| 母親は在日アメリカ軍の翻訳家として活躍していた。 |
| ちなみに、コペンハーゲンの人魚姫像のモデルとなった女性は岡田のおばにあたる。 |
| フランスのニースで生まれ終戦後は赤坂の引揚者住宅に落ち着き、横浜のインターナショナルスクール、セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジに学ぶ。 |
| 第二次世界大戦後まもなく、兄がトニー谷の手引きで芸能界に入り日劇ミュージックホールの舞台に立つようになったこともあって、岡田も谷の勧めでバレエのレッスンを受けたことがある。 |
| また、兄とともにミュージックホールの座長格だった泉和助に師事して修行する。 |
| その後、赤坂へ日活ニューフェイスの試験を受けに行った際に宝田明と知り合う。 |
| 同じく第6期東宝ニューフェイスに合格。 |
| 藤木悠、宝田明、佐原健二などと同期だったが、映画製作を再開した日活を選ぶ。 |
| 1957年(昭和32年)に日本初の男性専門(後に女性も所属)のモデル・クラブであるソサエティ・オブ・スタイル(略称SOS)を菅原文太ら総勢8名で結成する。 |
| 日活退社後に渡欧した際ルキノ・ヴィスコンティ監督に山猫への出演を迫られるも断り、結果アラン・ドロンに配役が決まる(TV番組での本人談)。 |
| 英語のみならず仏語も堪能なためミス・インターナショナルでのホスト役を長らく務めた。 |
| にんじんくらぶ、劇団欅を経て、以後、数々のミュージカル作品やバラエティ番組などで活躍。 |
| 特に、『とんねるずのみなさんのおかげです』の一コーナー「仮面ノリダー」では、敵役「ファンファン大佐」を好演したことで、幅広い年齢層から人気を得た。 |
| 出演が決まった際には、1980年代にCMに出演した縁で靴のマドラスに小道具のブーツを特注で製作してもらい、愛用したという逸話がある。 |
| ヨシフ・スターリンに風貌が酷似しており(正確には影武者、スターリン本人は顔に天然痘によるあばたがある)、実際に舞台でスターリン役を演じた(『夢、クレムリンであなたと』・1991年初演)。 |
| 歌手としても、1980年、松任谷由実の『SURF&SNOW』収録曲「恋人と来ないで」にゲストボーカルとして参加した。 |
| 司会業でもフェミニストぶりが様になるダンディーさが好評であった。 |
| 1978年、第1回日本アカデミー賞の総合司会の大役を務めたり、変わった所では1994年12月10日にパシフィコ横浜で開かれた新進党の結党大会の司会を務めたこともある。 |
| 私生活では、スマートな長身に端正な顔立ちを武器に、有名女優と次々と浮名を流す稀代のプレイボーイとして知られていた。 |
| 1960年に、パントマイマーのヨネヤマ・ママコと結婚するが、カンヌ映画祭で渡仏した際フランスの有名女優を虜にし、現地の新聞が「日本のプレイボーイにぞっこん」と写真入で大きく報道したため、これが日本に伝わり大騒ぎになった。 |
| 日頃岡田を快く思わず外国人扱いしていた芸能評論家までが「日本男子ここにあり」と賞賛した。 |
| しかし、岡田本人はこのゴシップが日本に伝わっているとはまったく知らず、この騒ぎがもとでヨネヤマ・ママコと翌年離婚した。 |
| 1962年には女優の瑳峨三智子と婚約したが、結婚に至らず2年後に交際を解消。 |
| 1972年に、同じ劇団欅所属の女優・藤田みどりと再婚し、その後、俳優&DJの岡田眞善(長男)ら3人の息子をもうけるが、1994年9月5日に藤田と離婚。 |
| 翌1995年に日本航空客室乗務員だった26歳下の後妻と再々婚し1998年に長女が誕生している。 |
| 後妻は姪の美里と同い年で長男の眞善より12歳上である。 |
| 2005年7月23日、食道癌が見つかり入院する。 |
| レギュラー出演していた中京テレビのクイズ番組『サルヂエ』(「サルさん」として藤井隆と共に司会を担当)は、2005年7月11日放送分で降板した。 |
| 一時期快方に向かい芸能活動を再開、レギュラーだった日本テレビ系『午後は○○おもいッきりテレビ』にも徐々に出演するようになった。 |
| 同年秋にリンパ節へのがんの転移が判明し、再び入院。 |
| 2006年5月29日、食道癌のため死去。 |