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プロフィール
- 岡部幸雄とは
- 概要
- 少年時代
- 馬事公苑時代(1964年4月 - 1966年3月)
- 下積み時代
- 日本国外への遠征(1971年以降)
- シンボリルドルフでクラシック三冠を達成(1984年)
- フリー騎手のさきがけとなる(1984年)
- 騎手生活最大の落馬事故(1988年)
- 関東のトップジョッキーとして活躍
- 左膝の故障からの復帰(2004年1月)
- 騎手引退(2005年3月)
- 騎手引退後
- 年表
- 日本国外・地方競馬における成績
- 表彰
- 馬優先主義
- 競馬関係者からの評価
岡部幸雄(おかべゆきお、1948年10月31日-)は、日本中央競馬会(JRA)の元騎手。群馬県新田郡強戸村(現・太田市)出身、血液型はA型。20世紀後半から21世紀初頭にかけて中央競馬のトップジョッキーとして活躍し、競馬ファンから名手の愛称で親しまれた。※文中の「GI競走」は日本のパート1国昇格前のGI競走を、「GI級競走」は日本のパート1国昇格後のGI競走およびJpnI競走を指す(詳細については競馬の競走格付けを参照)。
概要
| 少年時代に中央競馬の騎手を志し、馬事公苑の騎手養成所に入学。 |
| 1967年3月に騎手としてデビューした。 |
| 2年目の1968年に牝馬東京タイムズ杯を優勝して重賞初制覇を達成し、翌1969年には関東リーディングジョッキー2位を獲得、1971年に優駿牝馬(オークス)を優勝して八大競走初制覇を達成するなどデビュー当初から活躍。 |
| 1984年には中央競馬史上4人目の牡馬クラシック三冠達成騎手となった。 |
| 引退するまでの間に全国リーディングジョッキーを2回(1987年、1991年)、関東リーディングジョッキーを11回1987年、1989年〜1994年、1996年〜1997年、2000年。 |
| 1995年に騎手として中央競馬史上最多となる通算2017勝を挙げ、以降2005年3月に引退するまでの間、最多勝利記録を更新し続けた最終的な記録は2943勝(うち重賞は165勝で、そのうちGI競走が32勝、グレード制導入前の八大競走が4勝)。 |
| なお、最多勝記録は岡部が引退した後の2007年7月に武豊によって更新された。 |
| (成績に関する詳細については#成績を参照)。 |
| 日本国外へ積極的に遠征し、その経験をもとに中央競馬に対しさまざまな提言を行った。 |
| また、特定の厩舎に所属せずエージェントを介して騎乗依頼を受ける騎手業のスタイルを確立した。 |
| また、日本騎手クラブ会長としても活動した。 |
| 騎手引退後は競馬評論家的活動を行っている。 |
少年時代
| 実家は農家で、馬の育成も行っていた。 |
| 岡部は物心がつくかつかないかという頃から馬に乗せられ、小学生の頃には自力で速歩や駈歩を行うことができるようになった岡部2006、77頁。 |
| 幼少期は体質が弱く、また平均よりも身長が低かったためコンプレックスを抱くことが多かったが、やがて乗馬においてはむしろ小柄なことが有利に働くことを知り、中学生時代には中央競馬の騎手を志すようになった岡部1992、172-175頁。 |
| 中学校3年生の秋に馬事公苑の騎手養成所に願書を提出、事後に父の承諾を得て受験し、合格した岡部1992、176-178頁。 |
| 岡部は、騎手になったことについて祖父の影響が強かったと述べている。 |
| 実家が馬の育成を行っていたのは祖父の意向によるものであり、幼少期から馬に騎乗する機会を得ると同時に、馬の世話を課されたことによって馬に対する愛情には世話をすることの辛さが含まれることを学んだ。 |
| また、祖父に連れられて足利競馬場に通うことが多く、競馬に親しんだ岡部1992、168-172頁。 |
馬事公苑時代(1964年4月 - 1966年3月)
| 1964年4月に馬事公苑騎手養成所に入学。 |
| 16名いた養成所の同期生には柴田政人・福永洋一・伊藤正徳らがおり、花の15期生と呼ばれる。 |
| 岡部曰く、馬事公苑の実習においては競馬関係者の息子が教官に贔屓されて能力の高い馬があてがわれ、岡部のようなバックボーンのない者よりもいい成績を収めた。 |
| その結果岡部は成績の悪い者を集めた班に振り分けられた。 |
| 岡部は一矢報いるために能力の著しく劣る馬を調教し、成績優秀者の馬に劣らぬ高いパフォーマンスを発揮させることに成功した。 |
| 岡部は教官の贔屓によって無意識のうちにハングリー精神が培われたとしている岡部1992、184-186頁。 |
下積み時代
| 馬事公苑修了後1年間の修業期間を経て、1967年に岡部は騎手免許を取得して鈴木清厩舎所属騎手としてデビューする。 |
| 岡部が騎手になった当初の中央競馬界には徒弟制度が色濃く残されており、見習騎手の頃には庭の掃除、草むしり、使い走り、靴磨き岡部は騎手として成功した後も「誰にも負けない特技」として靴磨きを挙げた(岡部1997、97頁)。 |
| などに従事した。 |
| 岡部は当時存在した徒弟制度について、「縦の世界」の中で先輩から技能面や精神面の指導を受け、競馬界のルールを学びとる一例として岡部は若手時代に先輩から指導された、騎乗した日の夜に布団の中でレースを回顧する習慣が38年間の騎手生活を通して役に立ったと回顧している(岡部2006、92頁)。 |
| ことができる点を肯定的に評価し、もう一度下積みから始めることに何の抵抗もないと述べている岡部2006、89-99頁。 |
| デビュー当初、岡部は兄弟子であり鈴木厩舎の主戦騎手であった高橋英夫を目標とした。 |
| 高橋も岡部の騎手としての資質に加え研究熱心さを高く評価して親身に指導し、騎手を引退し調教師となった後は岡部を主戦騎手として起用することが多かった(岡部の重賞初勝利は高橋の管理馬によるものである)。 |
| そのため、両者の関係を師弟関係に近いととらえる者もいる『週刊Gallop』2005年3月20日号、11頁。 |
| 島田2008、24頁。 |
| 『週刊Gallop』2005年3月20日号、12頁。 |
日本国外への遠征(1971年以降)
| 岡部は1971年の年末にアメリカを訪れ、競走馬のたくましさ、レースの激しさ、競馬関係者の情熱、騎手の技術水準の高さを目の当たりにし、以後は常にアメリカの競馬を目標とするようになった。 |
| 岡部は英会話を学びつつアメリカを中心に日本国外への遠征を繰り返し、1972年にアメリカで日本国外の競馬での初騎乗を経験して以降、日本国外12か国西ドイツ、アメリカ、イギリス、ドバイ、マカオ、アイルランド、ブラジル、フランス、トルコ、香港、ニュージーランド、カナダ。 |
| で133のレースに騎乗し、8か国で13の勝利アメリカ5勝、ドイツ2勝、イギリス、ドバイ、マカオ、アイルランド、ブラジル、フランス各1勝。 |
| を挙げた岡部2006、144-147頁。 |
| 1985年7月に西ドイツで日本国外での競馬における初勝利を挙げ、同年8月にはアメリカで日本人騎手として初めての勝利を挙げた。 |
| 重賞競走では1994年にメディパルに騎乗しマカオのマカオダービーを優勝して日本人騎手としては初めて日本国外のダービー優勝を達成。 |
| さらに1998年にはタイキシャトルに騎乗しフランスのジャック・ル・マロワ賞を優勝し、悲願であった日本国外の国際G1制覇を成し遂げた。 |
| 日本の騎手が日本国外へ遠征し、騎乗することの先駆者的存在といわれる競馬黄金の蹄跡、58頁。 |
| 岡部幸雄全史、77頁。 |
| 松山康久は、国際化の先駆けとなった意味で「日本競馬の顔」であると評した(『週刊Gallop』2005年3月20日号、12頁)。 |
| 岡部が引退した際、武豊は岡部が日本国外で騎乗したことに刺激を受けたとコメントしている『週刊Gallop』2005年3月20日号、14頁。 |
| 武は1994年、岡部について次のように語っていた。 |
| アメリカへの遠征は、岡部に大きな影響を与えた。 |
| たとえば岡部のモンキー乗りはアメリカ式のモンキー乗りの要素日本よりも鐙が短く、つま先で鐙に足をかけるため、重心が前方にある。 |
| また、手綱を短めに持つを取り入れたものである岡部1997、128-129頁。 |
| 岡部曰くアメリカでのやり方を模倣して日本で実践したことには当初「アメリカかぶれ」などと批判も浴びせられたものの、その後スタンダードになったものが数多くある岡部2006、145-151頁。 |
| さらに自らが模倣するだけでなく、日本の競馬関係者及び競馬界に対しアメリカに倣うよう数々の提言を行った具体例として硬く(馬場の含水量が少なく)なりがちな日本の馬場の改善(岡部1991、70-72頁)、耳覆いのついたメンコを使用することへの苦言(岡部1995、33-34頁)、ゲートボーイ(発馬機内で馬に付き添う係員)の導入(岡部1991、34-36頁)、エージェント制度の確立(岡部1991、67-69頁)、ハンデキャップ競走において強い馬に重い負担重量を課すのではなく弱い馬に軽い負担重量を課すこと(岡部1993、152-153頁)。 |
| アメリカ遠征の影響は技術面のみならず精神面にも及び、遠征を繰り返すもなかなか勝利を挙げられないでいた岡部に対してクリス・マッキャロンが贈った言葉「Takeiteasy」(日本語に訳すると「無理をしないで気楽にいこう」という意味)は、岡部の座右の銘となった岡部2006、196-197頁。 |
| 騎手時代の岡部はこの言葉を思い出して潜在的な恐怖心と馬に乗る楽しさとのバランスを保った(岡部1992、84-85頁)。 |
| さらに岡部は、遠征中に日常会話を交わす中で、日本国外の競馬関係者と比べて社会一般のルールや常識が身についていないことを自覚するようになった。 |
| 岡部は「よきゴルファーである前によき社会人であれ」というジャック・ニクラスの言葉を引き合いに出し、自戒を込めつつ、日本の競馬関係者岡部は日本の競馬界には専門分野における技能が優れていれば社会人として常識が欠けていてもいいという風潮があると分析している。 |
| に対して専門分野にのみ偏って社会常識や判断力を失ってはならないと警鐘を鳴らすようになった岡部1992、152-156頁。 |
シンボリルドルフでクラシック三冠を達成(1984年)
| 1984年、岡部はシンボリルドルフに騎乗して中央競馬牡馬クラシック三冠を達成した。 |
| 、日本でつくり出せるサラブレッドの最高峰を極めた馬」と評し岡部1992、11頁。 |
| 、騎手生活が38年間に及んだのはもう一度シンボリルドルフのような馬に巡り合いたいと思ったからだと述べている岡部2006、47-48頁。 |
| 競馬ファンの多くもシンボリルドルフを岡部のベストパートナーとみなしている『週刊Gallop』のアンケートによる(岡部幸雄全史、92頁)。 |
| 騎手引退後に同じくクラシック三冠馬のディープインパクトとシンボリルドルフの比較においては、ディープインパクトにはシンボリルドルフに匹敵する能力があるとしつつ、欠点の少なさにおいてはシンボリルドルフの方が上ディープインパクトにはスタートの拙劣さや気性面に問題があると指摘している。 |
| ディープインパクトの出走した凱旋門賞の解説者としてNHKに出演した際には最後の直線で「まだまだっ(まだ仕掛けるな、という意)」「大丈夫、大丈夫!」「頑張れ!」などの岡部の叫びが実況のマイクに拾われ話題となった。 |
フリー騎手のさきがけとなる(1984年)
| 1984年10月1日、岡部は特定の厩舎に所属しないフリーランスの騎手となったなお、1946年に渡辺正人が日本初のフリー騎手となって以降、日本にフリー騎手の概念は存在した(渡辺以外の例を挙げると、1983年10月に小島太が、1984年2月に武邦彦がフリー騎手となっている)が、特定の厩舎や馬主に拘束されないという意味でのフリー騎手は岡部が初めてであった(例えば前述の小島太は、さくらコマースの名義で活動していた馬主の全演植と騎乗契約を結んでいた(『優駿』2007年9月号、140頁)。 |
| 動機は、所属厩舎が管理する馬への騎乗を優先させて騎乗したい馬に乗れない一例として岡部は、1983年の第43回桜花賞で鈴木厩舎が管理していた競走馬への騎乗を優先させたためにダイナカールに騎乗することができなかったことを挙げている(岡部2006、69頁)。 |
| 岡部がフリー騎手となったことは他の騎手に影響を与え、1990年代にはトップジョッキーがフリーであることは一般的な事柄となった競馬黄金の蹄跡、60頁。 |
| エージェントについても岡部の行動は他の騎手に影響を与え、2006年にJRAが騎乗依頼仲介者として公認するほど普及した岡部2006、72-74頁。 |
| なお、フリー騎手となった後の岡部に中央競馬の重賞優勝馬への騎乗を依頼した調教師は、藤沢和雄(34勝)、伊藤雄二(10勝)、松山康久(8勝)、矢野進(8勝)、野平祐二(6勝)、浜田光正(6勝)、田中清隆(4勝)、中野隆良(3勝)、中村好夫(3勝)、沢峰次(2勝)、田中和夫(2勝)、奥平真治(2勝)、清水利章(2勝)、荻野光男(2勝)、松元省一(2勝)、小島太(2勝)、山内研二(2勝)、後藤由之(2勝)、内藤一雄、佐藤林次郎、高橋祥泰、瀬戸口勉、武邦彦、南井克巳、柄崎義信、畠山重則、湯浅三郎、伊藤正徳、小西一男、国枝栄、工藤嘉見、新関力、勢司和浩(各1勝)(カッコ内は岡部騎乗による重賞勝利数)。 |
| 岡部は1つのレースに複数の騎乗依頼が来た場合、能力があると認めながらもそのレースでは騎乗できない競走馬への依頼を、自らを慕う柴田善臣、田中勝春に振り向けた。 |
騎手生活最大の落馬事故(1988年)
| 1988年6月25日、岡部は福島競馬場でのレース中に落馬事故に見舞われ、左腕の握力が3キロに低下する重傷を負った。 |
| 岡部は自分の未来は自分の意思で決めるという信念を持ち、競馬関係者が重んじることの多いジンクスや運といった概念を好まず、特定の宗教を信じることのない人間であったが、事故後3週間が過ぎても回復の兆しが見えない中で騎手生命の終わりを意識し、神社に参拝して回復を祈るほどの精神状態に追い込まれた。 |
関東のトップジョッキーとして活躍
| 岡部はデビュー2年目の1968年に関東リーディング6位となり、その後も1976年に関東のリーディングジョッキーになるなど、リーディング上位を維持し続けた。 |
| し、美浦トレーニングセンター所属の調教師なお、美浦トレーニングセンター所属で岡部に(1984年のグレード制導入前の)八大競走および(グレード制導入後の)GI競走優勝馬の騎乗を依頼した調教師は、成宮明光(カネヒムロ)・中野隆良(グリーングラス・クシロキング)・高橋英夫(ダイナカール)・野平祐二(シンボリルドルフ)・沢峰次(ダイナコスモス)・奥平真治(レオダーバン)・藤沢和雄(シンコウラブリイ・バブルガムフェロー・シンコウキング・タイキブリザード・タイキシャトル・シンボリクリスエス)・松山康久(ジェニュイン)・田中清隆(シンコウウインディ・グルメフロンティア)・小島太(イーグルカフェ)。 |
| だけでなく栗東トレーニングセンター所属の調教師なお、栗東トレーニングセンター所属で岡部に(1984年のグレード制導入前の)八大競走および(グレード制導入後の)GI競走優勝馬の騎乗を依頼した調教師は、浅見国一(ケイキロク)・瀬戸口勉(オグリキャップ)・武邦彦(バンブーメモリー)・荻野光男(ヤエノムテキ)・松元省一(トウカイテイオー)・浜田光正(ビワハヤヒデ)・南井克巳(ウイングアロー)。 |
| 1995年には騎手として中央競馬史上最多となる通算2017勝を達成した(GI優勝時に騎乗していた競走馬については#GI競走および八大競走優勝馬、GIを含む優勝した重賞競走の一覧については#年度別成績(中央競馬のみ)を参照)。 |
左膝の故障からの復帰(2004年1月)
| 晩年の岡部は左膝の痛み岡部曰く、膝の痛みは1988年に落馬事故を経験して以降感じるようになった(岡部幸雄全史、128頁)。 |
| 1年近くにわたるリハビリを経て2004年1月25日の中山競馬で復帰なお、一度リハビリを終えて調教に復帰後の11月にゲート練習中に転倒して右膝を骨折し、復帰が遅れるアクシンデントがあった。 |
| 復帰初日には丸刈り姿岡部が騎手デビュー後丸刈りとなったのは、1984年2月18日の東京競馬第8競走中に向こう正面で杉浦宏昭の騎乗馬が斜行したことに激高して杉浦を鞭で殴りつけ、そのことへの反省から頭を丸め(岡部1991、84頁)て以来であり、「ゼロからのスタート」という意味が込められていた(岡部幸雄全史、116頁)。 |
騎手引退(2005年3月)
| これに伴って、2005年3月20日には中山競馬場で引退セレモニーが行われ、同日の第10競走に予定されていた「東風ステークス」は最終12競走に変更の上、レース名も「岡部幸雄騎手引退記念競走」と変更されて施行された岡部本人は3月10日付で騎手免許を返上していることもあり騎乗せず、優勝馬の関係者らに対する賞品のプレゼンターとして表彰式に出席した。 |
| セレモニーでは後輩騎手である横山典弘らの提案で岡部を神輿に乗せ、騎手一同で担いでパドックを周回した岡部幸雄全史、10頁。 |
騎手引退後
| 引退後は2006年10月から、「JRAアドバイザー」として裁決委員や審判業務を行う決勝審判委員などに対しての意見や助言、若手騎手に対する技術指導を行うアドバイザーを務める傍ら、フリーランスの競馬評論家的活動を行っている。 |
| 2007年4月22日に開催した元騎手によるエキシビジョンレース、「第1回ジョッキーマスターズ」に出場出場にあたっては、美浦トレーニングセンターで競走馬の調教時間外にトレーニングを行った()。 |
日本国外・地方競馬における成績
| 日本国外通算133戦13勝(アメリカ5勝、ドイツ2勝、イギリス、ドバイ、マカオ、アイルランド、ブラジル、フランス各1勝)。 |
表彰
| 優秀騎手賞(1969年、1970年-1972年、1975年-1981年、1983年、1985年-2002年)。 |
| フェアプレー賞(1985年、1986年、1990年、1994年、1996年、1998年、2000年、2002年、2004年)。 |
馬優先主義
| グリンモリーの新馬戦に騎乗し勝利した岡部は高い素質を感じ、脚部不安を抱えていた同馬の将来のために休養を取らせることを進言したが聞き入れられず、同馬は重賞の新潟3歳ステークスを優勝したものの故障を発症し、その後重賞を優勝することはなかった(競馬SLG種牡馬名鑑3、39頁)。 |
| 具体例として1995年の優駿牝馬トライアルの4歳牝馬特別を優勝した管理馬サイレントハピネスを、同馬の体調が良くなかったことと肉体的・精神的に馬が完成していない時期に過酷なレースをさせたくないとの理由から優駿牝馬に出走させなかった。 |
競馬関係者からの評価
| シンボリルドルフの調教助手を務め、調教師となった後に多くの競走馬の主戦騎手を岡部に任せた藤沢和雄は、岡部が引退を発表した際に「今の藤沢和雄はジョッキー(厩舎関係者の間での岡部の通り名)の存在なくしてはなかった」とコメントした『週刊Gallop』2005年3月20日号、12頁。 |
| 武豊・柴田善臣・田中勝春・坂本勝美は、岡部をあらゆる面ですべての騎手の手本・目標であると評した『週刊Gallop』2005年3月20日号、13-14頁。 |
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1948年
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誕生岡部 幸雄(おかべ ゆきお、-)は、日本... |
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1964年
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馬事公苑騎手養成所に入学 |
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投票数
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岡部幸雄さんについてのひとこと紹介
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