| 1995年4月28日のヤクルトスワローズ戦ではプロ初登板初勝利。 |
| 1996年には自己最多となる13勝をマーク、9月には月間MVPを獲得する。 |
| 以降は同い年の藪恵壹とともに1990年代後半・低迷期の阪神を支える存在となる。 |
| しかし、1997年には開幕投手を務め堂年~各地の球場で、試合中にレーザーポインターで投手の視界を遮る悪戯が多発していた。 |
| 1998年5月の甲子園での試合では、ヒーローインタビューに応じる川尻の顔に、赤い光線が何度も走る様子がTV画面ではっきりと映り、各局のニュースでも採りあげられ、全国的な話題となった。 |
| 同年、プロ野球脱税事件に小久保裕紀、波留敏夫らとともに関与していたことが明らかとなり、翌1998年に3週間の出場停止処分を受けることとなった。 |
| しかし、処分が解けた後は総崩れの投手陣を救う投球を見せ、5月26日の倉敷マスカットスタジアムでの(中村武志・関川浩一などを擁する)中日ドラゴンズ戦では同い年で前年まで中日に居た矢野燿大とのバッテリーでノーヒットノーランを達成、5月の月間MVPを獲得。 |
| 1998年のオールスターゲーム(日本プロ野球)にも出場し、2年ぶりの10勝を達成。 |
| さらに、同年オフの日米野球ではカート・シリングと投げ合い、MLB選抜を0点に抑える投球を見せた。 |
| 日米野球史上初完封目前の9回一死で死球を与え、監督の長嶋茂雄によって大塚晶文に交代させられた。 |
| 2000年にも10勝を挙げ、またも日米野球で同僚の葛西稔、新庄剛志とともに大活躍を見せた。 |
| 日米野球の好投により、メジャーリーグから誘いがあったが「まだメジャーにいくほどの実力ではない」と、断っている。 |
| 翌2001年は3月30日の読売ジャイアンツとの開幕戦で3対12と大敗していたため、6番手として調整のためにマウンドに上がるも清水隆行に満塁本塁打を浴びた。 |
| 結果的に巨人に1994年のダイエーに並ぶ開幕戦最多得点記録(17点)を献上した。 |
| その後も不振で、1勝6敗、防御率は6.38の成績に終わった。 |
| しかし、同年オフの契約更改の席でこれまでの実績を盾に年俸のアップを要求、認められない場合はポスティングシステムでのメジャー移籍を要求。 |
| 球団、ファンの両方から大いに反発を買う。 |
| この騒動は新監督の星野仙一の仲裁で収まるが、その後、星野監督時代の2年間は二軍暮らしを余儀なくされた。 |
| メジャー行きは断ったものの、新庄剛志ら知己からメジャーの情報は細かく聞き出しており、球界再編時はメジャー行きも視野に入れていたという。 |
| 優勝を決めた2003年9月15日には、ケガのため二軍調整中だった藪、濱中治らが「これまでの功労者」として一軍帯同・胴上げ参加を認められたが、その年一軍登板の少なかった川尻は、胴上げ参加を「俺の行く所じゃない」と拒否した。 |
| 同年の日本シリーズにも登板機会は無かった。 |
| 2003年オフにはチームが優勝に沸く中で前川勝彦との交換トレードで近鉄に移籍。 |
| しかし、翌2004年には球界再編問題でオリックスとの合併を迎える。 |
| この時には自身の登板日にも拘らず、試合開始直前まで熱心に署名活動に参加したり、登板のない日には試合に出場する他の選手に「後は俺がやっておくから、安心して試合に行ってこい」と声をかけ、吉田秀彦ら交友関係のある友人に協力を求めるなど、精力的に活動し、最後まで球団合併阻止に力を尽くした。 |
| 同年オフの分配ドラフトで楽天に移籍。 |
| しかし、僅か2試合の登板に終わり、2005年に戦力外通告を受け、現役を引退し、緊急地震速報システムメーカー(3Softジャパン)の顧問に転身し、2006年緊急地震速報装置の特約店(ユニゾン)を仙台で設立。 |
| 阪神時代の1995年に阪神・淡路大震災を経験しており、「人の命を守りたい」と思ったからだという。 |
| 2009年5月に解雇され、給与の未払い(08年1月から09年5月に解雇されるまでの1年5か月分)を理由に同社を提訴した |
| 2007年、松坂大輔がジャイロ回転のスライダーを投げているのではないかと噂になった時、ジャイロ回転のボールを投げられる投手としてTV各局の取材を受け、実際に投げてみせた。 |
| その際、現役時代より太っていたため、ますだおかだが自身のラジオ内で「亀山努以来の太り方」とネタにしていた。 |
| 現在は、ミヤギテレビの野球解説者を務めている。 |