| 1994年2月2日マレーシア国際トーナメント、U-23マレーシア代表戦に初出場を果たす。 |
| 以降U-23日本代表としてアトランタオリンピック予選に正GKとして出場し、メキシコオリンピック以来となる28年ぶりのオリンピック出場に貢献。 |
| 1996年7月22日、アトランタオリンピック1次リーグ第1戦、ロナウドやリバウドといった錚々たる面々を揃えたブラジル代表と対戦。 |
| 防戦一方の展開の中、スーパーセーブを連発し、計28本のシュートを無失点に抑え込み、後半に伊東輝悦が挙げた1点を守りきってブラジルを破る大波乱の立役者として大きく賞賛された(マイアミの奇跡)。 |
| 1997年2月13日、キングスカップスウェーデン戦で、国際Aマッチ初出場を果たす。 |
| フランスW杯・アジア最終予選の全試合に唯一出場し、特に苦戦を強いられたアウェー戦での活躍が光り、9月19日のアブダビでのUAE戦では、劣勢の状況の中、好セーブ連発で0-0と相手を封じ込め貴重な勝ち点1をもたらした。 |
| 日本のサッカーの歴史に深く刻まれる“ジョホールバルの歓喜”でも2失点はしたが、安定した守備を披露し歴史的な場面に立ち会った。 |
| 翌年1998FIFAワールドカップのメンバーに選出され、初戦のアルゼンチン戦では相手の23本のシュートを1失点のみで抑え、敗れたものの善戦した。 |
| その後のクロアチア戦、ジャマイカ戦でも奮闘するが敗れ、全3試合に出場したW杯は3戦全敗で一次リーグ敗退に終わる。 |
| フランスワールドカップ後に就任したフィリップ・トルシエ監督の下では、徐々に出場機会が減ったが、出番が回ってきたAFCアジアカップ2000ではグループリーグの1試合を除く全試合に出場。 |
| 決勝のサウジアラビア戦では、積極的な守備と、終盤の劣勢に回る展開には神懸かり的なセーブで優勝に大きく貢献。 |
| この大会での活躍が報われその後のFIFAコンフェデレーションズカップ2001で正GKに復帰する。 |
| しかし、その後は海外移籍による出場機会の激減で試合勘など不満の残る状況が続き、コンディションを落とす日々が続いた。 |
| 2002FIFAワールドカップでも出場機会は無かった。 |
| 日韓ワールドカップ後にジーコ監督が就任してからも控えの立場が続いたが、2004年のAFCアジアカップ2004では正GKとして出場する機会を得る。 |
| 決勝トーナメント準々決勝のヨルダン戦、1-1のまま縺れ込んだPK戦ではいずれも入れられたら敗退が決まる絶体絶命の状況で2本のシュート(3回終了時1-3)をクロスバーに掠めながらの神懸かり的なセーブにより阻止。 |
| 結果的にヨルダンは3人成功後4人連続で失敗し、日本が奇跡的な逆転勝利を手にした。 |
| ホスト国中国との決勝戦でも、アジア杯を締めくくるような活躍をして2大会連続優勝、3度目のアジア制覇の立役者として貢献。 |
| アジアカップ2004ベストイレブンのタイトルも獲得し正GK奪還を成し遂げる最高の結果をもたらした。 |
| 2006年自身3度目となる2006FIFAワールドカップのメンバーに選ばれ2大会ぶりに正GKとして全3試合出場。 |
| 初戦のオーストラリア戦は相手の再三の攻撃を凌ぐも、スローインへの飛び出しから同点にされ |
| 第2戦のクロアチア戦では、ダリヨ・スルナのPKを止め勝ち点1を呼び込んだ。 |
| このプレーによって、ワールドカップでPKを止めた史上20人目のGKをして名を刻むことになった。 |
| 第3戦のブラジル戦では、次々に放たれる21本のシュートを浴び4失点を喫するも孤軍奮闘の守りを見せる。 |
| 2敗1分けという結果となり、またしてもピッチ上で勝利を噛み締めることなく大会を去ることになったが、FIFAが選定した「グループリーグ敗退国ベストイレブン」のサブGKに選ばれた(正GKはチェコのペトル・チェフ)。 |
| また、ブラジル戦で前半ジュニーニョ・ペルナンブカーノのミドルシュートを止めたセーブが「2006FIFAワールドカップスーパーセーブベスト10」ランキングの6位に選ばれた。 |
| ドイツワールドカップ後にイビチャ・オシム監督が就任して以降は、キャプテンに指名されると共に背番号1を与えられた。 |
| 2007年には自身3度目のアジアカップとなるAFCアジアカップ2007に正GKとして全試合出場した。 |
| 決勝トーナメント準々決勝のオーストラリア戦では、1-1で延長戦も終了し引き続き行われたPK戦では1番手のハリー・キューエル、2番手のルーカス・ニールを連続で阻止する活躍を見せPK4-3で勝利した |
| 2008年3月26日に行われた2010FIFAワールドカップ・アジア地区予選(3次予選)のアウェーバーレーン戦で、相手のセンタリングのボールを捌ききれず失点した。 |
| 2009年3月19日にはコンディション不調(2試合で合計10失点)と所属する磐田の不振により、3月28日の2010FIFAワールドカップ・アジア最終予選バーレーン戦での招集が見送られた。 |
| 怪我以外で代表メンバーから外れたのは4年4か月ぶりだった |
| さらに9月19日の第26節の京都戦で相手選手と接触し、右脛骨骨幹部骨折で全治6か月の大けがを負った |
| 2010年5月10日の南アフリカワールドカップに向けた最終メンバー発表までJリーグの公式戦に出場していなかったが、代表監督の岡田武史からチームキャプテンとしての役割を求められ |
| 本大会で出場機会は無かったがまとめ役としてチームに貢献 |