| 宣長没後2年経った1803年(享和3年)になって、本居宣長のことを初めて知ったようである。 |
| 没後の門人として加わるために本居春庭に宛てた書簡によると、夢に宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだと述べている。 |
| また、のちの伝記によると、1801年(享和元年)に本居宣長のことを知り、その門下に加わろうとするが、同年に宣長は没し、没後の門人としてその名を鈴屋塾に置いたということになっている。 |
| 生きている間に宣長のことを篤胤が知ったということにしたのは、平田篤胤の学派を国学の正統として位置付けるために行なわれた後世の改竄ともいわれる。 |
| 宣長の事を知った1803年(享和3年)には処女作『呵妄書』をしるしている。 |
| この後、次々と著作をしるしていく。 |
| 篤胤の執筆する様子は、凡人のものではなく、何日間も寝ずに不眠不休で書きつづけ、疲れが限界に来たら、机にむかったまま寝て、十分に寝ると再び起き、また書きつづけるというものだった。 |
| このように書かれた著作は膨大な量になった。 |
| 1806年(文化3年)より私塾・真菅乃屋を開き、門人を取っている。 |
| のち1816年(文化13年)に気吹舎に改称する。 |
| 購入した宣長の著作『直日霊』や『初山踏』『玉勝間』『古事記伝』及び附録として傳の中に紹介されている服部中庸(箕田水月)の『三大考』の宇宙観には特に魅せられ、後に宣長の後継者となった鈴屋の本居大平に会い師弟となり、中庸に会う。 |
| 中庸は、古道の本義を伝えるよう篤胤に依頼している。 |
| 1812年(文化9年)篤胤37歳の年には、中庸の思想を基盤とした『霊能真柱』を書き上げる。 |
| この本は後に篤胤の唱える平田八家の学の中核に位置する著作と言われている。 |
| すでにこの頃には『古道大意』『漢学大意』『医道大意』『俗神道大意』『仏道大意』『歌道大意』などの講本を多く執筆し、平田学の思想の根幹は堅固で揺ぎ無いものとなっていた。 |
| 『霊能真柱』は篤胤にとって、ある意味での分岐点になる重要な書物で、この本を書き上げた年に愛妻織瀬を亡くしている。 |
| 妻に対する憐憫の思いはことのほか強く、「天地の 神はなきかも おはすかも この禍を 見つつますらむ」と神への憤りや遣る瀬無さを歌に托し詠歌している。 |
| この本の中で述べている篤胤の幽冥観(死後の行方)についての論考が、亡き宣長先生を冒涜していると、本居学派の門人達は憤慨し非難をあびせかけ、弟子達は篤胤を山師とまで罵る始末であった。 |
| そのような理由で篤胤は伊勢松坂の鈴屋から疎遠になっていく。 |
| しかし、これは出雲神道として取り入れられその後の神道のあり方に強く影響を与えた。 |
| 1811年(文化8年)大いに奮発する事があって師走には駿河国府中の門人柴崎直古の寓居に籠もり、『古史成文』『古史徴』『古史伝』など古代研究の本を一気に数多書き上げる。 |
| これらの草稿は後に平田学の中核的中心教義となる。 |
| 篤胤30代前半の著作や先学の伝記及び文献資料などから類推すると、1805年(文化2年)から06年(3年)にかけて当時すでに『鬼神新論』『本教外編』などの論考を著述し幽冥の存在や有神論を肯定している。 |
| 1815年(文化12年)、篤胤40歳この年大いに著述を急ぎ草稿数巻成れりとある。 |
| 翌年の四月には鹿島神宮・香取神宮及び息栖神社に詣で、序に銚子辺りを廻り諸社巡拝して、天之石笛という霊石を得ている(この岩笛は千代田区の平田神社宗家にある)。 |
| これを得たことにちなんで、家号を伊吹乃屋と改め、大角とも名乗るようになる。 |
| 1817年(文化14年)(42歳)には、この旅行の顛末をしるした『天石笛之記』が書かれている。 |
| 天狗小僧寅吉の出現は文政3年秋の末で、篤胤45歳のころである。 |
| 寅吉は神仙界を訪れ、そこに住むものたちから呪術の修行を受けて、帰ってきたという。 |
| この異界からの少年の出現は当時の江戸市中を賑わせた。 |
| 発端は江戸の豪商で随筆家でもある山崎美成のもとに少年が寄食したことにある。 |
| 弟子達の噂が篤胤の耳に入り、かねてから異界・幽冥の世界に傾倒していた篤胤は、山崎の家を訪問する。 |
| 以後この天狗少年を篤胤は養子として迎え入れ文政12年まで足掛け9年間面倒をみて世話をしている。 |
| 篤胤は、天狗小僧を通じて異界・幽冥の世界の有様を聞き出した。 |
| 1822年(文政5年)にはその聞書きをまとめた『仙境異聞』を出版している。 |
| これに対して、周囲からは少年を利用して自分の都合のいいように証言させているに違いないと批判された。 |
| しかし、本人は至って真剣であり、寅吉が神仙界に戻ると言ったときには、神仙界の者に宛てて教えを乞う書簡を持たせたりもしている。 |
| 『仙境異聞』に続いて『勝五郎再生記聞』『幽郷眞語』『古今妖魅考』『稲生物怪録』など一連の幽なる世界の奇譚について書き考察している。 |
| 49歳から54歳までの数年間、支那や印度の古記文献の研究をし、さらに異国に於ける仙人や神の存在についての研究をして行く。 |
| この時期『葛仙翁伝』『扶桑国考』『黄帝傳記』『赤縣太古傳』『三神山餘考』『天柱五嶽餘論』他数多の道学的な本を物し道蔵などの経典を読んでいる。 |
| 1818年(文政元年)には自らの門人山崎篤利の養女と再婚する。 |
| この間、現在の埼玉県越谷市の久伊豆神社境内に仮の庵をむすぶ。 |