SPYSEEとは
|
よくあるご質問
|
ユーザ登録
|
ログイン
検索
詳細検索
13481
13635
155409
%E5%B7%A6%E6%85%88
%E5%B7%A6%E6%85%88
%E5%B7%A6%E6%85%88
%E5%B7%A6%E6%85%88
%E5%B7%A6%E6%85%88
0
左慈
Tweet
トップ画像の変更
他の画像検索結果
※ 画像について
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。 人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう
左慈の画像検索結果ページ
で修正できます
閉じる
ネットワーク
タグ
歴史上の人物
タグを編集
キーワード
三国志演義
三国志
鱸
孫子
司空
すべて見る
プロフィール
左慈とは
正史における左慈
三国志演義における左慈
関連項目
左慈(さじ)は、中国の後漢時代末期の方士。字は元放。廬江の人。正史では『後漢書』方術列伝に伝記がある。そのほか『捜神記』『神仙伝』などに詳しい。
正史における左慈
左慈はかつて司空曹操の宴席に招かれ、曹操がふと「江東の松江の鱸があればなあ」とつぶやいたとき、水をはった銅盤に糸をたらして鱸を釣りあげてみせた。
曹操は手を打って大笑いし、さらに「巴蜀の生姜がないのが残念だ」とこぼし、「使者に蜀の錦を買いに行かせたが、あと二端を買い足すように伝えておいてくれ」と言った。
左慈はすぐに生姜を手にして帰ってきた。
後日、使者が蜀から帰ってきたとき、左慈に会ったので錦を買い足したと証言した。
曹操が従者百人ほどを連れて近くまで出かけたおり、左慈は酒一升と干し肉一斤を携えてそれを配った。
従者たちはみな酩酊し、満腹した。
曹操が不思議に思って調べさせると、酒蔵から酒と干し肉がすっかり無くなっているとのこと。
曹操が腹を立てて左慈の逮捕を命じれば、左慈は壁のなかに消えていく。
市場でその姿を見たという者があったので追及させると、市場にいる人々がみな左慈と同じ姿であった。
陽城山の山頂で左慈に会ったとの証言を得たので、逮捕に向かわせると、左慈は羊の群に逃げこんだ。
曹操が「殺すつもりはない。
きみの術を試したかっただけだ」と伝えさせたところ、一頭の雄羊が二本足で立ちあがって人間の言葉で返事をした。
みなで一斉に飛びかかると、数百頭の羊がみな立ちあがって人間の言葉を話したので、捕まえることができなかった。
『三国志』では
裴松之
の注に引用される曹丕の『典論』、
曹植
の『弁道論』に登場している。
『弁道論』にいわく、「曹操は方術の士を招き寄せた。
甘陵の甘始、陽城の郄倹らはみなやって来た。
甘始、郄倹と共にみな300歳になると公言していた。
左慈は房中術によく通じて、天から与えられた寿命をほぼ完全に生き尽くすことができた。
しかしそれは固い意思を持ち深くその方法に精通したものでなければ、実行して効果をあげることができないのである。
三国志演義における左慈
小説『三国志演義』では、峨眉山で30年の修行の末、石壁の中から遁甲天書3巻(天巻・地巻・人巻)を手に入れ、方術が使えるようになったと描かれている。
左慈は江東から華北に向けて蜜柑を運んでいた人々の前に現れ、荷物が重いと愚痴をこぼす声を聞けば、「ならば」と方術を使い、荷物を軽くする。
後で曹操がその蜜柑の皮を剥くと中身は空で、果肉は一つも無いのだが、左慈が剥くと果汁が滴るほどで果肉はあるのである。
このことで左慈の方術に興味を持った曹操は左慈に飯を与えると酒5斗を飲んでも酔わず、羊を1頭を食べても食べ足らないばかりか、その席で曹操を翻弄し、引退して天下を劉備に譲れば遁甲天書を譲ると言ったため、これに怒った曹操により投獄させられてしまう。
しかし何度拷問しても全然苦しむ様子もなく、あきれた執行人が後で様子を見に行くと鎖が外れている。
それならばと今度は何日も食事を与えなかったが、逆に生き生きとしていくのである。
その後も曹操により投獄され続けられるが、ある日、曹操が開いた宴に突如として現れて巴蜀の地方で手に入る酒、肉を持ち込み、海水魚の鱸を絵に描いただけで取り出し、簪で杯の酒を二つに割って飲み、さらに燃やしたはずの孟徳新書を出して見せるということをする。
そして杯を宙に投げると一羽の鶴になって左慈はいつの間にか姿を消してしまうのである。
このため曹操は許褚に命じて逃げた左慈を追跡させる。
程なくして許褚は歩いている左慈を発見するが、追いつこうとしても一向に距離が縮まる事はなく、まったく追いつけない。
やがて左慈は羊の群れの中に紛れ込んだが、どれだけ探しても左慈の姿が発見できなかったので、許褚は羊を皆殺しにする。
その光景を見ていた羊飼いの牧童が泣いていると、「首と胴を元に戻せ」と左慈の声が聞こえたため、牧童がその様にすると羊は全て生き返り、平然と動き出すのである。
この報告を受けた曹操は似顔絵を撒いて左慈を探させ、発見次第首を刎ねようと考える。
左慈はすぐに発見されるが、同じ顔の左慈が引き出されること2、300人にも上ってしまったため、曹操は全員の首を刎ねさせる。
すると斬られた首が青い煙となって昇って、瞬く間に左慈の姿となり、左慈は白鶴を呼び寄せその背中に乗り、曹操の死を予言して何処かへと去ってしまうのである。
そして激しい突風が吹くと、首を刎ねられた死体が一斉に曹操に襲い掛かり、曹操は昏倒して病に伏すこととなる。
関連項目
芥川龍之介
-『
杜子春
』に鉄冠子の名前で登場する。
左慈 - Wikipedia
より要約
投票数
0
ふりがな
入力する
性別
入力する
出身地
入力する
生年月日
入力する
血液型
入力する
職業
入力する
所属
入力する
Twitter
入力する
フォロワー
追加・投票
不適切なページとして報告する
閉じる
不適切なページを報告する場合は、
ログイン
または
ユーザ登録
してください
※名誉毀損・誹謗中傷にあたる情報の削除等はこちらからお願いいたします
つながりの強いひと
于吉
後漢末期の道士。男性。琅邪の道士。その先祖以来、東方に萬居をし、呉会(呉郡・会稽一帯)を行き来して精舎(道教徒の集まる教会)を建て、香を焚き道教経...
孫権
後漢末から三国時代にかけて活躍した武将。呉を建国し初代皇帝に即位した。字は仲謀。長命で帝位に昇る相があるとされ、三国時代の君主の中で最も長命した。...
呂蒙
中国、後漢末期の武将。孫策・孫権に仕えた。字は子明(しめい)。汝南郡富陂の人。『三国志』呉志に伝がある。
孫策
孫策(そんさく、175年–200年)は中国の後漢末の武将。字は伯符(はくふ)。諡は長沙桓王。
甘寧
中国の後漢末、孫権に仕えた武将。字は興覇(こうは)。益州の巴郡臨江県(現在の重慶市忠県)出身。甘&29900;・甘述(『晋書』「甘卓伝」)の父。甘昌の祖父...
凌統
後漢末期の武将。字は公績(こうせき)。子に凌烈と凌封がいる。
祝融
中国神話の火の神。
関平
後漢末期に劉備に仕えた武将。字は不詳。父は関羽、兄弟は関興。
大喬
中国の後漢末の女性。喬玄(正史では橋公)の娘。小喬の姉。孫策の妻。京劇では喬靚という名で知られる。正史では橋公の娘で孫策の「妻」としか記述がない。...
陸遜
後漢、中国三国時代の武将、政治家。初名は陸議。字は伯言(はくげん)。謚は昭侯(しょうこう)。陸続の玄孫、陸襃の曾孫、城門校尉陸紆の孫、九江郡都尉陸...
もっと見る
姜維
中国三国時代の魏の人物、後に蜀漢の武将。字は伯約(はくやく)。天水郡冀県の出身。父は姜冏。
高順
中国の後漢時代末期の武将。
塩崎雄二
日本の漫画家。代表作は、『一騎当千』。趣味は野球、海外旅行、庭での野菜作り、ドライブ。好物はビール。元々は『ビジネスジャンプ』など集英社での連載が...
諸葛亮
中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明(こうめい)。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建...
張角
太平道の教祖で冀州鉅鹿(現在の河北省平郷県)の人。
張遼
中国後漢末期、三国時代の武将。字は文遠(ぶんえん)。雁門郡馬邑県(現/山西省朔州市朔城区)の出身。子は張虎、孫に張統がおり、兄に張汎がいる。『三国志...
曹仁
中国後漢末期から三国時代の武将。字は子孝(しこう)。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の人。曹操の従弟。曹純の兄。曹泰・曹偕・曹範らの父。曹初の祖...
張梁
張梁(ちょうりょう、?-184年)は張角、張宝の弟。人公将軍を自称。兄達と共に黄巾の乱を起こす。反乱軍を指揮し官軍を苦しめた。長兄の張角が病死後も軍を引...
黄忠
中国後漢末期から三国時代の将軍。字は漢升。諡は剛侯。子に黄叙。劉備に仕え、益州や漢中の攻略等で活躍した。三軍筆頭の勇者と評された勇将である。
劉玄徳
我こそは劉玄徳が義弟関羽雲長なり 03年02月02日(日) ふう。買っちゃった。『 真・三國無双2 』。一緒に『 三國史戦記 』も買っちゃった。攻略本も買っちゃ...
左慈さんについてのひとこと紹介