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プロフィール
- 市川崑とは
- 戦前
- 戦後
- 東京オリンピック論争
- テレビ映像への挑戦
- 昭和後期から平成へ
- ジャンルと演出
- 脚本
- キャスティングとスタッフ
- 影響
- 人物
- 和田夏十
- 映画
- 主なテレビ作品
- 関連サイト
市川崑(いちかわこん、幼名:市川儀一、1915年(大正4年)11月20日-2008年(平成20年)2月13日)は日本の映画監督。娯楽映画から実験的映画、更にはテレビ時代劇ドラマまでを幅広く手がけ、昭和の日本映画黄金期から21世紀初頭まで、第一線で映画制作に取り組んだ。代表作に『ビルマの竪琴』『おとうと』『野火』『東京オリンピック』『 犬神家の一族』『細雪』など。
戦前
| 1915年(大正4年)、三重県宇治山田市(現・伊勢市)生まれ。 |
| 4歳から大阪府、京都府、長野県で育つ。 |
| 本籍は広島市土屋好生『映画監督市川崑』近代映画社、2009年、p40-61『市川崑大全』映画秘宝編集部編、2008年、p20市川崑・森遊机共著『市川崑の映画たち』ワイズ出版、1994年、p30-32東京スポーツ・2008年2月15日付19面。 |
| 幼少時は市川儀一という名前で、成人してから市川崑に改名した。 |
| 改名の理由は、市川自身が漫画家の清水崑のファンであったからとも、姓名判断にこっていた伯父の勧めからとも言われている。 |
| 画家に憧れていたが、当時は財産がないと難しかったのであきらめる。 |
| 少年時代に見たウォルト・ディズニーのアニメ映画にあこがれ、親戚の伝手で京都のJ.O.スタヂオ(のち東宝京都撮影所)のトーキー漫画部に入り、アニメーターを務める。 |
| そして『ミッキー・マウス』や『シリー・シンフォニー』などのフィルムを借りて一コマ一コマを克明に分析研究し、映画の本質を学んだ。 |
| 召集令状は2度きたが、脊椎カリエス、腹膜炎でともに免除となった。 |
| 1936年(昭和11年)には脚本・作画・撮影・編集をすべて一人でおこなった6分の短編アニメ映画『新説カチカチ山』を発表。 |
| 漫画部の閉鎖とともに実写映画の助監督に転じ、伊丹万作、阿部豊らに師事。 |
| 京都撮影所の閉鎖にともなって東京撮影所に転勤する。 |
| この東宝砧撮影所は、以後、短い新東宝時代、10年程度の日活・大映時代を除き、没後の「お別れの会」に至るまで終世のホームグラウンドとなった。 |
| 1970年代以降の東宝は自社制作が極端に少なくなったが、そのうちのかなりの本数を市川に委ねており、絶対の信頼関係があった。 |
| 東宝および直系子会社が主に出資した作品を東宝映画とみなした場合、製作分離した1970年代以降で16本を市川が監督。 |
| 現在までのところ10本以上撮っている監督は他にいない。 |
| これ以外に他社主導出資や製作委員会方式で東宝撮影所使用の作品が多数ある。 |
戦後
| left|thumb|『炎上(映画)|炎上』公開時のポスター。 |
| 1945年(昭和20年)には人形劇アニメの『娘道成寺』を制作したがお蔵入りした。 |
| 終戦を29歳で迎え、その時には実写の助監督に戻っていた。 |
| その後市川は実写映画に活動の場を移した。 |
| 市川はアニメーションから実写映画に転身して成功を収めた数少ない映画人である。 |
| 東宝東京撮影所から東宝争議のなかで新東宝撮影所に転じ、のちにまた東宝に復帰した。 |
| この時期は『プーサン』や『億万長者』などの異色風刺喜劇や早口演出の『結婚行進曲』、大胆な映像処理の『盗まれた恋』などの実験的な作品で話題を呼んだが、『三百六十五夜』のようなオーソドックスなメロドラマの大ヒット作品も撮っている。 |
| 1955年(昭和30年)にはその前年映画制作を再開したばかりの日活に移籍。 |
| 『ビルマの竪琴』で一躍名監督の仲間入りを果たし、さらに大映に移籍。 |
| 文芸映画を中心に『鍵』、『野火』、『炎上』、『破戒』、『黒い十人の女』、『日本橋』、『ぼんち』、『私は二歳』、『雪之丞変化』など名作を毎年のように発表して地位を確立した。 |
| とりわけ1960年(昭和35年)の『おとうと』は大正時代を舞台にした姉弟の愛を宮川一夫のカメラで美しく表現、自身初のキネマ旬報ベストワンに輝く作品となった。 |
| また石原裕次郎主演で『太平洋ひとりぼっち』(1962年)を撮るなど、意欲的な映像活動に取り組んでいたのもこの時期のことである。 |
東京オリンピック論争
| 1965年(昭和40年)には総監督として製作した『東京オリンピック』が一大センセーションを起す。 |
| 市川はオリンピックは筋書きのない壮大なドラマに他ならないとして、開会式から閉会式に至るまでの緻密な脚本を和田夏十・谷川俊太郎・白坂依志夫とともに書き上げ、これをもとにこのドキュメンタリー映画を撮りあげた。 |
| しかも冒頭に競技施設建設のため旧来の姿を失ってゆく東京の様子を持ってきたり、一つのシーンを数多くのカメラでさまざまなアングルから撮影したり、望遠鏡のような2000ミリ望遠レンズを使って選手の胸の鼓動や額ににじむ汗を捉えたり、競技者とともに観戦者を、勝者とともに敗者を、歓喜とともに絶望を描いたりするなど、従来の「記録映画」とは全く性質の異なる極めて芸術性の高い作品に仕上げた。 |
| これをオリンピック担当大臣の河野一郎が「記録性に欠ける」と批判したことから後に崑は『朝日新聞』とのインタビューで「要するに河野さんは、馬とかマラソンにうんちくのある方だったんですが、その辺の競技を映画で見たかったのにそれが十分入っていないのが気に食わなかった。 |
| 作品を全面否定されたわけでも何でもないんです。 |
| 今から言えば笑い話ですがね」と当時を振り返っている(1985年8月27日付朝刊)。 |
| 、「『東京オリンピック』は記録映画か芸術作品か」という大論争を呼び起こすことになった『東京オリンピック』はその芸術性が高く評価されて、同年度のカンヌ国際映画祭でドキュメンタリー作品としては異例の国際批評家賞を受賞している。 |
| また同作は映画館以外にも日本各地の学校や公民館などで上映会が開かれたことから、その観客動員数では事実上日本映画史上最多であるといわれている。 |
テレビ映像への挑戦
| テレビ放送の開始で、映画が全盛期から斜陽期へと向かう時代が忍び寄る中、映画関係者の中にはテレビに敵対意識を持ったり、蔑視する者が少なくなかった。 |
| そんな中、市川はテレビを新メディアとしての可能性に注目し、映画監督としては1959年(昭和34年)よりこの分野に積極的に進出。 |
| フィルム撮りのテレビ映画やコマーシャル・フィルムにはじまり、生放送ドラマ、ビデオ撮りのドラマから実験期のハイビジョンカメラを使ったドラマまでを手がけ、テレビ史においても先駆的な役割を果たした。 |
| 1965年から1966年にかけて放送された『源氏物語』(毎日放送)では、美術や衣装を白と黒に統一するなど独特の演出を手がけ、演出指導を務めた「夕顔の巻」では国際エミー賞にノミネートされた。 |
| テレビコマーシャルでは、大原麗子を起用したサントリーレッド(ウイスキー)がシリーズ化され、長年に渡って放映された。 |
| 1972年(昭和47年)に監督・監修を手がけた連続テレビ時代劇『市川崑劇場・木枯し紋次郎シリーズ』(フジテレビ)は、市川自身による斬新な演出と迫真な映像から今日では伝説的な作品となっており、その後のテレビ時代劇に大きな影響を与えたと言われている。 |
| また、全民間テレビ放送局で同時放送された『ゆく年くる年』の1979年-1980年(東京12チャンネル制作)で総監督も務めている。 |
昭和後期から平成へ
| 1969年(昭和44年)には黒澤明、木下惠介、小林正樹と4人で「四騎の会」を結成し、『どら平太』の脚本を共同で執筆、当初は4人共同監督で映画化と発表されたが市川の撮影シーンをどの部分にするかでもめて中止。 |
| 後年、3人が亡くなったのちに自身で監督している。 |
| 1970年代は横溝正史の「金田一耕助シリーズ」を手掛け、絢爛豪華な映像美と快テンポの語り口で全作が大ヒットとなった。 |
| さらに『細雪』、『おはん』、『鹿鳴館』などの文芸大作、海外ミステリーを翻案した『幸福』、時代劇『四十七人の刺客』、『どら平太』、『かあちゃん』など、多彩な領域で成果を収める。 |
| 2003年(平成15年)にはフィルムセンターにて初期作品も含めた65本を上映する大特集が組まれ、前後して初期・中期の作品が相次いでDVD化されるなど、前半生の作品の再評価も進んでいった。 |
| 90歳を超えても現役で活躍したという点では新藤兼人に次ぐ長老監督に位置し、日本映画界においては受賞歴と興行実績をあわせたキャリアにおいて比肩する者のない存在となったが、2006年(平成18年)には30年前に監督した『犬神家の一族』をセルフリメイクするなど、老いてなおその実験精神は衰えなかった。 |
| 2008年(平成20年)2月13日午前1時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去。 |
| 2008年(平成20年)3月11日、日本政府は閣議に於いて市川に対し、彼の長年の映画界への貢献及び日本文化の発展に尽くした功績を評価し、逝去した2008年2月13日に遡って正四位に叙すると共に、旭日重光章を授与することを決定した。 |
| なお、60年の監督生活を長期間特定の会社に専属することなく過ごし、なおかつ低落し続ける日本映画界でほとんどブランクなく撮り続けた実績は驚異的であるが、これだけ各社を飛び回りながら、大手映画会社では松竹とだけ縁がなかった(東映は東横映画時代に1本撮っている)。 |
| 1980年代に半村良の「妖星伝」映画化が同社製作で発表され、そのほか池波正太郎作品映画化(作者が市川を高く評価していた)やシネマジャパネスクでも名前があがったが、いずれも実現しなかった。 |
ジャンルと演出
| 市川の作品には、「文芸作品」「時代劇」「アニメーション」「ドキュメンタリー」「コメディ」「メロドラマ」「ミステリー」など、非常に多くの分野が含まれ、どの分野でも野心的な作品を撮った。 |
| 大作『東京オリンピック』の後に人形劇『トッポ・ジージョのボタン戦争』を手がけたり、横溝正史のおどろおどろしい『獄門島』と『女王蜂』との間にアニメ合成を駆使した漫画の神様である手塚治虫の原作を映画化した、ファンタジー映画『火の鳥』を製作するなどその活動の幅は広く、作風は多彩である。 |
| キャスト・スタッフのクレジットにおいて、「画面に沿って直角に曲げて表記する」という独特の表記法が有名で、『新世紀エヴァンゲリオン』(こちらはサブタイトルの表記)ではオマージュが見られた。 |
| 晩年では黒鉄ヒロシのマンガによる紙人形で全編を撮影した『新選組』がファンの度肝を抜いた。 |
| また、30年ぶりにセルフリメイクした『犬神家の一族』では、まったく同じ脚本を用い同じ主演俳優を起用してみたりもした。 |
| カット割や構図も前作を踏襲したものが多いが、前作では飄然と汽車に向かう金田一が今回は画面に向かってお辞儀するラストとなっており、記録的な長期間に及んだシリーズの打ち止めと、遺作となる可能性を意識した監督自身の別れの挨拶と深読みする人もいる。 |
脚本
| 脚本はすべて同志でもあった和田に委せることが多かったが、和田の病気引退後は大部分の作品に自らが執筆参加している。 |
| ミステリ映画脚本の際に用いられるペンネーム「久里子亭」(くりすてい、アガサ・クリスティーのもじり)は当初は和田と市川の、後年は日高真也と市川の共同名義である。 |
| 「日本文学全集」(石上三登志)と揶揄気味に評されるほど純文学の映画化が多い市川だが、このネーミングに示されるようにミステリーへの造詣も非常に深い。 |
| 『犬神家の一族』では脚本第一稿からオカルト色を排除して謎解きドラマを押し出し、同時期の『八つ墓村』(1977年、松竹、監督:野村芳太郎)と好対照を成した。 |
| その他の金田一耕助シリーズでも、派手なスプラッタ場面などを織り込みつつも、毎回同じキャラクターなのに違う役名で現れる加藤武演ずる警部には、当初金田一を邪魔者扱いしながらも後半には微かな友情が芽生えるが、毎回リセットされてしまう(次作ではまた初対面)など、日本人好みのホームドラマ趣味を逆手にとった知的な遊びの要素が際立っていた。 |
| 『女王蜂』の脚本を共同執筆した桂千穂は、市川から突然「海辺を疾駆する白い馬の絵が撮りたい」と言われ、それはストーリーとどう結びつくのかと尋ねたところ、そこを君が考えてくださいと返されたエピソードを賛嘆を込めて記している。 |
| インタビュー等でも作品論を理論づけたりすることは得意ではなく、来日した評論家あがりのフランソワ・トリュフォーを苛々させたこともあった。 |
| 和田夏十、谷川俊太郎、日高真也、長谷部慶治らがブレーンとして支えたとはいえ、極度に感覚的で、批評家泣かせであったといえる。 |
キャスティングとスタッフ
| 『犬神家の一族』以降、石坂浩二は多くの作品で重用。 |
| 岸は後年の市川への弔辞では、この際に直接国際電話を受けて代役であることも告げられ「仕方ないからあんたに」「ミスキャストもいいところ」と言われながらも即答で引き受けたエピソードを語り、強い信頼関係をうかがわせた。 |
| 多くの大映作品で主演した船越英二と、50年にわたって要所要所で招かれた仲代達矢らも重要なパートナーである。 |
| 仲代には、血のつながらない養女を女として愛してしまう父親役(仲代には実際に血のつながらない養女がいる)を振ったこともある。 |
| 脇役では、岸田今日子は大映時代より長きにわたり起用。 |
| 他に、浜村純、北林谷栄、加藤武、岸部一徳らを上手く用いた。 |
| 尾藤イサオ、石倉三郎などは市川に名バイプレイヤーとしての素質を発掘されている。 |
| 師匠にあたる伊丹万作の息子・伊丹十三は常連出演者となり影響を強く受けつつ監督デビュー、さらにその子・池内万作もリメイク版『犬神家の一族』に出演した。 |
| その他には作曲家の山本直純と山本純ノ介、脚本家の八住利雄と白坂依志夫らが親子、詩人で多くの脚本を書いた谷川俊太郎、その子で晩年作品のほとんどで音楽監督をつとめたジャズピアニストの谷川賢作らでスタッフとなっている。 |
影響
| 市川の独特の映像表現は、後輩の映画監督に多大な影響を与えている。 |
| 「岩井美学」とまで呼ばれる映像手法を確立した岩井俊二は、1976年(昭和51年)の『犬神家の一族』を「自分の映画作りの教科書」と呼んでいる。 |
| 市川を崇拝する岩井は2006年(平成18年)に『市川崑物語』を製作している。 |
| 久世光彦は、「日本映画は市川作品だけを観ていればよい。 |
| 北野武は、市川の『東京オリンピック』に強い影響を受けたと語っている。 |
| ソウル・バスは、「グラン・プリ」のタイトル・バックに『東京オリンピック』の影響があると語っている。 |
| なお和田誠・森遊机編の『光と嘘真実と影市川崑監督作品を語る』(河出書房新社、2001年)では塚本晋也、井上ひさし、小西康陽、橋本治、椎名誠、宮部みゆきなど各界の市川ファンが賛辞を寄せている。 |
| 日本映画の巨匠としてはヒット作や大衆的人気にめぐまれた方だが、錚々たる授賞歴の一方で、キネマ旬報社の叢書「世界の映画作家」では最後まで取り上げられなかった。 |
| 蓮實重彦、山根貞男ら全く認めようとしない人々の一方では熱烈な支持者も少なくなく、浦崎浩實は没後の「キネマ旬報」に「多様な様式を一人でカバーした“超”のつく巨匠だった」との一文を寄せた。 |
人物
| 2008年5月30日に放送された『スタジオパークからこんにちは』(NHK)に出演した石坂浩二の話によると、ある日油分が多い牛丼を食べている市川を見て石坂が注意したところ「こんな年になってそう食生活なんて変えられないよ」と笑っていたという。 |
| 一日にチェリー(またはキャメル)を100本は欠かさずに吸っており、手を使わずに喫煙できるように、抜歯した歯の隙間に挟んで喫煙していた事でも知られ、撮影中はもちろんインタビューを受ける時もくわえタバコがトレードマークだった。 |
| 文化功労者に選出された1994年(平成6年)には『NHK紅白歌合戦』に審査員として出演したが、司会の古舘伊知郎から「場内は禁煙でございますので」と忠告され頭をかいていた。 |
| 実母が広島の原爆ドームそばで被爆しながら90歳を越える大往生をし、また実姉も100歳を越えるまで生きたことで、「ニコチンくらいたいしたものではない」と公言していたが、晩年には、健康に気を使うようになり始めたことに加え吉永小百合のアドバイスもあり、亡くなる5~6年前からは禁煙していたという東京スポーツ・2008年2月15日付19面。 |
| 幼少期から母・姉たち共に親戚間を渡り歩いて育ったため、石坂浩二は「市川監督は広島弁と京都弁と和歌山弁混じりの言葉だった」と話している『市川崑大全』映画秘宝編集部編、2008年、p20、38。 |
和田夏十
| そもそも「和田夏十」(わだなっと)という名は東宝撮影所時代に2人が共同執筆するためのペンネームとして使っていたもので、1951年(昭和26年)の『恋人』で「脚本の才能ではとても妻に及ばない」と市川がこれを妻に譲り、以後彼女専用のペンネームになったという経緯がある。 |
映画
| 『新説カチカチ山』(1936年完成=公開年月日不詳、J・Oトーキー漫画部育映画*短編アニメーション)※演出ほか。 |
主なテレビ作品
| 『木枯し紋次郎』(1972年-1973年、フジテレビ=C.A.L)※第1、2、3、18話を監督、その他多くを監修。 |
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1960年
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大映東京)※オムニバス作品 |
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1966年
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かけて放送された『源氏物語』(毎日放送)で... |
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