| 一軍では2試合に登板したが勝利を挙げられなかった。 |
| 1998年3月7日のオープン戦(対ヤクルト・福山市民球場)では、プレイボール直後の初球で飯田哲也に頭部危険球、わずか1球で退場になってしまうという珍記録を樹立。 |
| ちなみにプロ初先発の試合では投手ながら2点タイムリーを放って、後に打者として開眼する僅かな兆候があった。 |
| 野手転向1年目となった1999年には、打率.280、プロ入り初を含む3本塁打を放つ活躍を見せた。 |
| 2軍でも3割を超える成績を度々残し、2002年には打率.314でウェスタン・リーグ首位打者も獲得したが、持病の腰痛や前田智徳・緒方孝市・金本知憲などの外野手層は厚く、なかなか試合出場に恵まれずにいた。 |
| 転機となったのは、10年目にあたる2004年であった。 |
| オープン戦から好成績を残し、前年に阪神タイガースに移籍した金本の穴を埋める候補として、シーズン開幕1軍入りの座を勝ち取った。 |
| 4月は主に2番を打ちながら、4割を超える高打率をマークするなどの大活躍を見せ、一気に右翼手のレギュラーに定着し、監督推薦によるオールスターゲームにも初出場した。 |
| 後半戦からは中軸を任されるようになり、グレッグ・ラロッカに次ぐチーム2位の32本塁打を放つなど、長打力も十二分に発揮した。 |
| その後も順調に安打を量産し続け、一時は当時のリーグ記録であったロバート・ローズの192安打の更新も期待されたが、終盤に疲労と腰痛等の影響でペースは失速し、189安打に終わる。 |
| このシーズンは首位打者と最多安打、更にベストナインのタイトルを獲得し、シーズンオフには日米野球のメンバーに選出され、ニックネームの「赤ゴジラ」(詳細は後述)が同年の流行語大賞でも話題となるなど、多方面から注目を浴びたシーズンとなった。 |
| 2005年は他球団のマークもあり、打率は1度も3割に到達しないままシーズンを終えたが、後半戦からは本来の調子を取り戻し、トータルでは打率.288、27本塁打とクリーンナップにふさわしい成績を残した。 |
| 2006年は更に打率を下げてしまい前半戦は2割7分台程度にとどまり、腰痛の悪化も相まってこのシーズン以降は下位を打ったり、スタメンを外れることも多くなる。 |
| しかし代打では重要なところで本塁打も放った。 |
| 後半戦に入った途端に打撃の調子を上げ、8月23日に2本塁打を放ち、3年連続で20本塁打を達成した。 |
| しかし、9月25日にバットスイングからくる右肩痛を発症し、登録抹消された。 |
| ブラウン監督は「今季の残り試合数を考えれば、もう戻らない」と無理をさせぬよう出場させなかった。 |
| 2007年シーズン前にアメリカに渡ってトレーニングし、節制する等体調管理を心掛けてシーズンイン。 |
| 大きな期待をかけられてのシーズンに入りだったが、前年の肩痛が再発したため前半から中盤まで酷い不振に陥った。 |
| 9月以降にようやく調子を取り戻すが、トータルでは前年よりさらに低い成績に終わった。 |
| ただし長打力は健在で、新井貴浩とほぼ遜色ない本塁打率であり、長打力に置いては球団トップクラスである事を証明した。 |
| 2008年はスタメンを剝奪され、3、4月は代打中心となり、2軍落ちも経験するなど、苦しいスタートとなった。 |
| しかし内田コーチと二人三脚でフォーム改造に取り組み、5月25日に千葉ロッテマリーンズ戦で同点となる代打3点本塁打を、6月12日にも同ロッテ戦で代打逆転2点本塁打を放った。 |
| 以降、調子を取り戻し先発出場も増え、オールスター明け後は完全にスタメンを手中にした。 |
| 規定打席には届かなかったものの、4年ぶりの打率3割をマーク。 |
| 打席数が少ないものの四球40は栗原健太の42に続くチーム2位で、出塁率.394は規定未満ながらもリーグ5位相当の数字である。 |
| 一方、本塁打数は前年の半分の7本に落とし、2004年から継続していた連続2桁本塁打記録は4年で止まった。 |
| 同年オフの10月9日に群馬県館林市内の病院で内視鏡による左ひじ関節の手術を受けた。 |
| 2009年のオープン戦序盤は左ひじ痛の影響もあり21打数無安打と苦しんだがhttp://www.chugoku-np.co.jp/Carp/Cw200903170114.html、3月22日に行われた広島市民球場での最後の一軍の試合となった阪神とのオープン戦では、6回に石川俊介からホームランを放ち、以降の3試合で8打数4安打2本塁打と復調したhttp://www.chugoku-np.co.jp/Carp/Cs200903220332.html。 |
| しかし、シーズンでは、不調に終わり打率.229と結果を残せなかった。 |
| 2010年は、赤松真人、廣瀬純、天谷宗一郎、ジェフ・フィオレンティーノなど外野の定位置を競うライバルが多く、序盤は代打としての起用が主だった。 |
| しかし天谷やフィオレンティーノが打撃面で結果を残せなかったため、次第に先発出場の機会を増やしていった。 |
| 不動の4番打者だった栗原が長期離脱した間は代役を務め、23試合に4番打者として出場した。 |
| 規定打席には届かなかったものの、3年ぶりに二桁本塁打をマークするなど2009年より成績を上げた |
| シーズン中に国内移籍が可能なFA権を取得したが、10月に権利を行使せずに広島に残留すること表明した。 |
| 2011年7月24日に海外FA権を取得したが、行使しないことを表明した{{Citenews。 |