカーとしての成長の限界から脱すべく動き出していた日経金融新聞96.6.25しかし、虎の子のガンダムとセーラームーンが不調、利益率の高いゲームが不振で、96年中間決算の経常利益は前年同期比57%減の18億2,300万円となっていた。 |
| 日本経済新聞朝刊96.11.20。 |
| このような中セガとの合併によるセガバンダイの設立が97年1月23日に浮上、合併会社の社長に就任予定と報じられる。 |
| しかし自ら「ワンマン」とする山科誠の強引な合併構想は社員の反発が強く破談。 |
| 株式会社セガ・エンタープライゼスは、97年5月27日記者会見を行ない、「株式会社バンダイからの申し入れを受け、緊急役員会で合併合意解消を決めた」と正式に発表した。 |
| 合併解消の理由としてセガは「バンダイ側が全社的合意に至らなかったため」と述べた。 |
| 株式会社セガ・エンタープライゼス、株式会社バンダイ山科は、この騒動の責任をとり社長を辞任するも会長として経営の一線に留まる。 |
| 1998年にはピピンアットマークの事業を諦めざるを得なくなり、その清算による1999年3月期の赤字決算の責任をとり会長職を辞する。 |
| これに伴った特別損失270億円を計上。 |
| このためたまごっちのヒットにより1998年3月期の連結決算は2882億円と過去最高だったにも関わらず、単独決算では赤字に転落する。 |
| ピピンは、世界中で売れなかったゲーム機ワースト1位となっている。 |
| http://gigazine.net/news/20070507_worst_selling_consoles/ピピンは、アップルとバンダイが協力して作ったゲーム機だったが、599ドル(約7万2000円)という高価なハードだったこと、ソフトが少なかっために、販売台数が伸びず、同事業を手がけていたBDE(バンダイ・デジタル・エンタテインメント)は1998年2月27日に解散した。 |
| http://gamez.itmedia.co.jp/games/news/9803/11/news24.html皮肉なことにバンダイとの合併を解消したセガも、CSK会長だった大川功の個人資産約850億円の譲渡などで支援を受けるものの、2001年3月31日、唯一製造し続けていたゲームハード機ドリームキャストの製造を打ち切り、ハード機製造から完全撤退することになった。 |
| なお、1997年に爆発的ヒットとなった「たまごっち」の企画、開発は横井昭裕。 |
| しかし、ブームの終息を見極められず、大量の在庫を抱えてしまい、1999年3月期では単独決算、連結決算ともに赤字になる。 |
| 山科誠も名誉会長職に退き、「山科体制」は崩壊した。 |
| 1999年に山科誠が推進した多角化を放棄し、赤字事業を清算するためバンダイ入社三年目の高須武男が社長に就任。 |
| 高須が「泥をかぶった」形で音楽、映像、海外販社などの事業を撤退ないし縮小し、事業の整理を行った。 |
| 負の遺産を清算するために2年、本業強化に2年。 |
| 一時は1000円台(1000株)まで落ち込んでいた |
| 玩具事業に不慣れな高須武男を山科直治時代からの「大番頭」である杉浦幸昌が会長職から支援した。 |
| 社長の高須は、カタカナ用語で経営スタイルを語り、数字をあげてバンダイの事業目標示した。 |
| 一方、会長の杉浦は「失敗してもいいから挑戦しろ」と現場を鼓舞した。 |
| この相補う2人の組み合わせがバンダイの変革を引っ張った。 |
| その変革を一言で言えば「失敗にめげない」体質から「失敗を生かす」体質への変換だった。 |