| 1972年に大和紡を退職後、1973年1月に池田CCに入社し、1974年10月に2度目の受験でプロテスト合格。 |
| この時すでに「将来の夢は、アメリカに行ってプレーすることです」と答えた。 |
| 大和紡時代から、その時のための準備に毎月3万円の給料の中から、爪に火を灯すように貯金をしていた『AYAKO―ALIFESTORY』、p47小倉千加子『アイドル時代の神話PARTII』、朝日新聞社、1991年、p9―31。 |
| アメリカで成功するまで実家にもほとんど帰らなかったといわれるしかし、親族への連絡は常に怠らない。 |
| 横浜在住の兄の長男による私設ファンクラブサイトは一部で愛されている。 |
| 1975年、美津濃トーナメントで初優勝。 |
| 杉原輝雄が「オレより30ヤードは飛ぶね。 |
| いやになる」と言う程で、ソフトボールで鍛えた強いリストと強靭な腰のバネで、男子プロ並みの飛距離、豪打で鳴らした週刊新潮、1981年7月23日号23頁。 |
| 1979年、日本女子プロゴルフ選手権優勝。 |
| 1981年、樋口久子を抜いて初の賞金女王。 |
| 1981年、日本の女子選手では初めて本格的にアメリカLPGAツアーに参戦し当時の日本の女子ゴルフ界はまだまだ発展途上で、トーナメントは年間20試合ほど。 |
| 樋口や佐々木マサ子など、極く少数のトッププロだけが、日本で春先の試合の行われていない時期を利用して、アメリカのツアーに遠征した(『岡本綾子のメモリアル・グリーン』、p11)。 |
| 岡本のLPGAツアー、フル参戦の表明は当時、日本女子プロゴルフ協会と揉めてマスメディアも大きく取り上げた。 |
| ほとんどのマスメディアは岡本のフル参戦を後押しする報道を行ったが、ある週刊誌が岡本のインタビューを歪曲して『岡本綾子激白、さよなら日本!女子プロゴルフにもう愛想がつきました』という記事を掲載し大きな問題となった(『AYAKO―ALIFESTORY』、p166―180)。 |
| LPGAツアーテストは二度目の挑戦で合格。 |
| 、1982年から1992年の間、計17大会で優勝した。 |
| 1985年には腰痛で引退の危機に直面したが、1986年に復帰2戦目で優勝。 |
| 1987年には、アメリカ人以外で史上初のLPGAツアー賞金女王になった。 |
| 同年、年間最優秀選手(プレーヤー・オブ・ザ・イヤー)も獲得{{Citenews|url=http://www.nikkansports.com/sports/golf/news/p-sp-tp1-20100824-669558.html?guid=ON|title=綾子も藍祝福「すごい。 |
| もっと勝てる」|publisher=日刊スポーツ|date=2010年8月24日}}。 |
| メジャー大会での優勝はならなかったが、単独2位を4度、2位タイを2度経験している。 |
| 中にはプレーオフで敗れた大会もあり、ローラ・デービースやパット・ブラッドリーなどに道を阻まれた |
| 特に1987年の女子メジャー最高峰・「全米女子オープン」で、再三に渡る豪雨順延で6日間に及んだローラ・デービース、ジョアン・カーナーらとの名勝負は有名東京スポーツ・2010年7月30日付22面 |
| 日米英3か国のトッププレイヤーが大激戦を演じたこの1987年大会は、全米女子オープンが真の世界一決定戦となった象徴的な出来事としてUSGAの公式HPに紹介され、岡本の名前が刻みこまれている |
| プレーオフが行われた同年の7月28日は、全米のゴルフ史にも大きな意味を持ち続けている。 |
| 全米女子プロでは1984年から8年連続1ケタ順位(1989年と1991年は2位)本田靖春『戦後の巨星二十四の物語』、講談社、2006年、208頁、デュモーリエは2位3度(1984年、1986年、1987年)。 |
| 1983年から1991年までの間に、LPGAツアーの賞金獲得順位トップ10に8回入った。 |
| ヨーロッパ女子ツアーでも1984年、メジャー昇格前の「全英女子オープン」で2位に11打差のぶっちぎり優勝、1990年にも「ドイツ女子オープン」でも優勝した。 |
| 1980年代の岡本の活躍は、当時のマスメディア、スポーツ新聞も大きく報道し、夜中や明け方にテレビで衛星中継もされた。 |
| 特に当時「世界一速いゴルフ速報」にシフトした東京スポーツは、"世界のアヤコ"をダントツトップで一面に登場させた。 |
| 東京スポーツは、「世界のアヤコ」活躍の歴史=「東スポゴルフ面の歴史」と言っても過言でないと論じている。 |
| 1989年、東京都が運営する若洲ゴルフリンクスの監修を行い、以後、国内外の多くのコースの設計アドバイスを手がける |
| 2006年暮れに最愛の母を亡くしたが、それをバネに、10キロ減量が前提ながら、2007年から再び女子ツアー参戦に意欲を見せていた。 |
| しかし、ヒザの故障が自身が思う以上に悪くブランクが長引いて「現在の女子ツアーのレベルを考えると、本格復帰は事実上しんどいと思う」と述べた「ゴルフダイジェストチョイス」2008年3月号、ゴルフダイジェスト社、p98-105。 |
| また2009年には父も亡くしている。 |
| 2008年郷里・安芸津町に近い東広島駅近くに居を構え、広島と東京の半々くらいの生活を始めた。 |
| 家庭菜園や近所に住む長兄夫婦の畑などで好きな土いじりをしながら、愛犬と暮らしている。 |
| 今後は広島に生活の基盤を置く予定と話していたが、服部真夕をプロデビュー後から指導して以降、定期的に女子プロゴルファーへの指導を行う。 |
| 門下生に服部真夕、表純子、青山加織、森田理香子らと増えてきて、門下生が口にする「師匠・綾子の教え」が誌面やスポーツニュースに登場する機会も増え、岡本の指導者としての実力も注目を集めるようになった |
| また「全米女子オープン」などのテレビ解説者としても出演している。 |
| このため2010年現在「半農・半ゴルフ生活」という。 |