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プロフィール
- 市川雷蔵とは
- 概要
- 誕生・三代目市川九團次の養子となる(1931年8月 - 1933年)
- 歌舞伎役者となる(1934年 - 1949年5月)
- 三代目市川壽海の養子となる(1949年6月 - 1951年6月)
- 映画俳優に転身(1951年7月 - 1957年)
- トップスターとなる (1958年 - 1968年5月)
- 死(1968年6月 - 1969年7月17日)
- 死後(1969年7月17日 - )
- 演技
- 勝新太郎との比較
- 関連サイト
八代目市川雷蔵(はちだいめいちかわらいぞう、1931年(昭和6年)8月29日-1969年(昭和44年)7月17日)は歌舞伎役者、俳優。出生名は亀崎章雄(かめざきあきお)。後に本名を竹内嘉男(たけうちよしお)、さらに太田吉哉(おおたよしや)に改名した。
概要
| 京都府京都市生まれ。 |
| 生後6か月のときに三代目市川九團次の養子となり、15歳のとき市川莚蔵を名乗って歌舞伎役者として初舞台を踏む。 |
| 1951年に三代目市川壽海の養子となり八代目市川雷蔵を襲名。 |
| 1954年に映画俳優に転身。 |
| 1959年の映画『炎上』での演技が評価され、キネマ旬報主演男優賞受賞、ブルーリボン賞主演男優賞などを受賞。 |
| 1960年代には勝新太郎とともに大映の二枚看板(カツライス)として活躍した。 |
| 1968年6月に直腸癌を患っていることがわかり、手術を受けるが肝臓に転移、翌年7月に死去した。 |
誕生・三代目市川九團次の養子となる(1931年8月 - 1933年)
| 市川雷蔵は1931年8月29日、京都府京都市中京区西木屋町神屋町で誕生した。 |
| 出生時の名は亀崎章雄といった。 |
| 生後6か月の時に伯父で歌舞伎役者の三代目市川九團次の養子となり、本名を竹内嘉男と改名した雷蔵、雷蔵を語る、巻末の年譜。 |
| 映画評論家の田山力哉によると、雷蔵が養子に出された経緯は次のとおりである。 |
| 雷蔵の父は母が雷蔵を妊娠中に陸軍幹部候補生として奈良に移り、母は父の生家に留まった。 |
| しかし母は父の親族のいじめに遭い、母は父に助けを求めたが無視されたため、たまりかねて実家に戻って雷蔵を出産田山1988、14-15頁。 |
| ノーベル書房(編)1991、265頁。 |
| 母ははじめこの申し出を断ったが最終的に同意、雷蔵は九團次の養子となった田山1988、15-17頁。 |
| 雷蔵自身が九團次の養子であることを知ったのは16歳の時市川1995、52-53頁。 |
| 、実母との対面を果たしたのは30歳を過ぎてからのことだったノーベル書房(編)1991、264-266頁。 |
歌舞伎役者となる(1934年 - 1949年5月)
| 三代目九團次の養子となってからおよそ2年が過ぎた1934年、雷蔵は京都から大阪へ移った。 |
| 九團次は幼少期の雷蔵に歌舞伎役者の修行をさせなかった市川1995、16頁。 |
| 雷蔵自身も少年時代には歌舞伎役者ではなく海軍士官や医師になることを志したが、近視だったため海軍士官になることは諦めざるを得ず、やがて医師になることも諦め、1946年、3年生の時に中学校を退学。 |
| 歌舞伎役者となる道を選んだ雷蔵自身は、中学をやめて家で過ごすうちになんとなく芸能界に興味を持ち、なんとなく歌舞伎役者になったと述べている(市川1995、16-18頁)。 |
| 田山1988、18頁。 |
| 保阪2001、321頁。 |
| 1946年11月、15歳の時に大阪歌舞伎座で催された東西合同大歌舞伎の『中山七里』の娘おはなで市川莚蔵いちかわえんぞう、養父・三代目市川九團次の前名わたしの雷蔵、260頁。 |
| を二代目として名乗り初舞台を踏んだ田山1988、18-19頁。 |
| 初舞台から2年余りが経った1949年5月には嵐鯉昇(後の八代目嵐吉三郎、映画俳優・北上弥太郎)や二代目中村太郎らとともに若手による勉強会「つくし会」を立ち上げ、稽古に励んだ。 |
| しかし養父の九團次は京都市会議員の子で、歌舞伎役者に憧れて二代目市川左團次に弟子入りした、門弟あがりの役者だった田山1988、17頁。 |
| 権門の出ではない九團次は上方歌舞伎における脇役専門の役者に過ぎず、雷蔵はその息子であることに苦しみ続けることになる。 |
三代目市川壽海の養子となる(1949年6月 - 1951年6月)
| 1949年に雷蔵が「つくし会」を立ち上げたのと同じ時期に、演出家の武智鉄二は筋の良い若手歌舞伎役者を起用して、後に「武智歌舞伎」と呼ばれるようになる正統派歌舞伎を上演するようになった武智歌舞伎の第1回公演は1949年12月に行われている。 |
| 「つくし会」が武智歌舞伎に参加したことがきっかけで雷蔵を知った武智は、雷蔵の役者としての資質を高く評価したが、九團次の子のままでは権門が幅を利かせる梨園では日の目を見ずに埋もれてしまうことを案じたノーベル書房(編)1991、195頁。 |
| そこで武智は、四半世紀もその名が絶えていた上方歌舞伎の大名跡「中村雀右衛門」を継がせようと考えたが、雷蔵が梨園の権門の出でないことを嫌った三代目中村雀右衛門の未亡人に断られてしまう田山1988、21-22頁。 |
| その後武智は、子がなかった三代目市川壽海が雷蔵を養子にしたいという意向を持っていることを知る。 |
| 1950年12月、三代目市川壽海は「つくし会」に審査員として立ち会い、『修禅寺物語』の源頼家を演じた雷蔵に高評価を与えていた。 |
| 壽海は仕立職人の息子という歌舞伎とは無縁の出自を抱えながら、苦労の末に戦中から戦後にかけての関西歌舞伎で急成長をとげ、この頃までには関西歌舞伎俳優協会会長の要職を担う重鎮となっていた |
| さらに七代目團十郎と九代目團十郎が俳名に使っていた「壽海」を名跡として名乗ることを許され |
| 、加えて「成田屋」と「壽海老」という、通常ならば市川宗家の者が使用する屋号と定紋を許されてもいた「壽海老」は本来、市川宗家の御曹司・市川海老蔵が替紋の代替に使う役者文様である。 |
| そこで武智は関係者に働きかけ、この養子縁組を取りまとめることに成功する田山1988、22-23頁。 |
| 壽海は雷蔵に、自身と同じような市川宗家ゆかりの由緒ある名跡である「市川新蔵」を継がせたいと願ったが、これには当時東京で市川宗家の番頭格としてこれを代表する立場にあった二代目市川猿之助が「どこの馬の骨とも知れない役者に新蔵の名跡はやれない」と反対、交渉の結果「市川雷蔵」の名跡を継ぐことで決着した田山1988、27頁。 |
| 養子縁組は1951年4月に成立。 |
| 同年6月には大阪歌舞伎座で雷蔵襲名披露が行われた田山1988、27-28頁。 |
| 市川1995、297-298頁。 |
| 養子縁組を受けて、雷蔵は現在の本名・太田吉哉に改名した。 |
| この名前は姓名判断に凝っていた雷蔵が自ら決めたものだった村松2006、234-236頁。 |
| 後に結婚する永田雅子も、もとは恭子という名前だったが雷蔵の勧めで雅子に改名している田山1988、74頁。 |
映画俳優に転身(1951年7月 - 1957年)
| 右は上使多門伝八郎の黒川弥太郎(大映製作、1958年4月1日公開の『忠臣蔵』より、スチル写真)。 |
| 1951年に壽海の養子となった雷蔵だったが、若いうちから大役を与えないという壽海の方針もあって、さして良い役は与えられず、楽屋には大部屋があてがわれるという扱いを受けた田山1988、28頁。 |
| 動機について雷蔵自身は日和見的・試験的に映画に出てみようと思ったと述べている市川1995、20-21頁。 |
| が、田山力哉によると雷蔵は以前から自分に対する処遇に強い不満を感じていたところ、1954年に大阪歌舞伎座で催された六月大歌舞伎『高野聖』において、台詞がひとつもない白痴の役が割り当てられたことに憤激し武智鉄二は、『高野聖』での配役に憤った雷蔵が武智に対し、「こんなことでは、永久に、脇役者にされてしまいます」と語ったことを明かしている。 |
| (ノーベル書房(編)1991、196頁)、梨園と縁を切ることを決意、かねてから雷蔵を時代劇のスターとして売り出そうとしていた大映の誘いに応じ、映画俳優に転身したという田山1988、28-30頁。 |
| 若い間、映画で稼いで、年を取ったら歌舞伎をやろうと思っているんです」と語っている田山1988、76-77頁。 |
| 映画俳優になることを決めた後、雷蔵は映画館に足繁く通って東映の時代劇スター中村錦之助の演技を研究した保阪2001、324頁。 |
| 雷蔵は1954年8月25日公開の『花の白虎隊』で映画俳優としてデビューした。 |
| 権門の出ではない雷蔵の出自は歌舞伎界では出世の妨げとなったが、関西歌舞伎の重鎮・市川壽海の子である雷蔵は映画界では貴種として扱われた。 |
| 大映の経営陣は雷蔵を長谷川一夫に続くスターとして売り出す意向を持っており、デビュー作の『花の白虎隊』の後5作目の『潮来出島美男剣法』(1954年12月22日公開)、6作目の『次男坊鴉』(1955年1月29日公開)と立て続けに主役に抜擢した田山1988、34-35頁。 |
| -->デビュー2年目の1955年、雷蔵は『新・平家物語』(1955年9月21日公開)の平清盛役でスターとして注目を集めるようになった。 |
| 雷蔵の映画を16本監督した田中徳三は、当初雷蔵の俳優としての大成は難しいと感じていていたが、『新・平家物語』で印象が一変したと述べている室岡1993、102頁。 |
| 映画評論家の佐藤忠男は、『新・平家物語』を境に「長谷川一夫の後を追うように、もっぱらやさ男の美男の侍ややくざを演じた」雷蔵が、「通俗的なチャンバラ映画だけではなく、しばしば格調の高い悲劇も鮮やかに演じるすぐれた俳優になっていった」と評している佐藤2006、298頁。 |
| 雷蔵は足腰が弱く、立ち回りの時にふらつく癖があった田山1988、34頁。 |
| 元大映企画部長の土田正義によると、立ち回りに不安のある雷蔵に「天下を制した青年清盛」を演じさせるのは大変な冒険だったという室岡1993、270頁。 |
| 雷蔵も自身の足腰の弱さを自覚しており、同志社大学相撲部へ通い四股を踏むなど様々な鍛錬を行った室岡1993、210頁。 |
| が改善されず、撮影時にスタッフは足腰の弱さが画面に表れないよう配慮する必要があった室岡1993、254頁。 |
| 雷蔵の映画を18本監督した三隅研次によると、雷蔵は自らの肉体的な弱さに対し強い嫌悪感を持っていたが、ある時期を境にそうした肉体的欠陥を受けいれた上で、それを乗り越えようとする姿勢をとるようになったというノーベル書房(編)1991、282-283頁。 |
| 『新・平家物語』を境に雷蔵は、年間10本以上の映画に出演し休日返上で撮影を行う多忙な日々を送るようになった田山1988、47頁。 |
トップスターとなる (1958年 - 1968年5月)
| 1958年、市川崑は『炎上』(1958年8月19日公開)(原作は三島由紀夫の小説『金閣寺』)の主役に雷蔵を抜擢した。 |
| 市川によると、はじめは川口浩を起用しようとしたが、大映社長の永田雅一に反対され、そこで直感的に雷蔵を指名したという室岡1993、11-12頁。 |
| が、「俳優市川雷蔵を大成させる一つの跳躍台としたい」という決意で臨んだ雷蔵市川1995、32頁。 |
| 市川崑は「役を通じて何か自分というものを表出しようとしている」「演技を通り越した何か…(中略)…彼がそれまで背負ってきた、人にはいえないような人生の何かしらの表情」があったと評している室岡1993、17-18頁。 |
| 田中徳三は雷蔵の複雑な生い立ち、心の地の部分のようなものが出、役と重なり合っていたと評している室岡1993、107頁。 |
| 池広一夫は、生い立ちにまつわる「人生の隠された部分」、「地の部分」というべきものを演技に出せる雷蔵だからこそできた表現と評している室岡1993、206-208頁。 |
| 『炎上』での演技は世間でも高く評価され、キネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン賞男優主演賞などを受賞。 |
| 雷蔵自身も1作目の『眠狂四郎殺法帖』(1963年11月2日公開)について、「狂四郎という人物を特徴づけている虚無的なものが全然出ていない」と述べ、失敗作だったことを認めている市川1995、218-220頁。 |
| ものの、4作目の『眠狂四郎女妖剣』(1964年10月17日公開)で虚無感、ダンディズム、ニヒリズムを表現する役作りに成功した室岡1993、113-116頁。 |
| 剣で斬らないで顔で斬ってた」と述懐、「雷ちゃんは、眠狂四郎を殺陣でもセリフでもなく、顔でやっていたんだとおれは思うよ」と評している室岡1993、256頁。 |
| 『眠狂四郎多情剣』の監督を務めた井上昭は、雷蔵以外にも眠狂四郎を演じた役者はいるが、精神性において雷蔵にはかなわなかったと述べている保阪2001、328-329頁。 |
| 1968年1月、雷蔵は「今まで見たこともない新しい演劇をこしらえたい」という決意の下、劇団「テアトロ鏑矢」を設立しプロデューサーとしての活動を始めようとしたが、その直後の1968年6月に直腸癌に冒されていることがわかり、劇団が活動することのないまま死去したノーベル書房(編)1991、325-333頁。 |
| 、雷蔵の死後、雷蔵について語って欲しいという依頼を断り続けていた太田2009(『文藝春秋』2009年5月特別号、354頁)が、死後40年を経た2009年、『文藝春秋』2009年5月特別号に太田雅子の名で回想記「夫・市川雷蔵へ四十年目の恋文」を発表している。 |
死(1968年6月 - 1969年7月17日)
| 検査の結果直腸癌であることが判明したが、本人には知らされなかった太田2009(『文藝春秋』2009年5月特別号、361頁)。 |
| 退院後、雷蔵は『眠狂四郎悪女狩り』(1969年1月11日公開)『博徒一代血祭り不動』(1969年2月12日公開)の撮影を行ったが体力の衰えが激しく、立ち回りの場面は吹き替えの役者が演じた村松2006、243頁。 |
| 2度目の手術を受けた雷蔵はスープも喉を通らなくなるほど衰弱していた太田2009(『文藝春秋』2009年5月特別号、362頁)が、『あゝ海軍』で海軍士官の役を演じることに意欲を見せ、関係者と打ち合わせを行っていた。 |
死後(1969年7月17日 - )
| 大映京都撮影所で製作部長を務めた松原正樹によると、雷蔵のファン層はその演技や人間性に惹かれたと思われるインテリの女性が多いところに特徴があり、「キャーキャーとさわぐようなタイプなど見当たらなかった」という保阪2001、311頁。 |
演技
| 鈴木晰也は、雷蔵と同じように武智歌舞伎から映画俳優に転身したが、大成せずに結局歌舞伎の舞台に戻った二代目中村扇雀や七代目大谷友右衛門を引き合いに出して、梨園で子役時代を経験しなかった雷蔵が歌舞伎に染りきらなかったことが映画で成功した大きな要因だったと分析している室岡1993、390頁。 |
勝新太郎との比較
| 村松友視は、勝は「何をやっても勝新太郎のイメージ」になるタイプの俳優で、長谷川一夫や片岡千恵蔵らとともに日本の映画スターの本流に属するが、雷蔵は役柄に応じて多彩に演じ分ける、日本の映画スターの中では異色の存在であったと分析している村松2005、84-85頁。 |
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