76071
76495
1013763
%E5%B8%82%E5%B7%9D%E7%8C%BF%E7%BF%81
%E5%B8%82%E5%B7%9D%E7%8C%BF%E7%BF%81
%E5%B8%82%E5%B7%9D%E7%8C%BF%E7%BF%81
%E5%B8%82%E5%B7%9D%E7%8C%BF%E7%BF%81
%E5%B8%82%E5%B7%9D%E7%8C%BF%E7%BF%81
0
|
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
プロフィール
市川猿翁(いちかわえんおう、1888年(明治21年)5月10日-1963年(昭和38年)6月12日)は、明治から戦後にかけて活躍した歌舞伎役者。本名は喜熨斗政泰(きのしまさやす)、俳名は笑猿(しょうえん)、屋号は澤瀉屋。定紋は、替紋は。「猿翁」は舞台で使われることが一度もなかった名跡で、しかも襲名直後に本人が死去したため実績もまったくない。逆に「猿之助」の方は53年間にわたって名乗り続けた名跡で、これが今日でも二代目 市川猿之助(にだいめいちかわえんのすけ)として語られることが多い所以である。当代の三代目 市川猿之助・四代目 市川段四郎兄弟は孫にあたる。
来歴・人物
| 九代目市川團十郎に入門。 |
| 1892年(明治25年)10月、歌舞伎座『関原誉凱歌』(せきがはらほまれのかちどき)の千代松役で初代市川團子を名乗り初舞台。 |
| 今後は歌舞伎役者も豊富な教養が必要という父の意向で私立京華中学に進学・卒業するが、これは当時の歌舞伎界では異例なことだった。 |
| 1909年(明治42年)、二代目市川左團次の主宰する自由劇場に参加。 |
| 翌1910年(明治43年)、二代目市川猿之助を襲名、以後実に53年間にわたってこれを名乗り続ける。 |
| その後、欧米に留学して最新の舞台芸術を学ぶ。 |
| このとき見たディアギレフのロシア舞踊が『黒塚』『小鍛冶』『悪太郎』などの新作舞踊の立体的な演出に生かされるなど、猿之助にとって貴重な体験となった。 |
| 1920年(大正9年)には春秋座を主宰し、新作や翻訳物に取り組む。 |
| 一時松竹を離脱、復帰後は二代目左團次一座に入り、真山青果の新作歌舞伎で共演して名舞台を生んだ。 |
| その後も埋もれていた古典の復活上演、新作喜劇『小栗栖の長兵衛』『研辰の討たれ』『膝栗毛』の初演、映画『阿片戦争』の主演などで話題を集める。 |
| 戦後も活動の勢いは衰えることなく、ソ連・中国公演、古典ものの本格的上演、井上正夫・初代水谷八重子ら新派との共演など幅広い活躍を続ける。 |
| 1957年(昭和32年)、日本俳優協会の初代会長に就任。 |
| 長年の功績が認められ芸術院賞受賞、日本芸術院会員となる。 |
| 1963年(昭和38年)、ある夜みた夢から自らの死を予感した猿之助は、そろそろ潮時と、自分は新たに「市川猿翁」を名乗ることにし、「猿之助」の名跡は長孫に譲り、その弟(後の四代目段四郎)には四代目市川團子を襲名させることにした。 |
| ところが予感が的中、5月の歌舞伎座における「初代市川猿翁・三代目市川猿之助、四代目市川團子襲名披露興行」を目前に控えて4月20日心臓病で倒れる。 |
| 襲名興行では生涯の当たり役である『黒塚』の老女を舞って孫の晴れ舞台に花を添えるつもりでいたが、病院で絶対安静を余儀なくされてしまった。 |
| そこで急遽三代目猿之助が代役でこれを務めたが、孫がこの舞を踊る1時間15分間のあいだ、猿翁はベッドの上に正座・合掌してその無事を祈った。 |
| せめて千穐楽の口上だけでも自ら務めたいという願いが叶い、やはり前年から病臥していた息子の三代目段四郎と共に病躯に鞭打って、3日間だけ、数分間だけではあるが歌舞伎座の舞台に上った。 |
| これが猿翁としての唯一の舞台、そして彼の生涯で最後の舞台となった。 |
| 二週間後の6月12日午後12時28分、入院先の聖路加病院において心不全のため死去、75歳だった。 |
芸風
| 明るく男性的な芸風で口跡に優れていた。 |
| 当たり役は『仮名手本忠臣蔵・九段目』の本蔵、『傾城反魂香』の又平、『近頃河原の建引』(ちかごろかわらのたてびき)の与次郎、『平家女護島・俊寛』の俊寛などの古典。 |
| 『将軍江戸を去る』の山岡鉄太郎、『元禄忠臣蔵・最後の大評定』の井関徳兵衛、『元禄忠臣蔵・御浜御殿豊綱卿』の富森助右衛門、『研辰の討たれ』の辰次、『新宿夜話』の大八などの新作。 |
| 『雨の五郎』『草摺引』の曽我五郎などの舞踊などがある。 |
| 特に猿翁自身が得意とした舞踊は、三代目猿之助により1964年(昭和39年)6月に「猿翁十種」として、1975年(昭和50年)11月には「澤瀉十種」として、それぞれまとめられた。 |
| 生涯かけて新しい歌舞伎を目指した猿翁の精神は、孫の現猿之助によって見事に生かされている。 |
| category:1963年没。 |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
市川段四郎
替紋は。俳名に笑楽。舞踏の名取は琴吹千草(ことぶきちぐさ)。 |
|
|
井上正夫
明治・大正・昭和期の新派劇俳優、映画監督、書家。演劇の大衆化に尽力すると共に、「活動写真」を「映画」という芸術まで高めた功労者でもある。胸像が松山... |
|
|
原節子
日本の元女優。「永遠の処女」と呼ばれ、戦前から戦後にかけて活動し、日本映画の黄金時代を体現した。代表作に『わが青春に悔なし』、『青い山脈』、『めし... |
|
|
高峰秀子
函館市出身の日本の女優、歌手、エッセイスト。愛称:デコちゃん。夫は映画監督、脚本家の松山善三。本名:松山秀子、旧姓:平山。身長153cm。1929年映画『母... |
|
|
真山青果
日本の劇作家・小説家。本名は、真山彬(まやまあきら)。宮城県仙台市裏五番町三番地に生まれる。父・寛は、伊達藩士族で教育者(小学校長)だった。なお長... |
|
|
市川猿之助
歌舞伎役者、日本の俳優、演出家、京都造形芸術大学教授。本名は喜熨斗政彦(きのしまさひこ)。屋号は澤瀉屋。定紋は、替紋は。俳名に華果(かか)がある。... |
|
|
市川左團次
明治・大正・昭和に活躍し、歌舞伎の近代化に尽くした歌舞伎役者。屋号は高島屋、定紋は(みますにひだり)、替紋は(まつかわびしにおにづた)。俳名に杏花... |
|
|
市川團十郎
九代目市川團十郞(くだいめいちかわだんじゅうろう、新字体:団十郎、天保9年10月13日(1838年11月29日)-1903年(明治36年)9月13日)は明治時代に活躍した... |
|
|
市川雷蔵
八代目市川雷蔵(はちだいめいちかわらいぞう、1931年(昭和6年)8月29日-1969年(昭和44年)7月17日)は歌舞伎役者、俳優。出生名は亀崎章雄(かめざきあき... |
|
|
榎本虎彦
榎本虎彦(えのもととらひこ、慶応2年1月10日(1866年2月24日)-大正5年(1916年)11月16日)は明治・大正期の狂言・歌舞伎作家。俳号は破笠。和歌山市出身で... |
|
|
市川亀治郎
東京都出身の俳優、歌舞伎役者。本名は喜熨斗孝彦(きのしたかひこ)。屋号は澤瀉屋、定紋は(やえおもだか)。歌舞伎名跡「市川亀治郎」の当代。所属事務所... |
|
|
松尾國三
松尾國三(まつおくにぞう、明治32年(1899年)6月8日-昭和59年(1984年)1月1日)は佐賀県伊万里市出身の、日本の歌舞伎役者・実業家・芸能プロモーター。旅役者... |
|
|
猪八戒
中国の四大奇書小説『西遊記』に登場する主要登場キャラクターの一人である妖仙。台湾などではという神として崇拝されている。 |
|
|
北山修
日本の精神科医、精神分析家、臨床心理学者、作詞家、ミュージシャン。兵庫県淡路島生まれ。洛星高等学校、京都府立医科大学医学部卒。医学博士。九州大学名... |
|
|
遠山景元
江戸時代の旗本で、天保年間に江戸北町奉行、後に南町奉行を務めた人物である。テレビドラマ(時代劇)『遠山の金さん』のモデルとして知られる。幼名は通之... |
|
|
市川喜猿
歌舞伎役者。屋号は澤瀉屋。定紋は八重澤瀉。前名は市川段三郎。本名は佐藤賢(さとうまさる)。群馬県出身。三代目市川猿之助のスーパー歌舞伎『ヤマトタケ... |
|
|
森川美穂
日本の歌手、女優。本名は榎並美穂(えなみみほ)。大阪府出身。日出女子学園高校卒業。所属事務所はヤマハ音楽振興会→とらねこ→オフィスとんで→KTplusEntert... |
|
|
市川靖子
娘靖子は二児の母とある。1976年の記事)。離婚後は芸能活動を再開。サスペンスドラマを中心に多くのテレビドラマや舞台に出演した。平成15年(2003年)11月2... |
|
|
市川猿翁さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|