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プロフィール
- 平清盛とは
- 平氏の棟梁
- 保元の乱、平治の乱
- 全盛期
- 平氏に対する不満
- 反乱の狼煙
- 最期
- 死後と評価
- 系譜
- 関連サイト
平清盛(たいらのきよもり)は、平安時代末期の武将・公卿・政治家である。伊勢平氏の棟梁・ 平忠盛の嫡子として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で 後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士では初めて太政大臣に任ぜられる。娘の徳子を 高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず」(『平家物語』)と言われる時代を築いた(平氏政権)。平氏の権勢に反発した 後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ 安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などか ...
平氏の棟梁
| 元永元年(1118年)、伊勢平氏の頭領である平忠盛の嫡子として伊勢産品(うぶしな、現在の三重県津市産品)で生まれる。 |
| 生母は不明だが祇園女御の妹という説がある。 |
| 母の死後、祇園女御の猶子になったという。 |
| 大治4年(1129年)正月に12歳で従五位下左兵衛佐に叙任されたことについて、藤原宗忠は「人耳目を驚かすか、言ふに足らず」と驚愕している(『中右記』大治4年正月24日条)。 |
| 武士の任官は三等官の尉から始まるのが通常で、二等官の佐に任じられるのは極めて異例だったためである。 |
| 清盛は同年3月に石清水臨時祭の舞人に選ばれるが(『中右記』3月16日条)、清盛の馬の口取を祇園女御の養子とされる内大臣・源有仁の随身が勤めていることから、幼少期の清盛は祇園女御の庇護の下で成長したと思われる。 |
| 祇園女御の庇護下で育ったことから、清盛の実父は白河法皇であるとの説もある。 |
| 清盛が院近臣家の出身にもかかわらず、後に皇族か摂関、清華でなければ任命されない太政大臣に任命されたことから、当時の朝廷が非公式にではあるがこの話を事実として採用していたとの主張もある(元木泰雄)。 |
| 若い頃は、鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成の邸に出入りしていたという。 |
| 藤原家成は、清盛の継母・池禅尼の従兄弟だった。 |
| 高階基章の娘との間に重盛・基盛が生まれるが、死別したと推測される。 |
| 保延3年(1137年)忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守に任じられる。 |
| 久安3年(1147年)、継室に迎えた平時子との間に宗盛が生まれる。 |
| 時子の父・平時信は鳥羽法皇の判官代として、藤原顕頼・信西とともに院庁の実務を担当していた。 |
| この年6月15日、清盛は祇園社に赴くが郎等の武具を咎めた神人と小競り合いとなり、郎等の放った矢が宝殿に当たるという事件が発生した(祇園闘乱事件)。 |
| 祇園社を末社とする延暦寺は忠盛・清盛の配流を要求して強訴するが、鳥羽法皇は延暦寺の攻勢から忠盛・清盛を保護し、清盛の罪を贖銅三十斤という罰金刑にとどめた。 |
| その後、清盛に代わり異母弟の家盛が常陸介・右馬頭に任じられ頭角を現す。 |
| しかし、久安5年(1149年)家盛は急死したため、清盛の嫡流としての地位は磐石となる。 |
| 安芸守に任じられて瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげ、父と共に西国へと勢力を拡大した。 |
| またその頃より宮島の厳島神社を信仰するようになり、仁平3年(1153年)、忠盛の死後に平氏一門の棟梁となる。 |
保元の乱、平治の乱
| 保元元年(1156年)の保元の乱では池禅尼が崇徳上皇の子・重仁親王の乳母だったため清盛の立場は難しいものであったが、一門の結束につとめ後白河天皇側について勝利をもたらし播磨守、大宰大弐となる。 |
| 信西と藤原信頼・二条親政派の対立では中立的立場をとっていたが、平治元年(1159年)の平治の乱で政権を握った藤原信頼・経宗・惟方などの反信西派を一掃することで、急速にその政治的地位を高めることになる。 |
| この過程で源義朝・源重成・源季実・源光保といった有力武士が滅亡したため、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握した。 |
| これにより、清盛は武家政権樹立の礎を築くにいたったのである。 |
全盛期
| 室の時子が二条天皇の乳母だったことから、清盛は天皇の乳父として後見役となり検非違使別当・中納言になる一方、後白河上皇の院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。 |
| 応保元年(1161年)9月、後白河上皇と平滋子の間に第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)が生まれると、平時忠・平教盛が立太子を画策した。 |
| 二条天皇はこの動きに激怒し、時忠・教盛・藤原成親・藤原信隆を解官して後白河院政を停止した。 |
| 清盛は天皇の皇居に武士を宿直させて警護することで、二条天皇支持の姿勢を明確にした。 |
| 翌年3月には平治の乱で配流されていた二条親政派の藤原経宗が帰京を許され、6月には時忠・源資賢が二条天皇を賀茂社で呪詛した罪で配流された。 |
| 清盛は二条天皇の厚い信任を受け、親政を軌道に乗せた。 |
| さらに関白・近衛基実に娘・盛子を嫁がせて、摂関家とも緊密な関係を結んだ。 |
| 院政を停止させられた後白河上皇への配慮も怠りなく、長寛2年(1164年)蓮華王院を後白河上皇のために造営している。 |
| 蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後白河上皇の経済基盤も強化された。 |
| 二条天皇は後白河上皇の動きに警戒心を抱き、長寛3年(1165年)重盛を参議に任じて平氏への依存を深めるが、7月28日崩御した。 |
| 後継者の六条天皇は幼少であり基実が摂政として政治を主導して、清盛は大納言に昇進して基実を補佐した。 |
| 9月、時忠が帰京を許され、12月25日に憲仁親王が親王宣下を受けると、清盛は勅別当になった。 |
| 後白河院政派は次第に勢力を盛り返していたが、清盛は後白河上皇の行動・性格に不安を覚え、院政復活を望まなかったという。 |
| 永万2年(1166年)7月26日摂政・氏長者の基実が急死して後白河院政が復活すると、基実の子・基通が幼少であることから弟・基房が摂政となる。 |
| 基実の領していた摂関家領が基房に移動すれば、平氏にとって大打撃となる。 |
| 清盛は藤原邦綱の助言により、殿下渡領・勧学院領・御堂流寺院領を除いた私的家領を後家の盛子に相続させることで、摂関家領の管轄に成功した。 |
| 10月10日に憲仁親王が立太子すると清盛は春宮大夫となり、11月には内大臣となった。 |
| 翌仁安2年(1167年)2月に太政大臣になるが、太政大臣は白河天皇の治世に藤原師実と摂関を争って敗れた信長が就任してからは実権のない名誉職に過ぎず、わずか3ヶ月で辞任する。 |
| 清盛は政界から引退し、嫡子・重盛は仁安2年5月宣旨により東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。 |
| 仁安3年(1168年)清盛は病に倒れ、出家する。 |
| 原因は「寸白(すびゃく)」(寄生虫の病)だったとされる。 |
| 清盛の病状が政情不安をもたらすことを危惧した後白河上皇は、当初の予定を早めて六条天皇から憲仁親王に譲位させることで体制の安定を図った。 |
| 病から回復した清盛は福原に別荘雪見御所を造営して、かねてからの念願だった厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に没頭する。 |
| 嘉応元年(1169年)後白河上皇は出家して法皇となるが、清盛は後白河法皇とともに東大寺で受戒して協調につとめた。 |
| これは、鳥羽法皇と藤原忠実が同日に受戒した例に倣ったものであった。 |
| この頃は、後白河法皇が福原を訪れ宋人に面会、清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内、福原で後白河法皇と清盛が千僧供養を行うなど両者の関係は友好的に推移していた。 |
| この間、平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易を推進して莫大な財貨を手にし、平時忠をして「平氏にあらずんば人にあらず」といわしめた。 |
平氏に対する不満
| ところが、この清盛の勢力の伸張に対して、後白河法皇をはじめとする院政勢力は不快を感じるようになり、建春門院の死を契機に次第に清盛と対立を深めていく。 |
| 治承元年(1177年)6月には鹿ケ谷の陰謀が起こる。 |
| これは多田行綱の密告で露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。 |
| 西光は処刑とし、藤原成親は備前へ流罪(7月9日に食物を与えられず殺害される)、俊寛らは鬼界ヶ島に流罪に処したが、後白河法皇に対しては罪を問わなかった。 |
| ただし、実際に平氏打倒の陰謀があったかは不明であり、直前に後白河法皇から延暦寺攻撃を命じられた清盛が、延暦寺との衝突を回避するために行ったとする見方もある。 |
| 治承3年(1179年)、この年は清盛にとって不幸の連続であった。 |
| これには清盛もさすがに落胆の色を隠せなかったが、後白河法皇は重盛の死去と同時に、またも清盛に何の相談もなく重盛の知行国であった越前国を没収してしまった。 |
| さらに、法皇は20歳の基通(室は清盛女・完子)をさしおいて、8歳の師家を権中納言に任じた。 |
| 清盛はこの後白河の自分を無視する施策に激怒し、11月14日、福原(現在の神戸)から軍勢を率いて自ら上洛し、クーデターを決行した。 |
| いわゆる治承三年の政変であるが、清盛は関白・基房、権中納言・師家を手始めに、藤原師長など反平氏的とされた39名に及ぶ公卿・院近臣(貴族8名、殿上人・受領・検非違使など31名)を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官するにいたったのである。 |
| 高倉天皇・近衛基通・平宗盛の三人はいずれも政治的経験が未熟であり、結局は清盛が表に出てこざるを得なかった。 |
| 清盛は、解官していた平頼盛・花山院兼雅の処分を解除するなど一門の結束につとめ、基通の補佐のため藤原氏の有力者である左大臣・経宗、右大臣・九条兼実の懐柔を図った。 |
| 実際の政務に関しては、平時忠・藤原隆季・土御門通親などの能吏が清盛の代弁者となった。 |
| 治承4年(1180年)2月、高倉天皇が譲位、言仁親王が践祚した(安徳天皇)。 |
反乱の狼煙
| 平氏の独裁に対して反抗の第一波となったのは、後白河法皇の第3皇子以仁王の挙兵だった。 |
| 以仁王は優秀であったが建春門院の圧力で親王宣下も受けられず、八条院の猶子となって即位の機会を伺っていたものの、今回のクーデターでその望みは絶望的なものとなっていた。 |
| 以仁王には、八条院直属の武力ともいえる源頼政・下河辺行義・足利義清・源仲家などが付き従い、平氏に反発する興福寺・園城寺もこの動きに同調した。 |
| しかし以仁王の令旨が全国各地に飛び火して、8月には伊豆に流されていた源頼朝、武田信義を棟梁とする甲斐源氏、9月には信濃国において木曾義仲が挙兵する。 |
| これに対して清盛は頼朝らの勢力拡大を防ぐため、平維盛を総大将とした大軍を関東に派遣したが、富士川の戦いでは交戦をせずに撤退してしまった。 |
| 12月になると清盛は、知盛・資盛・藤原清綱らが率いる軍勢を差し向けて園城寺を焼き払い、近江源氏の山本義経・柏木義兼を打ち破って、近江の平定に成功する(近江攻防)。 |
最期
| 治承4年末までには(1180年)、平氏の勢力基盤である西国においても伊予の河野通清・河野通信父子、翌治承5年1181年には豊後の緒方惟栄・臼杵惟隆・佐賀惟憲ら豪族が挙兵し、伊勢志摩においても反乱の動きがあった。 |
| 天平3年(731年)に京・畿内を対象に兵馬の権を与えられた新田部(にいたべ)親王の例に倣ったものであり、畿内近国に兵士役と兵糧米を課して臨戦体制を築いた。 |
| さらに越後の城資永、陸奥の藤原秀衡に源頼朝・武田信義追討の宣旨を与えている。 |
| 死期を悟った清盛は、自分の死後はすべて宗盛に任せてあるので、宗盛と協力して政務を行うよう法皇に奏上したが、返答がなかったため、恨みを残して「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残し、閏2月4日に九条河原口の平盛国の屋敷で死去した。 |
| 『玉葉』によると、死去した年の8月1日、頼朝が密かに院に平氏との和睦を申し入れると、宗盛は清盛の遺言として「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と述べてこれを拒否している事から、頼朝への激しい憎悪があった事は事実と思われる。 |
死後と評価
| 清盛の死後、嫡男の重盛はすでに病死し、次男の基盛も早世していたため、平氏の棟梁の座は三男の宗盛が継いだが、全国各地で相次ぐ反乱に対処できず、後白河法皇の奇謀に翻弄され院政勢力も勢力を盛り返すなど、平氏は次第に追いつめられていった。 |
| しかも折からの飢饉(養和の大飢饉)という悪条件なども重なって、寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いで平氏軍が壊滅した後、義仲軍の攻勢の前に成す術無く都落ちする。 |
| 『十訓抄』7-27には、若い頃の清盛について「人がとんでもない不都合な振る舞いをしても、冗談と思うことにした」「やったことがちっともおかしくなくても、相手への労わりとしてにこやかに笑い、とんでもない誤りをしても、役立たずと声を荒らげることはない」「冬の寒い時に身辺に奉仕する幼い従者を自分の衣の裾の方に寝かせ、彼らが朝寝坊をしていたらそっと床から抜け出して存分に寝かせてやった」「最下層の召使いでも、彼の家族や知り合いの見ている前では一人前の人物として扱ったので、その者は大変な面目と感じて心から喜んだ」という逸話が記されている。 |
| 清盛の非道を示す有名なエピソードである「殿下乗合事件」は、清盛が松殿基房に報復したというのは『平家物語』のフィクションであって、実際には非道な報復を行ったのは重盛であり、『玉葉』や『百錬抄』の記述によれば清盛はむしろ基房に謝罪的な行為を示したと言われる。 |
| 『源平盛衰記』では僧侶の祈祷によって雨を降らせた事を偶然に過ぎないと一蹴したり、経が島では清盛が人柱を廃止したという伝説があるなど、迷信に囚われない開明的な考え方の逸話も見られる。 |
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伊勢平氏の頭領である平忠盛の嫡子として伊勢... |
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在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平... |
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源頼朝
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の... |
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平忠盛
父
平安時代末期の武将。平清盛の父。父は平正盛。烏帽子親は義兄の源義忠。伊勢平氏で初めて昇殿を許された。北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力... |
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高倉天皇
平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年3月30日)-治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。 |
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安徳天皇
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源義経
1966年1月2日~12月25日にNHKで放送された4作目の大河ドラマ。 |
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後白河天皇
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源為義
平安時代末期の武将。父は源義家。兄の義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。通称は六条判官、陸奥四郎。源義親の四男とする室町時代中期成立の尊卑分脈の記載... |
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中井貴一
東京都世田谷区出身の俳優。本名同じ。血液型はA型。身長181cm、体重70kg。成蹊大学経済学部卒業。所属事務所はオフィス貴貴。 |
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松平健
日本の俳優・歌手。本名は鈴木末七(すずきすえしち)。愛称はマツケン、ケン様。愛知県豊橋市出身。身長179cm、体重90kg、血液型B型。 |
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平時忠
平安時代末期の公家。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信。母は二条大宮(令子内親王)の半物(はしたもの、下仕えの女房)... |
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藤原頼長
平安時代末期の公卿。兄の関白・忠通と対立し、父・忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない... |
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藤原信頼
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平清盛さんについてのひとこと紹介
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