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つながりの強いひと
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大覚
南北朝時代の日蓮宗の僧。名は妙実。近衛家の出と言われ、初めは真言宗の僧であった。1313年(正和2年)京都布教中の日像の説法に共感し、宗派を改め弟子とな... |
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桓武天皇
日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日)-延暦25年3月17日(806年4月9日))。 |
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平城天皇
兄
平城天皇(へいぜいてんのう、へいじょうてんのう、宝亀5年8月15日(774年9月25日)-弘仁15年7月7日(824年8月5日))は第51代天皇(在位:延暦25年3月17日(... |
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最澄
平安時代の僧。日本の天台宗の開祖である。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては... |
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光定
平安時代前期の天台宗の僧。俗性は贄(にえ)氏。伊予国風早郡の出身。別当大師とも称される。 |
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後宇多天皇
鎌倉時代の第91代天皇(在位:文永11年1月26日(1274年3月6日)-弘安10年10月21日(1287年11月27日))。諱は世仁(よひと)。 |
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淳和天皇
平安時代初期の第53代天皇。西院帝ともいう。諱は大伴(おおとも)。 |
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嵯峨源氏
賜姓源氏の最初で、第52代嵯峨天皇の子孫。嵯峨天皇は多くの皇子皇女に源氏姓を賜り臣籍降下させた。__TOC__ |
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小野篁
平安時代前期の官人、学者、歌人。参議小野岑守の子。官位は従三位・参議。異名は「野相公」「野宰相」、その反骨精神から「野狂」とも。 |
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三筆
日本の書道史上の能書のうちで最もすぐれた3人の並称であり、平安時代初期の空海・橘逸勢・嵯峨天皇の3人を嚆矢とする。その他、三筆と尊称される能書は以下... |
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藤原乙牟漏
奈良時代末期の皇妃。第50代桓武天皇の皇后、第51代平城天皇・第52代嵯峨天皇の生母となった。父は藤原式家の藤原良継、母は尚侍兼尚蔵(就任時期不明)阿倍... |
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仁明天皇
平安時代初期の第54代天皇。諱は正良(まさら)。 |
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橘嘉智子
第52代嵯峨天皇皇后。橘奈良麻呂の孫、贈太政大臣・橘清友の娘。母は田口家主の娘で、贈正一位・田口三千媛。兄弟に右大臣・橘氏公がいる。別名・檀林皇后(... |
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藤原薬子
藤原薬子(ふじわらのくすこ、生年不詳-大同5年9月12日(810年10月17日))は平安時代初期の女官。式家の藤原種継の子。中納言藤原縄主の妻で三男二女の母。... |
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光孝天皇
第58代天皇(在位:元慶8年2月23日(884年3月23日)-仁和3年8月26日(887年9月17日))。諱は時康(ときやす)。藤原氏は、この天皇の治世で初めて関白を出し... |
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今上天皇
第2話「Audience」 日本帝國 帝都東京''''皇居''「 今上天皇 陛下にあらせられる」 侍従武官の東條英機大佐の紹介の元、御簾越しではあるものの、天皇の姿を... |
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天智天皇
同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号で... |
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子子子
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淳仁天皇
日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日)-天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはい... |
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平将門
平安時代中期の関東の豪族である。平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。桓武天皇5世。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸... |
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プロフィール
- 嵯峨天皇とは
- 系譜
- 略歴
- 后妃・皇子女
- 諡号・追号・異名
- 陵墓・霊廟
- 伝承
- 関連項目
- 関連サイト
嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日)-承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月8日)-弘仁14年4月16日(823年5月29日))。諱は神野(かみの)。
略歴
| 兄・平城天皇の即位に伴って皇太弟に立てられる。 |
| だが、平城天皇には既に高岳・阿保の両親王がいたことから、皇太弟擁立の背景には、父帝・桓武天皇の意向が働いたといわれている。 |
| このような事情から即位後に甥にあたる高岳親王を皇太子としたが、翌弘仁元年(810年)に平城天皇が復位を試みた「薬子の変」が発生する。 |
| この結果、高岳親王は廃されるが、実子を立てる事に気まずさを感じたためか今度はかねてから臣籍降下を望んでいた異母弟の大伴親王(淳和天皇)を強引に皇太弟に立ててしまった(これが承和の変の遠因となる)。 |
| ともあれ、以後表面上は平穏な治世を送り宮廷の文化が盛んな時期(弘仁文化)を過ごした。 |
| 弘仁9年(818年)、弘仁格を発布して死刑を廃止した。 |
| 中央政界における死刑の廃止は以後保元の乱まで347年間続く。 |
| だが、当時は農業生産が極度の不振(『日本後紀』によれば、弘仁8年(817年)より7年連続で干害などの被害を受けたとされている)にあり、その結果として当時財政難は深刻であった。 |
| また、最末期には墾田永年私財法の改正などを行って大土地所有の制限を緩和して荒田開発を進め、公営田・勅旨田の設置などが行われている。 |
| 皇子皇女多数おり系図などによれば49名の皇子皇女がいたと言われている。 |
| 、その生活費も財政圧迫の原因となった。 |
| そこで皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた(源氏の成立)。 |
| 嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。 |
| 河原左大臣源融は嵯峨天皇の皇子の一人。 |
| 弘仁14年(823年)、財政上の問題を理由(上皇が2人(平城・嵯峨)では財政負担が大きい)に反対する藤原冬嗣の主張を押し切って大伴親王に譲位した。 |
| 退位後は冷然院・嵯峨院を造営して財政を逼迫させただけでなく、実子正良親王(仁明天皇)が即位すると「皇室の長」として政治に干渉する場面も多くなり、更に淳和上皇や仁明天皇の反対を押し切って自分の外孫でもある淳和上皇の皇子恒貞親王を皇太子とするなど、朝廷内で絶大な権力を振るって後に様々な火種を残した。 |
| 漢詩、書をよくし、三筆の一人に数えられる。 |
| また、華道嵯峨御流の開祖とも伝わっている大沢池の花を生け花にしたのが始まりとされるが、実際には古くから家元大覚寺に伝わっており、開祖というのは信じがたい。 |
后妃・皇子女
| 皇后:橘嘉智子(檀林皇后)(786-850)-橘清友女。 |
| 正良親王(仁明天皇)(810-850)。 |
| 正子内親王(810-879)-淳和天皇皇后。 |
| 秀良親王(817-895)。 |
| 秀子内親王(?-850)。 |
| 俊子内親王(?-826)。 |
| 芳子内親王(?-836)。 |
| 繁子内親王(?-865)。 |
| 妃:高津内親王(?-841)-桓武天皇皇女。 |
| 業良親王(?-868)。 |
| 業子内親王(?-815)。 |
| 妃:多治比高子(787-825)-多治比氏守女。 |
| 夫人:藤原緒夏(?-855)-藤原内麻呂女。 |
| 女御:百済王慶命(?-849)-百済王教俊女。 |
| 源善姫(814-?)。 |
| 源定(816-863)。 |
| 源鎮(824-881)。 |
| 女御:百済王貴命(?-851)-百済王俊哲女。 |
| 基良親王(?-831)。 |
| 忠良親王(819-876)。 |
| 基子内親王(?-831)。 |
| 女御:大原浄子(?-841)-大原家継女。 |
| 仁子内親王(?-889)-伊勢斎宮。 |
| 更衣:飯高宅刀自-飯高岳足女。 |
| 源常(812-854)。 |
| 源明(814-853)。 |
| 更衣:秋篠高子(または康子・京子)-秋篠安人女?。 |
| 源啓(829-869)。 |
| 宮人:交野女王-山口王女。 |
| 有智子内親王(807-847)-賀茂斎院。 |
| 宮人:高階河子-高階浄階女。 |
| 宗子内親王(?-854)。 |
| 宮人:広井氏-広井弟名女。 |
| 源信(810-868)。 |
| 宮人:布勢武蔵子。 |
| 源貞姫(810-880)。 |
| 源端姫(?-876)。 |
| 宮人:上毛野氏。 |
| 源弘(812-863)。 |
| 宮人:安倍氏-安倍楊津女。 |
| 源寛(813-876)。 |
| 宮人:笠継子-笠縫『尊卑分脈』または笠仲守『諸系譜』第一冊,笠朝臣(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会,1986年による)女。 |
| 源生(821-872)。 |
| 源安(822-853)。 |
| 宮人:大原全子-大原真室女。 |
| 源融(823-895)。 |
| 源勤(824-881)。 |
| 宮人:内蔵影子-内蔵高守女?。 |
| 宮人:文室文子-文室久賀麻呂女。 |
| 純子内親王(?-863)。 |
| 斉子内親王(?-853)-葛井親王室。 |
| 源勝(?-886)。 |
| 宮人:大中臣岑子-のち藤原有統の妾。 |
| 宮人:長岡氏-長岡岡成女。 |
| 女嬬:当麻氏-当麻治田麻呂女。 |
| 源潔姫(809-856)-藤原良房室。 |
| 源全姫(812-882)-尚侍。 |
| 掌侍:菅原閑子。 |
諡号・追号・異名
| 退位後、洛西の嵯峨院に住み、また嵯峨の山北に葬られたことから嵯峨天皇と追号された。 |
陵墓・霊廟
| 陵墓は京都市右京区北嵯峨朝原山町にある嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)。 |
| 嵯峨天皇は承和9年(842年)7月17日、葬られ、遺詔によって国忌荷前は置かれず、「延喜諸陵式」に登載されなかった。 |
| 嘉祥3年に中納言安倍安仁、宮内大輔房世王が嘉瑞を奉告し、12月30日、また2人が遣わされ立太子の由を奉告し、元暦元年、即位の奉幣使が発遣された。 |
| のち陵の所在が失われ、近世、諸陵探査のとき「諸陵周垣成就記」には「山城国葛野郡嵯峨山の北に葬。 |
| 「雍州府志」も「扶桑京華志」も八角堂(のち蓮華峯寺陵に治定)と清涼寺の石塔とを並記し、「山城志」が初めて現在の地を推し、のちいずれもがこの説に従った。 |
| 幕末の修陵のときこの説が採られ、修治が加えられ、竣工にさいして慶応元年5月5日、山陵修輔竣工巡検使柳原中納言が遣わされ、奉幣した。 |
| 陵号は嵯峨山陵、嵯峨山上陵が通じて用いられたが、嵯峨山陵が嵯峨陵と紛らわしいとして嵯峨山上陵に定められた。 |
| 現在、大覚寺の西北、嵯峨野の北にある御廟山の山頂に位置する。 |
伝承
| 『日本霊異記』には嵯峨天皇の前世について次のような話が掲載されている。 |
| 伊予国の石鎚山に寂仙という名僧がいた。 |
| 天平宝字2年(758年)、寂仙が亡くなるときに「これから28年後、国王の御子に生まれ変わり神野と名乗る」と言い遺した。 |
| その28年後の延暦5年(786年)、桓武天皇に皇子が生まれ神野親王と名附けられた。 |
| すなわち、嵯峨天皇は寂仙の生まれ変わりであるとしている。 |
関連項目
| 812年:嵯峨天皇の代に桜の花見が初めて公式行事として催されたことについての記事あり。 |
| 書家-日本の書家一覧。 |
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