| 1899年(明治32年)6月14日、大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)に生れた。 |
| 父は栄吉(医師)、母はゲン。 |
| 幼くして近親者を亡くす。 |
| 1901年(明治34年)に父が死去し、母の実家がある大阪府西成郡豊里村(現在の大阪市東淀川区)に移ったが、翌年に母も死亡し、祖父の三又郎、祖母のカネと一緒に三島郡豊川村(現在の茨木市)に移った。 |
| 1906年(明治39年)、豊川尋常高等小学校(現在の茨木市立豊川小学校)に入学。 |
| 笹川良一とは小学の同級生で、祖父同士が囲碁仲間であった。 |
| しかし、9月に祖母が死に、1909年(明治43年)には別離していた姉も死亡した。 |
| 1912年(明治45年)、大阪府立茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)に首席で入学。 |
| 2年後に祖父が死去したため、豊里村の黒田家が引き取ったが、中学校の寄宿舎に入り、そこで生活を始めた。 |
| 下級生には大宅壮一が在学していた。 |
| 近所の本屋『虎谷』へは、少ないお金をはたいて本を買いに行っていた。 |
| 作家を志したのは中学2年のときで、1916年(大正5年)から『京阪新報』に小作品、『文章世界』に短歌を投稿するようになった。 |
| 1917年(大正6年)に卒業すると上京し、浅草蔵前の従兄の家に居候し、予備校に通い始め、第一高等学校の一部乙、英文科に入った。 |
| 後年『伊豆の踊子』で書かれる旅芸人とのやりとりは、翌年の秋に伊豆へ旅行したときのものである。 |
| その後10年間、伊豆湯ヶ島湯本館へ通うようになった。 |
| 1920年(大正9年)に卒業し、東京帝国大学文学部英文学科に入学。 |
| 同期に北村喜八、本多顕彰がいた。 |
| 同年、今東光、鈴木彦次郎、酒井真人らと共に同人誌『新思潮』(第6次)の発刊を企画。 |
| また、英文学科から国文学科へ移った。 |
| 1921年(大正10年)、『新思潮』を創刊、同年そこに発表した「招魂祭一景」が菊池寛らに評価され、1923年(大正12年)に創刊された『文藝春秋』の同人となった。 |
| 大学に1年長く在籍したが、1924年卒業した(卒業論文は「日本小説史小論」)。 |
| 同年、横光利一、片岡鉄兵、中河与一、佐佐木茂索、今東光ら14人とともに同人雑誌『文藝時代』を創刊。 |
| 同誌には「伊豆の踊子」などを発表した。 |
| 1926年(大正15年)、処女短篇集『感情装飾』を刊行。 |
| 1927年(昭和2年)、前年結婚(入籍は昭和6年12月2日)した夫人とともに豊多摩郡杉並町馬橋(高円寺)に移転。 |
| 同人雑誌『手帖』を創刊し、のちに『近代生活』『文学』『文学界』の同人となった。 |
| 『雪国』『禽獣』などの作品を発表し、1944年(昭和19年)、『故園』『夕日』などにより菊池寛賞を受賞。 |
| このころ三島由紀夫が持参した「煙草」を評価する。 |
| 文壇デビューさせたその師的存在である。 |
| 4月、海軍報道班員(少佐待遇)で鹿島へ趣き、特別攻撃隊を取材する#海軍主計大尉p.219。 |
| 同行した山岡荘八は作家観が変わるほどの衝撃を受け、川端は「生命の樹」を執筆している。 |
| その後『千羽鶴』『古都』などの名作を上梓しながら、一方で1948年(昭和23年)に日本ペンクラブ第4代会長に就任。 |
| 1957年(昭和32年)に東京で開催された国際ペンクラブ大会では、主催国の会長として活躍し、その努力で翌年に菊池寛賞を受賞した。 |
| 1958年(昭和33年)に国際ペンクラブ副会長に就任。 |
| また1962年(昭和37年)、世界平和アピール七人委員会に参加。 |
| 1963年(昭和38年)には、新たに造られた日本近代文学館の監事となった。 |
| 1964年(昭和39年)、オスロで開かれた国際ペンクラブ大会に出席。 |
| 断続的に「たんぽぽ」の連載を『新潮』に始めた。 |
| 1965年(昭和40年)に日本ペンクラブ会長を辞任したが、翌年に肝臓炎のために東大病院に入院した。 |
| 1968年(昭和43年)10月に、「日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による彼の叙述の卓越さに対して:"forhisnarrativemastery,whichwithgreatsensibilityexpressestheessenceoftheJapanesemind."」ノーベル文学賞受賞が決定した。 |
| 12月のストックホルムでの授賞式には、モーニングではなく、文化勲章を掛け紋付羽織袴で臨んだ。 |
| 記念講演「美しい日本の私その序説」エドワード・サイデンステッカー英訳を併記し、講談社現代新書で刊行している。 |
| を行った。 |
| 翌69年から1974年にかけ、新潮社から『川端康成全集』(全19巻)が刊行1980~84年に、『決定版 川端康成全集』(全35巻補巻2)が刊行。 |
| のちに限定一括復刊もした。 |
| した。 |
| 台北のアジア作家会議、1970年にソウルの国際ペンクラブ大会余談だが、大江健三郎等は進歩的文化人として、川端のこの行動を後々まで批判した。 |
| に出席、日本近代文学館の名誉館長にも就任したが、作品の発表数は激減した。 |
| ノーベル賞受賞後発表した作品は、未完となった『たんぽぽ』の他には、短編が数作品あるだけで、ノーベル賞授与が重圧になったといわれる。 |
| 1972年(昭和47年)4月16日、神奈川県逗子市のマンション「逗子マリーナ」の自室・仕事部屋で死亡しているのが発見された。 |
| 戒名は、文鏡院殿孤山康成大居士、大道院秀誉文華康成居士。 |
| 翌73年に財団法人川端康成記念会によって川端康成文学賞が設けられ、現在まで続いている。 |
| 1985年(昭和60年)には、茨木市立川端康成文学館が開館した。 |
| なお茨木市名誉市民にもなっている。 |