| 1953年(昭和28年)8月8日(公称)、北海道札幌市に生まれる。 |
| この「公称生年月日」が正しいとすると、作詞・作曲家デビューした1968年に15歳の中学3年生ということになる。 |
| いずれにしても、シャネル・ファイブの他のメンバーは1950年(昭和25年)前後の生年であるので、平田もまたその前後の世代であることは推測できる讀賣新聞公式サイト内「北海道発・自悠時間」での元シャネル・ファイブのメンバー梅村良一に関する記事「 |
| 記事掲載当時、梅村は59歳であった。 |
| 身長173cm、体重55kg(1971年、シャネル・ファイブデビュー当時)。 |
| 北海道札幌工業高等学校卒業(公称生年月日では1972年3月卒業)。 |
| 1968年(昭和43年)、テイチクレコード(現テイチクエンタテインメント)から木立じゅんがリリースしたシングル『484のブルース』に作詞・作曲した表題曲を提供したことが、現在、歌謡史に現れる平田の最古の記録である。 |
| 同曲は、テイチクの大御所・高月ことばが補作詞をし、野崎眞一が補作曲を施しているが、当時の所在地「苗穂町484番地(現札幌市東区東苗穂2-1-5)」にあった札幌刑務所を歌った歌詞が問題視されて「放送禁止歌」とみなされた。 |
| のちのソロデビュー後に平田は同楽曲をセルフカヴァーしている。 |
| 木立のシングルのB面はテイチクの巨匠・上原げんとの実弟上原賢六の楽曲『無情の薔薇』で、AB面ともに、札幌の伝説の無頼・「枯れ木のバラ」こと荏原哲夫(1924年-1956年)を歌ったものであった。 |
| 1970年(昭和45年)6月、原みつるの芸名で、「原みつるとエリートメン」としてボサノヴァ調ムード歌謡のシングル『ここは東京六本木』で日本コロムビアでデビューしている |
| 1971年(昭和46年)7月、キングレコードに移籍し、「原みつるとシャネル・ファイブ」として、藤本卓也作詞・作曲の表題曲をもつシングル『稚内ブルース』でデビュー、同年、同名の2枚組のカヴァー中心のアルバムをリリースした。 |
| 翌1972年(昭和47年)にはおなじく藤本の作詞・作曲による『信ずる他にない』、のちに五木ひろしがカヴァーする『港の五番町』をリリースする。 |
| 1973年(昭和48年)には、平田が作詞・作曲したシングル『ハッキリ小唄』をリリース、これが平田の作家デビューとなる。 |
| 同年、平田作曲によるシングル『くやし泣き』をリリースする。 |
| 1975年(昭和50年)、ライヴ・アルバム『シャネル・ファイブ・イン・サッポロ』をリリースし、「原みつるとシャネル・ファイブ」のレコードリリースは終了する。 |
| 1976年(昭和61年)2月5日、作詞・作曲時に用いた筆名平田満に芸名を変え、シングル『愛の狩人』でソロデビューする。 |
| 同作は、オリコンチャート最高順位21位のヒットとなった。 |
| 同年10月に発売されたソロ・サードシングル『もしもお許し願えれば女について話しましょう』はもちろんヒットせず、ジャケット写真の衣裳もバックのホリゾントも、『愛の狩人』とまったく同一のものが使用されている。 |
| バックバンドは「シャネル・ファイブ」である。 |
| 同年、アルバム『愛の狩人』を「平田満+シャネル・ファイブ」名義でリリースした。 |
| 『愛の狩人』等の作曲の金野孝は作曲家浜圭介の本名であり、編曲の土持城夫は『男どアホウ甲子園』(作詞佐々木守、1970年)の作曲者であり、平田隆夫とセルスターズ『ハチのムサシは死んだのさ』(作詞内田良平、作曲平田隆夫、1972年)の編曲者として知られる。 |
| 作詞の本野丈弾は、JASRACにも信託しておらず、平田の4曲しか作詞をした形跡がない。 |
| 本野が作詞した『愛の狩人』も、『もしもお許し願えれば女について話しましょう』も、かつてヒットした洋画のタイトルを借用している。 |
| 前者はマイク・ニコルズ監督の1972年の作品『愛の狩人』、後者はエットーレ・スコラ監督の1964年のデビュー作、1字違いの『もしお許し願えれば女について話しましょう』である。 |
| 「『東村山音頭』は、志村けんに先駆けて正調でリリースするもヒットせず」との説が流布しているが、これは誤り。 |
| 平田ヴァージョンの発売は1976年6月21日、志村ヴァージョンの発売は9月1日と確かにリリースは平田が先だが、バラエティ番組「8時だョ!全員集合」における同曲の登場は1976年3月6日であり、志村のほうがやはり早かった。 |
| いずれにしても、近田春夫のハルヲフォンのデビュー盤が『FUNKYダッコNo.1』(1975年)であったことにも象徴される、当時のキングレコードの得意とする企画盤である。 |
| 翌1977年(昭和52年)に「シャネル・ファイブ」がシングル『ヘイ!マダム』をリリースしたが、これに平田が参加したかどうかは不明である。 |
| 楽曲は提供していない。 |
| 1979年(昭和54年)には、平田が作詞作曲した前述の楽曲のセルフカヴァー『484のブルース』をシングルリリースしている。 |
| 現在の活動については不詳である。 |
| なお平田はJASRAC会員であり、全信託作家であるJASRAC公式サイト「 |
| 現在、平田の歌唱音源でCD化されているものは、『ビューティフルサンデー』と、シャネル・ファイブ時代の『稚内ブルース』、『信ずる他にない』、『白い慕情』、『港の五番町』、『くやし泣き』、カヴァー楽曲の『長崎は今日も雨だった』のみである。 |
| また作家としての音源は、木立じゅんおよび松方弘樹の歌う『484のブルース』が音源がCD化されている#外部リンク内のYahoo!ミュージック「幻の名盤解放歌集」ほか各リンク先の記述を参照。 |