| オウム真理教(現アーレフ)に対して終始好意的な評価をし、地下鉄サリン事件発生後もオウム真理教の関与を否定するコメントをマスコミに発表し、警察の強制捜査を批判するなどして擁護をした。 |
| これらの言動が毀誉褒貶を招き、批判や中傷を受けることとなった。 |
| 島田が初めてオウム真理教について言及したのは、1990年7月刊行『別冊宝島』114号に掲載された「オウム真理教はディズニーランドである」という論文である。 |
| 1991年9月、テレビ朝日系列で放送された『朝まで生テレビ』で宗教問題が取り上げられ、島田は麻原をはじめ上祐史浩などのオウム幹部らとともに出演した。 |
| その番組を踏まえて『週刊朝日』1991年10月11日号に「平成の『宗論』を読む」という記事を寄稿。 |
| オウム真理教は仏典の研究や修行に打ち込み、仏教の伝統を正しく受け継いでいる真摯な教団であると評価している。 |
| 「オウムは必ず、仏典に立ち返って、自分たちの教えを説いている。 |
| オウムは最初はヨーガから始まったが、その後は、仏教の本来のスタイルに近づいている。 |
| 日本の仏教は世俗化しているためにオウムが特異な集団に見えるが、むしろ仏教の伝統を正しく受け継いでいる。 |
| パーリ語の仏典を訳したりして、勉強している点も、それを裏づけている」『週刊朝日』1991年10月11日号「平成の『宗論』を読む」とオウムを論評した。 |
| 1992年に教え子の家族とオウム真理教との間に起こったトラブルに遭遇する。 |
| 1992年11月14日、気象大学校で島田と麻原との対談講演が企画された。 |
| 島田は基礎演習の授業のなかで、興味があれば聞きにこないかと呼びかけ、当日見にきたのがA子だった。 |
| A子はその講演でオウムの信者からパンフレットをもらう。 |
| A子には十数年来、脳梗塞の後遺症に苦しんでいる父親がおり、1992年1月に電話をかけてきたオウム信者にそのことを話すと、附属病院への入院を熱心に勧められた。 |
| A子は母親とともに、附属病院の説明を受けに、近くにあったオウムの杉並道場へ出向いた。 |
| オウムの側からは父親を薬漬けにはしない、金もかからない、介護もリハビリもすると説得され、母親は入院に同意した。 |
| しかし、入院後も病状の回復が思わしくなく、退院させたいと考えたが、病院側が応じず、A子の母親は1992年暮れに島田に電話をかけて事情を説明した。 |
| 驚いた島田は病院に電話をかけ、院長の林郁夫に家族の意を伝えた。 |
| 林は患者の病状は回復しており、家族からの申し出があれば退院の話にも応じると回答した、ただし、林は島田のような立場の人間に仲介を依頼したことに対して露骨に不快感を示した。 |
| 島田はA子の母親に病院側は退院の申し出に応じる用意があるとだけ伝えた。 |
| その後、年が明けた1993年の2月末か3月初めに母親から手紙が送られてくる。 |
| 病院側との関係はさらに悪化し、入院中の夫からは離婚を承諾するよう書類が送られてきたというのである。 |
| 島田は事態があまりにもこじれており、林の示した不快感も気になっており、自分が介入しても、事態は余計にこじれるだけではないかと判断し、母親に対しては、離婚などの話については弁護士などの専門家に任せた方がいいのではないかとしたため、自分にできることは麻原に手紙を書くことくらいしかできないと書き送ったが、それ以上、連絡はなかった。 |
| 母親は、島田ならオウムに対して影響力を及ばされると考え、あるいはマスコミを通して、オウムを糾弾することを期待したのかもしれない。 |
| オウムの犯罪行為が明らかになった今日の現状から考えれば、より積極的に対処すべきだったかもしれない、と島田は著書の中で述懐している。 |
| 松本サリン事件がオウム真理教によるとの疑惑が報道され始めた1995年(平成7年)1月25日、第7サティアンを単独取材し、『宝島30』1995年3月号に同施設が「神聖な宗教施設」とする内容のレポートを発表マスコミが報道したオウム真理教=サリン事件犯人説の4つの状況証拠を検証し、信頼に値する証拠はほとんど提示されていないと、サリン事件へのオウム真理教の関与に否定的な見解を示した。 |
| 『宝島30』1995年3月号の特集「徹底検証!オウム真理教=サリン事件」した。 |
| 『宝島30』の記事の中で島田は、彼がかかわり合うようになってから現在までに、「オウム真理教は確実に変化をとげてきたように見受けられた」という。 |
| 「結局のところ、オウム真理教は、この4年間の間、より宗教教団らしい集団に発展してきたことになる。 |
| (中略)これから、オウム真理教という特殊な宗教教団は、どういった方向に進み、また社会とどのような関係を結んでいくことになるのだろうか。 |
| サリンとのかかわりよりも、重要なのはそういった点であるのかもしれない」と述べた上で、「何か具体的な証拠があるから彼らは疑われるのではなく、最初から疑惑が向けられる構造になっているのである」と結論づけている。 |
| この島田の主張に対して江川紹子は、松本サリン事件では7名の人が亡くなっており、多くの人が後遺症で苦しんでいることなどを上げて「サリンの問題は教団の行く末よりも後回しにされるような些細な問題であろうか」と疑問を呈している。 |
| また、宮崎県資産家拉致事件に代表されるようにオウム真理教は以前にも増して、お布施や信者集めに熱心になり、その手段もより大胆に荒っぽくなってきている。 |
| このような教団の「変化」には島田はほとんど目を向けず、オウム側の説明を無批判に受け入れているだけである、と江川は論評している。 |
| 第7サティアンの取材からまもなく地下鉄サリン事件が発生。 |
| 強制捜査で同施設にサリン製造プラントの存在が明らかになる。 |
| 地下鉄サリン事件前日の3月19日には島田裕巳宅爆弾事件が発生している。 |
| 山梨県上九一色村の教団施設周辺からサリンの残留物が検出され、脱出した元信者からも有機リン系の中毒患者が出ていることなど、警察はいくつもの証拠を得ていたが、地下鉄サリン事件から3日後の3月22日付の『東京新聞』で島田は、以下のようなコメントをしている。 |
| <(第七サティアンについて)島田氏は「私が見た限りでは宗教施設だった。 |
| カモフラージュしていれば別だが、そんな感じではなかった」ときっぱり。 |
| (中略)その閉鎖性については「麻原さんがいればオープンだが、いまの幹部では決断力が劣る」。 |
| そして「修行は外部の人には理解できない。 |
| 土地トラブルなどお布施には利害が絡むので、社会とあつれきを生むのは必然的だ。 |
| しかし、教団はゆっくり発展していく」とみる。 |
| 一連のサリン事件については「オウム側か、国家権力による謀略か分らないが(教団と)何らかの関係はあるようだ」。 |
| ただ、強制捜査については「法的にいろいろ問題がある。 |
| 情報がないのに、怪しい事実があるというだけで捜査したのではないか」と疑問視する>。 |
| 『宝島30』1995年6月号に『「罪深き」私にとってのオウム』と題する手記を発表。 |
| 上九一色村のオウム施設からは、サリン製造するための原料や施設も発見されており、警視庁は第7サティアンがサリン製造工場であったとほぼ断定していたが、島田はオウム真理教がなぜサリンを製造し、それを使用しなければならなかったのか、その動機についてはまだ見いだせない、としてサリン事件をオウム真理教の仕業であると決め付けてはいけない、との見解を示した『宝島30』1995年6月号所収 島田裕巳『「罪深き」私にとってのオウム』。 |
| また、同手記の中で島田は、「麻原教祖は今年の1月の初めに、1月18日ごろに神戸に地震が起こる(実際は1月17日)と予言しており」と述べているが、上記同号の中で山本弘が検証しているように、麻原彰晃は地震の予言などしておらず、麻原がそれまでしてきた「予言」はことごとく外れている『宝島30』1995年6月号所収 山本弘「オカルト科学兵器と世界最終戦争」。 |
| 板倉聖宣は、当時教団側が力を入れて宣伝していた麻原の予言的中説を無批判、検証なしに引用することは、オウム事件が解決したあとも占星術が当ったかのように話しつがれる危険性があることを指摘、批判をしている板倉聖宣『近現代史の考え方』P244-P246。 |
| 地下鉄サリン事件後、インタビューに訪れた江川紹子に対して島田は「オウムには興味ないもん」と語り、自分がオウム真理教に利用されていることを分かっていながら、教団の情報を得るためにオウムとの関係を保持しているのであると述べた。 |
| また、島田は「教団とは信頼関係はないが、麻原との個人的関係はある。 |
| 僕も悪い奴だとは思っていない。 |
| それにすがる人が出てきたので拡大した。 |
| (問題とされる点はあるが)麻原は関与していないと思う。 |
| 彼の考えている通りに信者がやっているかというと、それは違う」と語った。 |
| これに対し江川は、オウム真理教は麻原彰晃が絶対的な存在として君臨し、すべての方針が彼の指示によって決まる。 |
| 教団の隅から隅までを把握し、自分の意思を反映させなければ気が済まない麻原教祖の性格、教団の最も重大な特徴を見誤っている島田のこの指摘は、「宗教学者としての島田氏の致命傷だろう」と論評している江川紹子『「オウム真理教」追跡2200日』 P308-P309 P312-P313。 |
| それ以降、各種のメディアから島田に対する根拠のない批判や誹謗中傷が相次ぐ。 |
| 弁護士の滝本太郎は島田に「宗教学者を辞めろ」と発言。 |
| 日刊スポーツの一面で、島田が同教団から幹部用の教団名ホーリー・ネームを授かっている、学生をオウムの信者に勧誘したとなどと報じられ1995年9月25日付、大学から休職処分を受け最終的には大学教授の辞職へと追い込まれた。 |
| 島田は日刊スポーツを名誉毀損で提訴。 |
| 公判の過程で、日刊スポーツの記事には裏付けが一切取られていないことが明らかとなり、新聞社側に賠償金支払いと謝罪広告の掲載が命じられ、島田の全面勝訴となる。 |
| その後は東京大学先端科学技術のセンター特任研究員を経て、2008年(平成20年)4月より同センター客員研究員に就任。 |
| 著作活動を中心に活動している。 |