| ;井上佐市郎暗殺(文久2年8月2日)。 |
| 井上佐市郎(いのうえさいちろう)は土佐藩の下横目(下級警官)で、同年4月8日の吉田東洋暗殺事件を捜査していた。 |
| これを危険と見た勤王党では、まず井上を料亭「大与(大與・だいよ)」に呼び出して泥酔させ、心斎橋上にて、以蔵・久松喜代馬・岡本八之助・森田金三郎の4人で、身柄拘束のうえ絞殺、遺体は橋上から道頓堀川へと投げ棄てた。 |
| 後の三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎は、この事件の際に井上と同行していたが難を逃れている。 |
| 以蔵らが最終的に捕縛された際、この事件についての取調べもあったといい、実行犯の1人である森田金三郎だけが黙秘を貫いたため生き残って戊辰戦争に参戦している。 |
| 森田は後にこれを五十嵐敬之に話し、五十嵐によって『井上佐市郎暗殺一件』なる記録が残された。 |
| 本間精一郎(ほんませいいちろう)は越後国出身の勤皇の志士の1人であったが、特定の藩に属しない論客であったため、その態度を浮薄と見た各藩の志士から疎まれ始めていた。 |
| そこへ青蓮院宮と山内容堂との間で、攘夷督促勅使を巡る争いが持ち上がり、前者を推進する本間と後者を推す勤王党の間で対立が起きたとも、本間が幕府と通じているのではないかと疑われたとも言われる。 |
| 『伊藤家文書』によると当日、本間は料亭から酔って退出したところを数人の男に取り囲まれて両腕を押さえつけられ、刀と脇差を取り上げられながらも激しく抵抗して格闘し数名を怯ませたものの、わずかな隙にわき腹を刺され、瀕死のところに止めをさされて斬首された。 |
| 本間も殺害されたあと、高瀬川へと投げ込まれた。 |
| このときの実行犯は以蔵をはじめ、平井収二郎・島村衛吉・松山深蔵・小畑孫三郎・弘瀬健太・田辺豪次郎、そして薩摩の人斬りこと田中新兵衛であった。 |
| 宇郷重国(うごうしげくに)は官名を玄蕃頭(げんばのかみ)といい、前関白九条家の諸大夫。 |
| 安政の大獄の際、同じ九条家の侍臣島田左近と共に志士弾圧を行い、また和宮降嫁推進にも関わったために攘夷派志士からの遺恨を買っていた。 |
| 島田左近暗殺(同年7月21日)以来、身の危険を感じた宇郷は居所を転々としていたが、この日は九条家河原町御殿に潜伏しているのを見つかり、寝所を以蔵、岡本八之助、村田忠三郎及び肥後の堤松左衛門に急襲された。 |
| 宇郷の首は鴨川河岸に槍に刺し斬奸状と共に晒された。 |
| 猿の文吉(ましらのぶんきち、「目明し文吉」とも)は、安政の大獄時、島田左近の手先として多くの志士を摘発した岡っ引で、当然志士たちから深い恨みを買っていた。 |
| 以蔵、清岡治之介、阿部多司馬の3人は三条河原へ連行の上、「斬るのは刀の穢れになる」として細引で絞殺し、裸にして河原の杭に縛り付け、竹の棒を肛門から体内を貫通させて頭まで通され、更に性器に釘を打たれて晒された。 |
| また、文吉は島田の高利貸しの手伝いもしていた事から民衆にも嫌われており、遺体には投石する者もあったという。 |
| なお、この時高札に「いぬ」と書いたため、ここから手先を指す蔑称「○○の犬」という慣用が生まれたという説がある。 |
| 渡辺金三郎(わたなべきんざぶろう)、森孫六(もりまごろく)、大河原重蔵(おおがわらじゅうぞう)、上田助之丞(うえだすけのじょう)の4人はいずれも京都町奉行所与力で、やはり安政の大獄で長野主膳、島田左近らと共に志士摘発を行っており、宇郷や文吉に対する天誅後、標的とされることを避けるために京都から江戸へと転任するところであった。 |
| 彼らが石部宿まで来た夜、30名を越す浪士の一団が宿場を襲い、人々が騒然とする中、4名は殺害された。 |
| 平野屋寿三郎(ひらのやじゅさぶろう)、煎餅屋半兵衛(せんべいやはんべえ)は、共に商人ながらこの年5月の勅使大原重徳東下の際に士分となり供をしていたが、収賄や横領などを行ったため評判が悪かった。 |
| 土佐からは以蔵、千屋寅之助、五十嵐幾之助らが、長州からは寺島忠三郎らが加わり、手分けして両名を連行して殺害しようとしたが、家族の助命嘆願もあり町人でもあることから殺すことはせず、加茂川河岸の木綿を晒す杭に両名を裸にした上で縛り付け、生き晒しにした。 |
| 多田帯刀(ただたてわき)は、長野主膳の妾村山加寿江(むらやまかずえ、可寿江とも。 |
| 村山たか、とする資料もあるの子で、金閣寺の寺侍であったが、やはり長野と共に安政の大獄において志士弾圧に加わったとして標的にされた。 |
| 14日夜、島原遊郭近くにある加寿江の家を浪士らが襲撃、寝ていた加寿江を引き出して三条大橋の袂に生き晒しにし、翌晩、大家を脅して連れてこさせた多田を蹴上刑場へ連行の上、殺害。 |
| 池内大学(いけうちだいがく)は、元々は知恩院門跡に仕えた尊皇派の儒学者であった。 |
| 首は難波橋に晒され、耳は脅迫文と共に同月24日に正親町三条実愛、中山忠能の屋敷に投げ込まれ、両公卿の辞職を招くこととなった。 |
| 賀川肇(かがわはじめ)は、公家千種有文の家臣で、安政の大獄の折、島田左近らに協力して志士弾圧に加わったことで狙われた。 |