| 日本に帰国後にはJリーグの複数チームから獲得の打診があり、「学業の両立」が可能で、かつ、「すぐ試合に出られるチーム」を条件に絞り込み、9月10日にFC東京への加入が決定。 |
| しかしヘラクレス側は平山のこの行動を不服とし、「説明が無い限り(公式戦出場に必要な)国際移籍証明書を発行しない」という声明を発表したが、期限前に証明書は発行され無事に2006年のJリーグ公式戦に出場できる運びとなった。 |
| 国際移籍証明書がなかなか発行されなかったために日本サッカー協会が選手登録の締切り期限を1日延長した。 |
| 同年9月30日の対アルビレックス新潟戦でJリーグデビュー(スタメン出場)した。 |
| 同年10月7日の対名古屋グランパス戦でJリーグでの初ゴールを記録。 |
| ゴール後、スポンサーの看板(三井住友海上)を蹴り壊してしまい、クラブに損害請求される珍事が起こった。 |
| 本人曰く「あんな簡単に壊れるとは思わなかった」。 |
| 後のインタビューで約15万円で弁償した事を告白している。 |
| 同年10月25日、U-21日本代表に招集され出場した対U-21中国代表との親善試合(国立霞ヶ丘)では、相手GKと交錯したボールを手で押し込んでゴールを奪い、中国の監督は試合後「マラドーナスタイルにやられてしまった(马拉多纳风格做了。 |
| )」と皮肉をこめたコメントを残した。 |
| 2007年は北京五輪アジア二次予選で5試合二次予選は全6試合だが、第5戦終了時点で最終予選進出が決まったため、平山を含む主力級の選手は第6戦には招集されていない。 |
| 5ゴールを挙げるなどU-22代表で活躍。 |
| しかし、最終予選ではU-20代表組が合流したこともあって、運動量やスピードを重視した選考が多くなり、平山は重用されなくなった。 |
| Jリーグでは、出場機会のほとんどが試合終盤からの投入だったものの、9月15日のJ1第25節横浜FC戦で、後半40分からの出場ながらフィールド中央からドリブルでの5人抜きゴールを決めるなど、能力の片鱗は感じさせた。 |
| FC東京の原博実監督は「ボールの落下地点に早く入ることとか、正確に狙ったところへボールを落とすなどヘディングの技術を磨く必要がある」と、長身ではあるがヘディングに課題があると評していた |
| ]NumberWeb、2007年8月9日。 |
| 2008年からFC東京の監督に城福浩が就任。 |
| 開幕戦ではスタメンで起用されたが、赤嶺真吾の台頭もあり、その後はサブとしてゲーム後半からの途中出場が多くを占めた。 |
| 長年期待されてきた北京五輪代表候補にも、2月のアメリカ遠征に招集されたくらいで、本大会の前哨戦として捉えられていた5月のトゥーロン国際大会などには招集されなくなっていたが、体が絞れ多少キレが戻ったナビスコカップでの東京ダービーでハットトリックを決め、最後の滑り込み招集に一縷の望みを託す。 |
| しかし、反町康治五輪代表監督は平山を招集しなかったため、オリンピック2大会連続出場は叶わなかった。 |
| 2009年5月、城福監督から「試合に出られそうなときとそうでないときで練習でのプレーにムラがある。 |
| サッカー選手は選手寿命が短いのだから時間の使い方がもったいないのではないか」との指摘を受ける週刊サッカーマガジン2010年2月8日号平山相太極限への挑戦24頁。 |
| また同時期にNHK『スポーツ大陸』にてプロ野球選手・小笠原道大の練習に対する妥協を許さない姿勢を知り感銘を受けた事などが重なり、「プロとしての自覚が足りないことに気付き、極限の努力をするべき」だと意識改革を試みる週刊サッカーマガジン2010年2月8日号平山相太極限への挑戦25頁。 |
| 以降は出場停止となった2試合を除き全試合にスタメン出場。 |
| 6月20日のJ1第14節柏レイソル戦では身体の強さを活かし、チェックに来たDF小林祐三を吹き飛ばしてゴールを決めた。 |
| 以降、ゴール量産こそならなかったが、体躯を活かしたプレーで貢献{{#tag:ref|空中戦勝利数は178回で5位(勝率51.9%)、フリックオン成功数は31回で3位(成功率36%) |
| このシーズン、24試合15得点の活躍を見せた石川直宏からは「前に起点ができるおかげで、ぼくらが前に行ける。 |
| FWだからゴールに近い位置でプレーしたいはずなのに(ポスト役をこなしてくれる)」と平山のポストプレーなどを高く評価した |
| また、この頃から梶山陽平が「守備では本当に助かっている」と話すなど |
| 城福監督からは「バイタルエリアからでも難しいパスを出すことができるが、シンプルなパスを出すところとの判断が甘い」と課題を挙げられている |
| 11月3日のナビスコカップ決勝・川崎フロンターレ戦では後半に川崎を突き放すヘディングでのゴールを決め、自らの初タイトル獲得に大きく貢献した。 |
| 2010年1月6日にアジアカップ最終予選・イエメン代表戦(サヌア)にA代表選手として国際Aマッチ初出場、代表デビュー戦でハットトリックを達成。 |
| これは1930年に若林竹雄(東京帝国大学)が4得点を記録して以来二人目となり、途中出場では初となる快挙だった。 |
| この活躍でチームも逆転勝ちした。 |
| Jリーグでも得点を狙う動きが増え、開幕戦では決勝ゴールを決めたが、それ以後が続かず、5月1日のJ1第9節サンフレッチェ広島戦では「チームとして点が取れない中での変化が欲しかった(城福監督)」 |
| 8月4日に開催されたスルガ銀行チャンピオンシップでは1ゴール1アシストの活躍を見せ、タイトル獲得に貢献。 |
| 対戦相手であるLDUキトのバウサ監督は「(平山の)身長の高さにてこずった、彼がいると自分たちのコントロールが効かなくなり悩まされた」と評価した |
| また、同試合のPK戦では真っ先に辞退を申し出ており |
| 10月23日のJ1第27節・新潟戦でも自らが倒されて得たPKを梶山に譲った |
| 大熊清が監督に就任した第24節以降は、中心選手として |
| この年は、ワールドカップ招致アンバサダーも務めた。 |