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プロフィール
- 川淵三郎とは
- 経歴
- 人物・エピソード
- 川淵キャプテン
- 発端
- 移転
- 呼称
- 泥沼
- 後日譚
- ジーコ監督
- オシム騒動
- 解任デモ
- その他
- 関連サイト
川淵三郎(かわぶちさぶろう、1936年12月3日-)は、日本の元サッカー選手、 元日本代表監督、Jリーグ初代チェアマンを経て、第10代日本サッカー協会会長を務めた。現在は日本サッカー協会名誉会長である。公式な愛称は「キャプテン」、渾名は「サブ」。家族は妻の康子と2女の4人家族。平成21年秋の叙勲において旭日重光章を受章した。早稲田大学第二商学部商学科卒業、学位は学士(商学)(早稲田大学)。サッカー殿堂入り。
経歴
| 1936年12月3日大阪府泉北郡高石町(現在の高石市)出身、父川淵真一、母淑子の3男として出生。 |
| 1943年大阪府高石町立高石小学校入学。 |
| 吉岡たすくの指導を受ける。 |
| 1949年大阪府高石町立高石中学校入学、野球部に所属。 |
| 1952年大阪府立三国丘高等学校入学、同年7月同校サッカー部に入部。 |
| 1957年二浪の後早稲田大学第二商学部商学科に進学。 |
| 早稲田大学ア式蹴球部でプレー。 |
| 1958年日本代表に初選出。 |
| 1959年ローマ五輪アジア予選出場。 |
| 1960年第7回チリW杯アジア予選出場。 |
| 1961年3月、早稲田大学第二商学部商学科卒業後、古河電気工業入社。 |
| 4月、横浜電線製作所勤務。 |
| 同社サッカー部でプレー。 |
| 1962年インドネシア・ジャカルタで開催された第4回アジア競技大会に出場。 |
| 1964年東京オリンピック出場、対アルゼンチン戦でゴールを挙げる。 |
| 1966年長女、純子誕生。 |
| 1968年次女、英子誕生。 |
| 1970年現役引退(日本代表通算68試合、18得点)。 |
| 古河電気工業サッカー部コーチ就任。 |
| 1972年古河電気工業サッカー部監督就任。 |
| 1975年同部監督退任。 |
| 1976年日本サッカーリーグ常任運営委員就任。 |
| 10月、伸銅事業部第1販売部課長。 |
| 1979年同委員退任。 |
| 1980年6月、LA五輪強化部長に就任。 |
| 8月、系列会社「谷商株式会社」の常務取締役に出向。 |
| 11月、日本代表監督代行就任。 |
| 1981年日本代表監督退任。 |
| 1982年6月、古河電気工業・名古屋支店金属営業部長。 |
| 1984年4月、日本サッカー協会強化部長退任。 |
| 1988年6月、古河産業へ出向、取締役伸銅品部長。 |
| 8月、JSL総務主事就任。 |
| 10月、日本サッカー協会理事就任。 |
| 1989年6月2日、JFA・プロリーグ委員会委員長就任。 |
| 1990年8月、プロリーグ検討委員会委員長就任。 |
| 1991年3月、強化委員長、プロリーグ設立準備室長就任。 |
| 11月、社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)設立、初代チェアマン就任。 |
| 11月、30年勤続した古河電気工業退社。 |
| 1993年5月、Jリーグ開幕、国立競技場にて開幕宣言。 |
| 1994年5月、日本サッカー協会副会長就任。 |
| 6月、W杯日本招致委員会実行副委員就任。 |
| 1996年7月、2002年W杯開催準備委員会実行副委員長就任。 |
| 1997年12月、2002年FIFAW杯日本組織委員会理事就任。 |
| 2002年7月、Jリーグチェアマン退任。 |
| 後、日本サッカー協会会長(キャプテン)に就任。 |
| 2010年9月、日本サッカーミュージアム館長に就任。 |
| 2011年5月、日本将棋連盟非常勤理事に就任。 |
| 2011年6月、東京都教育委員に就任。 |
人物・エピソード
| 小中学生時代は野球に打ち込み、それまでのサッカー経験は一度だけで感想は「汚いし痛いスポーツ」。 |
| 高校一年生の1学期、同級生に「夏休みに四国で大会があるからサッカー部に入ったら高松に行ける」と誘われ入部、理由は「四国に行きたかった」だけであった。 |
| 上記の通り野球ファンでもあり、マスコミからプロ野球へのコメントを求められる事もある。 |
| 2004年に起こったプロ野球再編問題の際に、Jリーグ会長の立場として当時プロ野球界のトップに当たるコミッショナーを務めていた根來泰周を批判した。 |
| 早稲田大学ア式蹴球部に所属し、日本代表として東南アジア方面に同行。 |
| 当時イギリス領だった香港のクリケットのカントリークラブにある緑の芝生に驚き、さらにドイツ・デュイスブルクスポーツシューレの環境を目の当たりにし彼我の差に愕然となる。 |
| 日本サッカー協会が西ドイツサッカー協会にコーチの派遣を要請、デットマール・クラマーがコーチに就き、基本からの単調な反復練習に不満を感じるものの指導通りに出来ない事を自覚し焦る。 |
| 二宮寛日本監督解任と次期監督の座を巡って起きた内紛に体よく使われた形となった川淵は神経性胃炎を起し、これを発端にサッカーとは距離を置き、たまに静岡放送(SBS)で試合解説をするくらいで名古屋支店の仕事に専念。 |
| 「名古屋支店に6年勤務したから、次は本社の営業部長あたりかな?」と漫然と考えていた川淵だったが、関連会社への出向人事に「これでは年齢的に本社に戻れない上に、良くて常務止まり」と奈落の底に落とされ顔面蒼白、妻からは心配され会社組織に幻滅。 |
| 1988年、森健兒から日本サッカーリーグ(JSL)総務主事の後任を頼まれ引き受けるが |
| ところが東京に戻ることになったものの、本体の古河電工ではなく系列の古河産業に出向だったんです。 |
| 何をやろうにも予算が無く、自らサンドイッチマンとなり広報活動したり、関東圏にあるサッカースクールやクラブ、学校の指導者宛に手紙による招待作戦や、サッカー好きでお笑いタレントの明石家さんまに頼み込んで集客ポスター「頼むさかい、日本サッカーリーグの選手らに満員の国立でプレーさせてやってや。 |
| 1989年にプロサッカーリーグ(Jリーグ)設立が具体化した際、当時の住友金属工業蹴球団(1991年にJリーグ加盟決定を受け鹿島アントラーズに改名。 |
| )にJリーグへの参加の意思は無かったが半年後の1990年、住友金属本社の「2000年ビジョン」の指針が発端となって「住金の中で最も転勤したくない事業所」であった鹿島を盛り上げる起爆剤になるように日本サッカーリーグ(JSL)2部の住友金属工業蹴球団(住金蹴球団)も参加を表明した。 |
| そこで、茨城県の鹿島町長(後の鹿嶋市)を含めた7名がプロリーグ参加を協会に要望。 |
| しかし当時、この住金の決断に対しては「2部の実力ではプロではやっていけない」、「首都圏(茨城県)ではあっても、東京周辺の人口密集地帯からは離れた鹿島で観客を集めることは困難ではないか」などといった懐疑的な見方が強かった。 |
| さらに当時のJリーグ理事長・川淵三郎からは「とにかく住金が加入できる確率は限りなくゼロに近く、99.9999%ダメだ」と言われたが、住友金属蹴球団代表者鈴木昌(後の2代目Jリーグチェアマン)は、「まだ0.0001%の可能性はあるんですね」と言い返た。 |
| 茨城県は住金蹴球団や住友金属工業、それに鹿島町などからの陳情を受け、鹿島灘に面する卜伝の郷運動公園に建設予定だった3,000人規模のグラウンドを、Jリーグ規格に適合する専用サッカースタジアムに計画を変更して建設することを決定した。 |
| Jリーグチェアマン 川淵三郎」と纏め、国立競技場に集まった大観衆の中で宣言するが、緊張していて目が泳ぎ、太字部分を「向かって」と読み、直後の段取りも間違えてしまう。 |
| カザフスタンとドローに終わった加茂周監督解任を発端とする一連の最中に、ジェフユナイテッド市原の親会社であるJR東日本のトップが「何かあったら、Jリーグやめちゃう」と発言、「やめてみろ」とやり返すも、ジェフのスタッフが「川淵さんのあの発言はよろしくない」と諌められ、内部からこのような動きが出たことについて協会会長の長沼健と共に心身を疲弊させていた。 |
| この騒動の中、川淵の自宅には嫌がらせや中傷の電話が続き、妻が精神的に参っていた上に、自身も予選の重圧と胆嚢摘出手術で体は悲鳴をあげ、マレーシアに同行出来なかった川淵は自宅でTV観戦。 |
| Jリーグのシーズンオフに放送されたテレビの特別番組において俗に「珍プレー」と呼ばれるような選手や審判のミス等を集め、珍奇に編集し視聴者の笑いを誘う企画内容があり、この放送を見た川淵は「一生懸命プレーする選手達を笑いものにするとはけしからん!」と激怒して、この件以降そのようなコンセプトの番組へは映像使用を許可しない方針を取った。 |
| さらに場を問わず感情の起伏を露にする性格で、横浜フリューゲルス存続の危機でフリューゲルスサポーターから「サポーターを作ったのは川淵さんなのに、何故サポーターからチームを取り上げるのか」と窮状を訴えるサポーター達との話し合いの後に落涙した。 |
川淵キャプテン
| 日本サッカー協会会長に就任した後も「親しみやすい存在、開かれたサッカー協会を目指したい」という川淵の意向と、自身の談話で「協会の“会長”という肩書きは重く感じるから」「選手と対面した際、(肩書きが会長だと)選手が固くなってしまうから」という理由から川淵が“会長”に代わる愛称をマスコミに向けて募集、「キャプテン」の呼称が採用される。 |
| 応募した人は二宮清純や広瀬道貞(テレビ朝日社長)、増島みどり(フリーライター)、竹内達朗(報知新聞記者)等以降、殆どの媒体や公式な行事、文書で「キャプテン」と表記、呼称するようになった。 |
発端
| 社会現象にある中、高年俸のスター選手を抱え、破竹の勢いで勝ちまくっていた「読売ヴェルディ」(ヴェルディ川崎、現・東京ヴェルディ)だったが、オーナーの意向が反映されない度に、ヴェルディのJリーグ撤退、果ては新リーグ構想まで仄めかし揺さぶりをかけた読売新聞社長渡邉恒雄(当時ヴェルディ川崎オーナー)を、当時Jリーグチェアマンであった川淵は「どうぞ、ご自由に」と一蹴。 |
| そもそもFIFAは一国一協会一リーグ一代表の原則をとっており、仮に渡邊が日本サッカー協会の支配下に無い「新日本サッカーリーグ」を発足させ「サッカー新日本代表」当時「ヴェルディ川崎」は通称としての呼称で、正式なチーム名は「FCNIPPON」であった。 |
| 多くの代表選手と高給のスター選手を抱えていた読売は全国区で人気のあった読売巨人軍を新聞の拡販に使ったのと同じ方法で、ヴェルディの試合チケットを新聞の拡販に使い部数を伸ばし、アウェーでも地方でも大きな集客力を見せ、広島ビッグアーチの最多1試合動員は1994年9月3日対ヴェルディ川崎戦の42,505人地上波が放送するJリーグの試合は軒並み高視聴率を取り、一時期その半分の試合中継をヴェルディ戦が占め、Jリーグ3年目でヴェルディの年間収入は55億円、その内30億円を選手の年俸に充てていた。 |
移転
| 「スタジアム建設促進とプロサッカーチームを調布に誘致する会」が、1993年11月にヴェルディ川崎と東京ガス(現・FC東京)に対し「武蔵野の森総合スポーツ施設」への移転を要請したのに対し、当時のヴェルディ社長が「東京を本拠地にするのが私達の夢」とコメント、渡邊も「12月中にも決めたい」と言い出し、翌日には東京ガスが誘致から撤退する意向を仄めかせ、移転問題の状況が迷走。 |
呼称
| これを知っていたJリーグは、企業色を全く前面に出そうとしなかったトヨタ自動車(名古屋グランパスエイトの親会社)と住友金属工業(鹿島アントラーズの親会社)に「小さくて構わないから、何か自社の証になるものをユニフォームに入れてくれ」とお願いするという、あべこべの構図になっていた。 |
| ただ「企業名がチーム名に入り、特定の企業の資本で運営され、且つ地域密着を実現したチーム」としては、日本でも過去に新日鉄釜石ラグビー部(現・釜石シーウェイブス)の好例がある。 |
| Jリーグ規約に則ってチーム名から企業名を外して市区町村名を付けるのであれば、本来吹田市の万博記念競技場を本拠地とするガンバ大阪は「ガンバ吹田」、調布市の味の素スタジアムを本拠地とするFC東京は「FC調布」になるのが理想である。 |
| さらに厳密に言えば、佐藤工業と全日本空輸の頭文字が入ったAS横浜フリューゲルス(横浜マリノスに合併吸収されて横浜F・マリノスとなる)、JR東日本と古河電気工業の頭文字(JEF)が入ったジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)は規約から外れている事になる。 |
泥沼
| 送られてきたゲラ刷りを見た川淵は自分が喋ったにも関わらず、その激烈な内容に驚愕し、修正した文章を『週刊現代』に送り返したが、同記事は結局1994年1月15・22日発売の『週刊現代』誌上で「初春に吠える!BIGインタビュー2”Jリーグを読売の思い通りにさせない”」の見出しで掲載された。 |
後日譚
| 間もなく、東京・日比谷の日本プレスセンタービルで行われた出版記念パーティで、川淵は渡邊と同じ場にバッタリ居合わせることになり、渡邊が挨拶で「どこかのワンマンと違い、野球界は川島広守(当時セントラル・リーグ会長)さんが頑張っておられる」と発言。 |
オシム騒動
| 1次リーグ敗退という結果でワールドカップドイツ大会から選手達が帰国した2006年6月24日の記者会見上において、川淵はジェフユナイテッド市原・千葉監督(当時)イビチャ・オシムがジーコ日本代表監督の後任候補の一人として交渉中であることをマスコミの集まる中で示唆する発言を行った。 |
解任デモ
| FIFAワールドカップ・ドイツ大会の本大会後から主にインターネット上で川淵会長の解任を求める声が活発になり、2006年8月9日に国立競技場で開催された国際親善試合トリニダード・トバゴ戦の試合前後にはとうとう400-500人前後の人々が川淵会長の解任を求めるデモ行進にまで発展した。 |
その他
| 1967年「JSLアシスト王シルバーボール賞」、1993年「第4回東洋経済賞」、1994年「第19回経済界大賞特別賞」「日本スポーツ賞」「日本プロスポーツ振興賞」「文部省スポーツ功労賞」「朝日スポーツ賞」「第36回経営者賞」「第6回日本フェアプレー賞」、2003年「PRパーソンオブザイヤー大賞」、2005年「AFCアワード第1回ダイヤモンド・オブ・アジア賞」、2006年「FIFA功労賞」JFAの藤田静夫元会長に続き、日本人では2人目、2008年「名誉都民」 「日本サッカー殿堂」 2009年「旭日重光章」。 |
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1936年
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川淵 三郎(かわぶち さぶろう)は、日本の元... |
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1980年
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LA五輪強化部長に就任 |
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