| 1890年(0歳)-11月に東京四谷右京町で近衛砲兵連隊付大尉、岸田庄藏・楠子の長男として生まれる。 |
| 1897年(7歳)-東京四谷尋常小學校に入学。 |
| 1899年(9歳)-父の転勤に伴い、名古屋市棣棠尋常小學校(現・名古屋市立山吹小学校)へ転校。 |
| 1902年(12歳)-名古屋第二高等小學校に入学。 |
| 1904年(14歳)-9月、名古屋陸軍地方幼年學校に入学。 |
| 1907年(17歳)-9月、東京にある陸軍中央幼年学校に進学するが、軍隊生活・軍人の気風に反発を覚える。 |
| この頃より、フランス文学に興味を持つようになる。 |
| 1910年(20歳)-6月、幼年学校を卒業し、士官候補生として久留米歩兵第48連隊に配属となる。 |
| 12月、陸軍士官学校へ進学する。 |
| 1912年(22歳)-6月、士官学校を卒業。 |
| 7月、見習士官として久留米連隊に復帰。 |
| 12月、少尉に任官。 |
| 1914年(24歳)-11月、休職願を出して、上京。 |
| 1917年(27歳)-4月、東京帝国大学仏文科選科に入学。 |
| 鈴木信太郎・辰野隆・豊島与志雄らと知悉を得る。 |
| 1919年(29歳)-8月、渡仏を計画し、貨物船にて神戸より台湾へ渡航。 |
| 高雄から香港へ渡る。 |
| 同地にて三井物産仏印出張所長付通訳のを得、ベトナム北部の港湾都市ハイフォンに赴任、そこで3ヵ月を過ごした後、マルセイユへ向けて渡航。 |
| 1920年(30歳)-1月、マルセイユに到着後、パリへ移動。 |
| 生活のため、はじめ日本大使館、後に国際連盟事務局に嘱託として勤務。 |
| フランス演劇史を研究する。 |
| 1922年(32歳)-12月、父の訃報を受け、帰国準備にかかる。 |
| 1923年(33歳)-7月、帰国。 |
| 中野野方町に住む。 |
| 8月、豊島与志雄に処女戯曲『古い玩具』を見せ、意見を求め山本有三に紹介される。 |
| 1924年(34歳)-山本有三編集の「演劇新潮」3月号に『古い玩具』を発表し、注目される。 |
| 戯曲『チロルの秋』を「演劇新潮」9月号に発表。 |
| 1925年(35歳)-戯曲『軌道』を「演劇新潮」新年号、戯曲『命を弄ぶ男ふたり』を「演劇新潮」2月号、戯曲『ぶらんこ』を「演劇新潮」4月号、戯曲『紙風船』を「文藝春秋」5月号に発表。 |
| 1927年(37歳)- 鳥取県米子市出身の村川秋子 |
| 1929年(39歳)-戯曲『牛山ホテル』を「中央公論」新年号に発表。 |
| 1930年(40歳)-戯曲『ママ先生とその夫』を「改造」10月号に発表。 |
| 娘・岸田今日子が生まれる。 |
| 1931年(41歳)-戯曲『淺間山』を「改造」7月号に発表。 |
| 1935年(45歳)-戯曲『歳月』を「改造」4月号に発表。 |
| 1936年(46歳)-長編小説『落葉日記』を「婦人公論」6月号より連載。 |
| 1937年(47歳)-9月6日、久保田万太郎、岩田豊雄と共に劇団文学座を結成する。 |
| 10月、文藝春秋の特派員となり北支戦線視察に赴く。 |
| 1938年(48歳)-3月、明治大学文芸科長となり、演劇・映画科を新設する。 |
| 1940年(50歳)-10月、明治大学文芸科長を辞し、大政翼賛会文化部長に就任する。 |
| 1942年(52歳)-7月、大政翼賛会の官僚化を不満とし、組織改編を機に、文化部長を辞任する。 |
| 1949年(59歳)-3月、次女岸田今日子、文学座研究所に入所。 |
| 戯曲『女人渇仰』を「文學界」9月号に発表。 |
| 1950年(60歳)-「演劇」と「文学」との立体化を目指し『雲の会』を結成。 |
| 三島由紀夫、福田恒存、木下順二、千田是也、小林秀雄らが参加。 |
| この会がきっかけになって、椎名麟三、石川淳、中村光夫、大岡昇平、石原慎太郎、武田泰淳といった小説家が戯曲を書き、舞台化された。 |
| 1951年(61歳)-戯曲『カライ博士の臨終』を「世界」新年号に発表。 |
| 1952年(62歳)-3月、小説執筆中に脳神経麻痺を引起し、東大病院沖中内科に入院。 |
| 1954年(64歳)-3月4日、神田一ツ橋講堂で舞台稽古を監督中に、再び脳卒中で倒れる。 |
| 東大病院沖中内科にて手当てを受けたが、翌日5日午前6時32分、永眠。 |
| 8日、文学座にて無宗教による告別式が執り行われた。 |
| 没後-1954年9月より『岸田國士全集』(全10巻、新潮社)が出され翌55年に完結した。 |
| 1956年に『岸田國士長編小説全集』(全12巻、鱒書房)が刊行された。 |