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つながりの強いひと
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島津斉興
親
江戸時代の外様大名。島津氏第27代当主。薩摩藩の第10代藩主。 |
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島津久光
江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本の政治家。幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進した。明治政府の内閣顧問、左大臣。... |
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阿部正弘
江戸時代末期の備後福山藩第7代藩主。江戸幕府老中首座。幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した。阿部家宗家11代。 |
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島津氏
資料種別 : 一般書 書 名 : 琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻 シリーズ名 : 著者名 : 上里 隆史/著 出版者 : ボーダーインク ... |
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島津忠義
日本の武士・薩摩藩の第12代(最後の)藩主で、島津氏第29代当主。官位は従一位参議。勲等は勲一等。初名は忠徳であったが、江戸幕府第14代将軍徳川家茂の偏... |
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島津重豪
江戸時代の島津氏第25代当主。薩摩藩の第8代藩主。いわゆる「蘭癖」大名のひとりとされる。 |
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島津忠剛
江戸時代後期の今和泉島津家第10代当主。第9代薩摩藩主・島津斉宣の七男。母は籌姫(荒田常明の娘)。天璋院(篤姫)の実父。 |
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大久保利通
日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また維新の十傑... |
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伊達宗城
友達
日本の大名・政治家。宇和島藩8代藩主。爵位は伯爵。大身旗本・山口直勝の次男。母は蒔田広朝の娘。正室は鍋島斉直の娘・益子。祖父・直清は宇和島藩5代藩主... |
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徳川斉昭
友達
江戸時代末期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。 |
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池田斉敏
備前国岡山藩の第7代藩主。岡山藩池田家宗家9代。 |
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松平春嶽
友達
幕末から明治時代初期にかけての大名、政治家。第16代越前福井藩主。春嶽は号で、諱は慶永(よしなが)である。他に礫川、鴎渚などの号を用いたが、生涯通し... |
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池田治道
母
江戸時代後期の大名。因幡鳥取藩6代藩主。鳥取藩池田家宗家8代。5代藩主池田重寛の次男。母は側室の村上氏。正室は仙台藩主・伊達重村の娘・生姫暾子(輪光院... |
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松平慶永
松平慶永 まつだいら よしなが
文政11年9月2日 〜明治23年6月2日 (1828〜1890) 写真1:近世名士写真 其2 白黒 ; 27.0×21.0cm 東京生まれ。幕末の... |
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島津光久
島津光久(しまづみつひさ)は江戸時代の外様大名、薩摩藩第2代藩主。 |
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島津斉宣
江戸時代の島津氏第26代当主。薩摩藩の第9代藩主。天璋院(篤姫)の祖父である。 |
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天璋院
江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定... |
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徳川慶勝
友達
江戸時代後期の大名。尾張藩(名古屋藩)14代・17代藩主。明治時代初期の政治家。尾張藩支藩であった美濃国高須藩主・松平義建の次男。母は徳川治紀の娘。兄... |
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調所広郷
調所広郷(ずしょひろさと、安永5年2月5日(1776年3月24日)-嘉永元年12月19日(1849年1月13日))は江戸時代後期の薩摩藩の家老である。諱ははじめ恒篤、後... |
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プロフィール
- 島津斉彬とは
- 略歴
- 生い立ちとお由羅騒動
- 藩主時代
- 最期
- 人物・逸話
- 家系
- 徳川家との関係
- 官職位階履歴
- 参考文献
- 関連サイト
島津斉彬(しまづなりあきら、文化6年3月14日(1809年4月28日)‐安政5年7月16日(1858年8月24日))は、江戸時代後期から幕末の外様大名で、薩摩藩の第11代藩主(在任:嘉永4年(1851年)-安政5年(1858年))。 島津氏の第28代当主である。
略歴
| 第10代藩主・島津斉興の長男。 |
| 母は因幡鳥取藩主・池田治道の娘・弥姫(周子)。 |
| 没後に贈正一位。 |
| 神号は照国大明神。 |
| 薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人である。 |
| 西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた。 |
生い立ちとお由羅騒動
| 文化6年(1809年)3月14日、第10代藩主・島津斉興の嫡男として江戸薩摩藩邸で生まれる。 |
| 母・弥姫は「賢夫人」として知られた女性で、この時代には珍しく、斉彬はじめ弥姫出生の3人の子供は乳母をつけず、弥姫自身の手で養育された。 |
| また、曽祖父である第8代藩主・島津重豪の影響を受け、洋学に興味をもつ。 |
| これが周囲の目に蘭癖と映ったことが皮肉にも薩摩藩を2分する抗争の原因の一つになったとされる。 |
| 斉彬が藩主に就任となれば、重豪のように公金を湯水のごとく費やし藩財政の困窮に一層の拍車をかけかねないと、特に藩上層部に心配され、斉興は斉彬が40歳を過ぎてもまだ家督を譲らなかった。 |
| そして、家老・調所広郷(笑左衛門)や斉興の側室・お由羅の方らは、お由羅の子で斉彬の異母弟に当たる島津久光の擁立を画策した。 |
| 斉彬派側近は久光やお由羅を暗殺しようと計画したが、情報が事前に漏れて首謀者13名は切腹、また連座した約50名が遠島・謹慎に処せられた。 |
| 斉彬派の4人が必死で脱藩し、重豪の子で筑前福岡藩主・黒田長溥に援助を求めた。 |
| 長溥の仲介で、斉彬と近しい幕府老中・阿部正弘、伊予宇和島藩主・伊達宗城、越前福井藩主・松平春嶽(慶永)らが事態収拾に努めた。 |
| こうして嘉永4年(1851年)2月に斉興が隠居し、斉彬が第11代藩主に就任したのである。 |
| この一連のお家騒動はお由羅騒動(あるいは高崎崩れ)と呼ばれている。 |
藩主時代
| 藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。 |
| 嘉永4年(1851年)7月には、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し藩士に造船法などを学ばせたほか、安政元年(1854年)、洋式帆船「いろは丸」を完成させ、西洋式軍艦「昇平丸」を建造し徳川幕府に献上している。 |
| 黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」として結実させた。 |
| 日の丸を日本船章にすべきだと幕府に献策し、すでに浦賀奉行からも同様の献策を受けていた幕府は、徳川斉昭の後押しもあってこれを採用した。 |
| 以後、日の丸は日本の国旗となってゆく。 |
| また、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興した。 |
| また、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用して朝廷での政局に関わる。 |
| 斉彬は、松平春嶽・伊達宗城・山内容堂・徳川斉昭・徳川慶勝らと藩主就任以前から交流をもっていた。 |
| 斉彬は彼らとともに幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革(安政の幕政改革)を訴えた。 |
| 特に斉彬は黒船来航以来の難局を打開するには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張した。 |
| また、嘉永6年(1853年)11月にすでに大石寺に帰依していた年下の大叔父で八戸藩主・南部信順の強い勧めにより、養女である篤姫とともに、現在の日蓮正宗総本山大石寺に帰依した。 |
| 安政4年(1857年)の阿部正弘の死後、安政5年(1858年)、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。 |
| 第13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子がなかったため、宗城ほか四賢侯、徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜(徳川慶喜)を推し、篤姫を近衛家の養女とした上で家定正室として嫁がせるなどしている。 |
| 斉彬は、公家を通じて慶喜を擁立せよとの内勅降下を請願している。 |
| 一方、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推した。 |
| 井伊は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する安政の大獄を開始する。 |
| 結果、慶福が第14代将軍・徳川家茂となってしまい、斉彬らは将軍継嗣問題で敗れた。 |
最期
| 斉彬はこれに対し、藩兵5,000人を率いて抗議のため上洛することを計画した。 |
| しかし、その年の7月8日、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病し、7月16日に死去した。 |
| 享年50(満49歳没)。 |
| 死因は、当時日本で流行していたコレラという説が有力であるが、そのあまりに急な死は、嫡子がいずれも夭逝していることとも併せ、父・斉興や異母弟・久光またはその支持者の陰謀であるとの噂もあった。 |
| みなもと太郎は『風雲児たち』において、薩摩ではコレラの流行が既に終わっていること、症状悪化の緩やかさがコレラの症状に該当しないこと、「異常なまでの心臓の衰弱」が、赤痢・腸チフスなど、コレラ以外の病気を死因とする他の病死説にも当てはまらないことを指摘し毒殺説を暗に指示する立場をとり、当初赤痢説を支持していた海音寺潮五郎が『西郷隆盛』の第二版から毒殺説に転じたことも紹介している。 |
| 参考「風雲児たち 幕末編 15巻」(リイド社)。 |
| 法名:順聖院殿英徳良雄大居士。 |
| 墓所:鹿児島県鹿児島市池之上町の玉龍山福昌寺跡。 |
| 鹿児島市に鎮座する照国神社の祭神でもある。 |
| 斉彬の死後、その遺言により、久光の長男・島津忠義が後を継いだ。 |
| なお、遺言では忠義に斉彬の長女を嫁がす条件で仮養子とし、四男・哲丸を後継者とするように言っており、哲丸と忠義との相続争いを未然に防止する内容であった。 |
人物・逸話
| 斉彬により着手された殖産興業の一部は現在・尚古集成館(鹿児島県鹿児島市)に展示されている。 |
| 特に、ガラス製品製造のうちガラス工芸品は薩摩の紅ビードロとして珍重され、大名間の贈り物としても用いられた品。 |
| 維新後その技術は断絶し、当時のものは希少な骨董として高い価値をもつ。 |
| 近来になり復元・復興に成功し、現在薩摩切子の名で生産されている。 |
| 大名身分をもつ者の中では最も早く写真に撮影された人物であるといわれている。 |
| また撮影技術自体にも興味をもち、城の写真を自ら撮影するなど、好奇心に富んだ人物であったといわれている。 |
| 斉彬が撮影した写真は、当時の技術では上出来であったと伝えられている。 |
| 松平慶永(福井藩主)、山内容堂(土佐藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)らと並んで幕末の四賢侯と称された。 |
| しかし慶永は後世において、「大名第一番の御方であり、自分はもちろんのこと、水戸烈侯、山内容堂、鍋島直正公なども及ばない」と語ったといわれる。 |
| 現在の日本の国旗である日章旗を初めに提案したのは斉彬だったといわれる。 |
| 西郷隆盛ら後の維新志士らから慕われ、西郷などは斉彬の死去を知ると号泣し、後を追って殉死しようとしたほどである。 |
| 斉彬の功績は明治時代を築くことになる人材を育て上げたこともその一つといえる。 |
| 娘・篤姫とともに静岡県富士宮市大石寺・遠信坊(日蓮正宗総本山)の檀越であったが、大石寺の教義に随順し切れたかどうかは研究の余地を残す。 |
| 斉彬はお由羅を大変嫌っていたが、お由羅及びその一派の粛清までは考えていなかったという。 |
| 異母弟・久光についても嫌っておらず、むしろ家督相続後は重宝すらしていた。 |
| 理化学に基づいた工業力こそが西洋列強の力の根源であることを見破り、自身もアルファベットを学ぶなど高い世界認識をもっていた。 |
| 『島津斉彬言行録』岩波文庫、復刊1995年、序文は牧野伸顕には「君主は愛憎で人を判断してはならない」、「十人が十人とも好む人材は非常事態に対応できないので登用しない」など、近代的な人材登用策を示していたことが覗える記述もある。 |
家系
| ファイル:ShimaduNariakiraFamily.jpg|thumb|200px|斉彬が撮影したといわれる斉彬の娘たちの写真。 |
| 左から典姫・暐姫・寧姫。 |
| 父:島津斉興。 |
| 母:弥姫(周子)(池田治道女)。 |
| 候姫(山内豊熙正室)。 |
| 諸之助(文化14年-文政2年、島津久光と同じ年に誕生)。 |
| 珍之助(文政2年-文政3年)。 |
| 正室:恒姫(一橋家徳川斉敦女)。 |
| 五男・虎寿丸(儔次郎)(嘉永2年閏4月2日(1849年5月23日)-嘉永7年閏7月24日(1854年9月16日)、法号「覚法院」、近衛忠熙の娘・信君婚約者)。 |
| 三女・暐姫(嘉永4年正月16日(1851年2月16日)-明治2年5月24日(1869年5月5日)、島津忠義正室)。 |
| 四女・典姫(嘉永5年5月27日(1852年7月14日)-明治36年(1903年)、島津珍彦室)。 |
| 五女・寧姫(嘉永6年10月30日(1853年11月30日)-明治12年(1879年)5月24日、島津忠義継室)。 |
| 四男・島津篤之助(嘉永元年11月23日(1848年12月18日)-嘉永2年6月20日(1849年8月8日))。 |
| 次男・島津寛之助(弘化2年7月28日(1845年8月30日)-嘉永元年5月10日(1848年6月10日))。 |
| さらに、甥で養嗣子の忠義に嫁いだ娘2名は後に難産で死去し、無事出産を迎えて命を長らえたのは典姫ただ一人であった。 |
官職位階履歴
| 文化9年(1820年)8月15日、薩摩藩世嗣となる。 |
| 文政4年(1821年)3月4日、元服。 |
| 文政7年(1825年)11月21日、将軍徳川家斉の偏諱を受け、斉彬と改める。 |
| 天保3年(1832年)5月18日、豊後守に遷任。 |
| 天保5年(1835年)12月16日、左近衛権少将に転任。 |
| 天保14年(1843年)2月9日、修理大夫に転任。 |
| 嘉永4年(1851年)。 |
| 2月2日、藩主となる。 |
| 2月3日、薩摩守に遷任。 |
| 嘉永5年(1852年)12月16日、従四位上に昇叙し、左近衛権中将に転任。 |
| 文久2年(1863年)11月12日、追贈従三位権中納言。 |
| 文久3年(1864年)5月12日、照国大明神の神号を贈られる。 |
| 明治2年(1869年)11月22日、追贈従一位。 |
| 明治34年(1901年)5月16日、追贈正一位。 |
参考文献
| 田村省三 「島津斉彬-集成館事業の推進」、『九州の蘭学越境と交流』、274-280頁、 ヴォルフガング・ミヒェル・鳥井裕美子・川嶌眞人共編。 |
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1809年
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第10代藩主・島津斉興の嫡男として江戸薩摩藩... |
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1820年
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薩摩藩世嗣となる |
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