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李自成
引き継ぐ者
中国明末の農民反乱指導者。延安府米脂県(現在の陝西省延安)出身。明に対して李自成の乱と呼ばれる反乱を起こし、明を滅ぼしてから清が北京を占領するまで... |
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毅宗
毅宗(きそう)は西夏の第2代皇帝。父親が殺害されて1歳で即位。そのため母親の没蔵太后と実家の一族によって専横される。即位翌年の1048年に景宗の喪中を狙... |
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弘光帝
弘光帝(こうこうてい)は明朝(南明政権)の最初の皇帝。万暦帝の次男である朱常洵の長男。 |
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天啓帝
天啓帝(てんけいてい、1605年-1627年、在位:1620年-1627年)は中国明朝の第16代皇帝。諱は由校(ゆうこう)。廟号は熹宗(きそう)。日本では在位中の元号... |
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袁崇煥
明末の武将。字は元素。現広東省東莞出身で、生家は客家であった。その優れた軍略で遼東・遼西(現在の遼寧省南部)で後金の軍隊にたびたび勝利し、三国時代... |
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泰昌帝
泰昌帝(たいしょうてい1582年-1620年 在位1620年)は中国明朝の第15代皇帝。諱は常洛(じょうらく)。廟号は光宗(こうそう)。日本では在位中の元号を取っ... |
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隆武帝
隆武帝(りゅうぶてい)は明朝(南明政権)の第2代皇帝。明の太祖・洪武帝朱元璋の第23子、唐定王朱の8世孫にあたる(下記系図参照)。 |
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朱元璋
中国の明朝の創始者であり、初代皇帝である。廟号は太祖(たいそ)。諡号は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊德成功高皇帝。その治世の年号を取って、洪武... |
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呉三桂
中国明末、清初の軍人。清軍に対峙していたが李自成の北京占領に際して清に味方し、清の中国平定に尽力した。平西王として勢力を揮うが後に清に背き、三藩の... |
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万暦帝
明の第14代皇帝。姓は朱。諱は翊鈞(よくきん)。廟号は神宗。日本では治世時の元号を取って万暦帝と呼ぶことが一般的。諡は範天合道哲肅敦簡光文章武安仁止... |
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魏忠賢
中国、明朝時代の宦官。本名李進忠。直隸(今河北省)の出身。無頼の生活を送り、多額の借金を背負った末に一念発起して宦官となる。天啓帝の乳母に接近し、... |
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永楽帝
中国明朝の第3代皇帝。諱は棣(てい)。廟号は太宗(たいそう)であったが、嘉靖帝の時に成祖と改称。諡号は、啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝である... |
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鄭成功
鄭成功(ていせいこう、チェンチェンコン、、寛永元年/大明天啓4年7月14日(1624年8月27日)-大明永暦十六年5月8日(1662年6月23日))は中国明代の軍人、政... |
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順治帝
中国清王朝の第3代皇帝(在位1643年10月8日-1661年2月5日)。姓名は愛新覚羅福臨(アイシンギョロ・フリン)、廟号は世祖。在世時の元号順治を取って順治帝と... |
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ヌルハチ
中国後金の創始者(在位:1616年2月17日-1626年9月30日)。清の初代皇帝とされる。君主としての称号は満洲語でゲンギェン・ハン、モンゴル語でクンドゥレン・... |
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ドルゴン
清初の皇族。ヌルハチの14子。睿親王。順治帝の摂政となり、清が中華王朝となるにあたって指導力を発揮した。 |
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乾隆帝
清の第6代皇帝(在位1735年10月8日-1796年2月9日)。諱は弘暦(こうれき)、廟号は高宗(こうそう)。在世時の元号の乾隆を取って乾隆帝と呼ばれる。 |
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雍正帝
清の第5代皇帝(在位1722年12月27日-1735年10月8日)。諱は胤禛(いんしん(禛の字は示眞))、廟号は世宗、謚号は憲皇帝。在世時の元号を取って雍正帝と呼ば... |
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プロフィール
崇禎帝(すうていてい、万暦38年12月24日(1611年2月6日)-崇禎17年3月19日(1644年4月25日)在位:1628年-1644年)は、明朝第17代の皇帝にして最後の皇帝。諱は由検(ゆうけん)。廟号ははじめは思宗のちに改めて 毅宗(以上は南明 弘光帝による)、威宗(同 隆武帝による)、懐宗(清による)。諡号は 弘光帝が紹天繹道剛明恪儉揆文奮武敦仁懋孝烈皇帝としたが、清が荘烈愍皇帝と改めた。また清は彼を歴代皇帝と同じ北京昌平山に葬り、陵墓を「思陵」とした。
生涯
| 第15代皇帝であった泰昌帝の第5子として生まれた。 |
| 1622年に兄の天啓帝(第16代皇帝)より信王に封じられた。 |
| 1627年に天啓帝が急死し、その男子が皆夭折していたため、1628年に皇位を継ぐことになった。 |
| 即位すぐに、兄の下で専横を奮った宦官・魏忠賢を誅殺し、名臣として名高い徐光啓を登用するなど国政改革に取り組む。 |
| 当時は北に満州族の後金が進入し、南では李自成たちの反乱が多発したまさしく国事多難の時期であり、崇禎帝はこの状況をたった一人で支えようと懸命に努力した。 |
| 崇禎帝は天啓帝らと違い、政治に熱心であり、色事にふけるような事もなく、倹約を心がけていた。 |
| しかし猜疑心が強く、家臣を信用できない悪癖を有していた。 |
| 即位直後から重臣を次々と誅殺してまわり、特に山海関で満州族からの防衛を一手に引き受けていた感のあった名将袁崇煥を誅殺した事は致命的であり、明が滅亡した原因として必ず崇禎帝の猜疑心が挙げられる。 |
| 在位17年の間に、崇禎帝によって誅殺された重臣は総督7名、巡撫(省長)11名に上り、その他罷免された者も多数おり、このことが重臣達の著しい士気の低下を招くこととなった。 |
| 崇禎帝は李自成軍に次々と討伐軍を送るが、その討伐軍を組織するために増税を行った事により窮迫した民衆が李自成軍に加わり、まったくの逆効果であった。 |
| 1644年、李自成軍は北京を包囲し、3月19日に北京は陥落。 |
| 崇禎帝は危急を知らせる鐘を鳴らしたが、文武諸官すべて逃亡し、君側に参じたのは宦官の王承恩ただ一人であった。 |
| ここにいたって崇禎帝は息子たちを紫禁城から脱出させ、妻妾と娘たちを斬り(皇后は自害)、紫禁城の北にある景山で首をつって自殺した。 |
| 娘の長平公主朱徽媞を斬るときは「ああ、そなたはどうして皇帝の女に生まれてしまったのか!」と泣いたという。 |
| しかし、泣きながら振るった刀が急所をそれたため、朱徽媞は左腕に傷を負ったのみで一命をとりとめ、王承恩の機転で紫禁城を抜け出す。 |
| 後に、順治帝は彼女を庇護し、かねてからの婚約者である周世顕に嫁がせた。 |
| だが、1646年、結婚から約1年後、懐妊から5ヵ月で病死。 |
| 彼女自身は出家隠棲することを願っていたという。 |
人物
| 崇禎帝は少なくとも彼なりに国の事を案じて大変な努力をしていた。 |
| 李自成が西安で皇帝に即位した時も「明の皇帝は甚だしく暗君という訳ではないが……」とある程度の評価をしている。 |
| その猜疑心により全てが裏目に出て自滅した崇禎帝だが、その原因は明が既に亡国の淵にあり、更には国政に与る士大夫層が長年の政治的腐敗により使い物にならず、信用ならない存在であることを突きつけられたことにあるといえる。 |
| 滅亡寸前の明王朝の国力を回復させるために、国政改革に身を投じたものの、万暦帝らの悪政によって決定づけられた衰退の流れを止めることができず、最終的に痛ましい最期を遂げなければならなかった。 |
宗室
| 320px|thumb|景山公園|景山の崇禎帝自害の地に建てられた碑文。 |
| 荘烈愍皇后周氏。 |
| 恭淑皇貴妃田秀英。 |
| 献愍太子(明悼帝)朱慈烺(1629-1644年)-呉三桂により一時擁立されるが、明の滅亡後間もなく病死。 |
| 怀隠王朱慈烜(1630年)-生後間もなく夭折。 |
| 定哀王朱慈炯(1631-1644ごろ?)-李自成の乱で斃死?南明時代に追封される。 |
| 永悼王朱慈炤(生没年不詳)-1642年に永王追封が行われているので、それ以前に没しているとみられる。 |
| 悼霊王朱慈煥(1633-1708年)-明の滅亡後、王氏を名乗り僧侶として暮らしていたが、後に還俗。 |
| 清の康熙年間に謀反の罪を問われ、一族もろとも刑死した。 |
| 悼懐王朱慈燦(1637-1639年)-夭折。 |
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1622年
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兄の天啓帝(第16代皇帝)より信王に封じられた |
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1642年
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永王追封が行われているので、それ以前に没し... |
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