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プロフィール
- 常盤御前とは
- 生涯
- 物語上の常盤
- 清盛による子供たちの助命について
- 歌謡曲
生涯
| 『平治物語』等の軍記物や、『尊卑分脈』によれば近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の雑仕女であったとされている。 |
| 源義朝の妾(側室)となり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。 |
| 平治元年(1159年)平治の乱が勃発し、義朝は謀反人となる。 |
| その後の消息は、『平治物語』『義経記』等に記されているが事実はどのようなものであったかは不明である。 |
| その後平治の乱の鎮定功労者の一人の平清盛に請われて妾となり、一女(廊御方)を産んだとされる(常盤御前が清盛の妾になった話は軍記物語の『平治物語』『平家物語』などによる。 |
| 史実としては確認されていない、後述。 |
| のちに長寛元年(1162年)頃までには一条長成に嫁入りし、一条能成(長寛2年(1163年)生)や女子を産む『尊卑分脈』『公卿補任』藤能成項。 |
| やがて治承・寿永の乱が勃発し、義経はその一連の戦いの中で活躍をするが、義経が異母兄である頼朝と対立し頼朝追討の院宣を賜って西国に赴いたもののその後義経は没落をし兄頼朝に追われる身の上となる。 |
| 都を落ちたのちの文治2年(1186年)6月6日、常盤は京都の一条河崎観音堂(京の東北、鴨川西岸の感応寺)の辺りで義経の妹と共に鎌倉方に捕らわれている。 |
| 義経が岩倉にいると証言したので捜索したが、すでに逃げた後で房主僧のみを捕らえたとある(『玉葉』)。 |
| 『吾妻鏡』には同月13日に常盤と妹を鎌倉へ護送するかどうか問い合わせている記録があるが、送られた形跡はないので釈放されたものとみられる。 |
| 常盤に関する記録はこれが最後である。 |
| その後の生死については、はっきりした事は不明。 |
| 侍女と共に義経を追いかけたという伝承もあり、岐阜県関ヶ原町・群馬県前橋市・鹿児島県郡山町(現鹿児島市)・埼玉県飯能市には常盤の墓と言われるものがある。 |
| また、飯能市の隣の東京都青梅市成木の最奥部、常盤の地に人目を避けて一時隠れ住まわされたという伝承があり、常盤の地名は常盤御前が住んでいたことに因むと伝えられる。 |
物語上の常盤
| 以下は主に『平治物語』『義経記』による物語上の常盤の話である。 |
| したがってどこまでが事実であるか不明であるがこの物語がその後の文学や芸術に大きな影響を与えたことは事実である。 |
| 常盤は近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の雑仕女で、雑仕女の採用にあたり都の美女千人を集め、その百名の中から十名を選んだ。 |
| その十名の中で一番の美女であったという。 |
| 後に源義朝の妾(側室)となり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。 |
| 平治の乱で義朝が謀反人となってその逃亡中に殺害され、23歳で未亡人となる。 |
| その後子供たちをつれて雪中を逃亡し大和国にたどり着く。 |
| その後、都に残った母が捕らえられたことを知り、主であった九条院の御前におもむいてから(『平治物語』)、清盛の元に出頭する。 |
| 出頭した常盤は母の助命を乞い、子供たちが殺されるのは仕方がないことけれども子供達が殺されるのを見るのは忍びないから先に自分を殺して欲しいを懇願する。 |
| その様子と常盤の美しさに心を動かされた清盛は頼朝の助命が決定していたことを理由にして今若、乙若、牛若を助命したとされている。 |
| なお、室町以降に成立したとみられる『義経記』ならびに室町以降に成立した流本系『平治物語』においては清盛が常盤によしなき心を抱き、その後清盛が常盤に文を送り子供の命をたてにとって返答を強要したという内容が記されている(流布本『平治物語』では清盛から子供の命を絶つと言われても常盤は返事せず、母親に説得されて初めて常盤が返答したとある)。 |
| しかし鎌倉時代に成立した『平治物語』においては、常盤が清盛から局を与えられ後に女子を一人産んだとの記載があるが、それには常盤が清盛の意に従う事と子供達の助命の因果関係は記されてない。 |
| 古態本『平治物語』において常盤と清盛が男女関係になったのは子供達の助命決定後の事となっている。 |
| なお、『平治物語』諸本においての常盤の言動は、常盤と子供達が姿を消した為に囚われの身になった母親の助命のみに終始しており、子供達の助命を清盛に対して一切申し入れていない。 |
| 子供達が殺されるのを見るのは辛いから先に自分を殺して欲しいという言動がのみが記されている。 |
| また『平治物語』においては子供達の助命の理由が清水寺の観音のご加護であるという点が強調されている。 |
| 『義経記』においては清盛の意に従ったがゆえに子供たちがそれなりに身が立つようになったと記されている。 |
| なお、常盤逃亡談は『平治物語』にくわしいが、この物語はもともと清水寺の観音信仰から生まれたものでもともとは『平治物語』とは別個の物語として存在していたものがやがて『平治物語』に組み込まれていったという見解が強い五味文彦『源義経』(岩波新書)、日下力『古典講読シリーズ 平治物語』(岩波書店)。 |
| この常盤の逃避行の話はその後室町期の幸若舞の『伏見常盤』『常盤問答』『笛の巻』などによって発展していくことになり、その発展していった常盤の物語はよりいっそう「強い母」という面が強調されていくことになる五味文彦『源義経』(岩波新書)。 |
清盛による子供たちの助命について
| 『尊卑分脈』の系図には、清盛の八女に常盤の娘として「廊御方」が記されているが、軍記物を読んだ『尊卑分脈』編者が廊御方という存在を作り出したとの説もある。 |
| 従って常盤と清盛の間に子が生まれていたこと、さらには男女の関係があったということに対しても疑問が提示されている(廊御方参照)。 |
| 常盤が清盛と男女の関係になることによって子供達の助命がかなったということが、一般的に知られている話である。 |
| 上記の通り室町以降に成立した物語では常盤が子供たちの命がかかわっているために清盛と男女の関係になったということが記されているが、鎌倉時代に成立したとみられる古態本『平治物語』においては子供達の助命と常盤が清盛の子を産んだ話の間には一切の関連性がない。 |
| また、平治の乱において戦闘にまで参加している義朝の嫡男・頼朝の助命が決定していたということ、最近の研究の結果平治の乱に対する評価が変化して、この乱が源氏と平家の戦いという側面ではとらえられなくなっていること(平治の乱を参照)、清盛に対して義朝の勢力は都における軍事動員力や官位経済力という面においてはるかに遅れをとっていたという事実元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』(NHKブックス)、野口実『武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか』(新人物往来社)などから、常盤と清盛に男女の関係があったとしても、常盤の三人の子供の助命に大きく影響したとは考えがたいという見解が強い。 |
| いずれにせよ常盤の子の助命問題に関しては常盤自身の行動云々よりその異母兄で義朝の嫡子である頼朝の助命が決まっていたという事実を前提条件にして論じられることが多い元木泰雄『源義経』(吉川弘文館)、黒板勝美『義経伝』(中公文庫)においては、頼朝の助命が常盤の三人の子を含む全ての弟達の助命を決定付けたとし、五味文彦『源義経』(岩波新書)では頼朝と希義が流刑で済むなど義朝の遺児に対する平家の追及はさほど厳しいものではなかったとする。 |
| 野口実『源氏と坂東武士団』(吉川弘文館)においては平治の乱というものの本質が伝統的院近臣と新興勢力信西の対立の結果であり、源平という武門同士の対決の帰結としてみなされていなかった当時の人々の認識が義朝の嫡子頼朝の助命、そして戦闘に加わらなかった全ての弟達(希義、今若、乙若、牛若)の処分に影響したと述べている。 |
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1186年
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常盤は京都の一条河崎観音堂(京の東北、鴨川... |
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