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つながりの強いひと
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平清盛
平安時代末期の武将・公卿・政治家である。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終... |
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源頼朝
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の... |
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足利尊氏
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年-1358年)。足利将軍家の祖。 |
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藤原光能
平安時代末期の貴族。藤原北家御子左流、少納言藤原忠成の子。正三位・参議。 |
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源義朝
在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平... |
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源義経
1966年1月2日~12月25日にNHKで放送された4作目の大河ドラマ。 |
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高倉天皇
平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年3月30日)-治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。 |
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平維盛
平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男。平氏一門の嫡流であり、美貌の貴公子として宮廷にある時には光源氏の再来と称された。治承・... |
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安徳天皇
第81代天皇(在位:治承4年4月22日(1180年5月18日)-寿永4年3月24日(1185年4月25日))。諱は言仁(ときひと)。 |
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平重衡
平安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室平時子。位階は従三位次いで正三位に昇り三位中将と称された。平氏の大将の一人として各... |
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平宗盛
平安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・建礼門院は同母妹である。官位は... |
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源頼政
平安時代末期の武将・歌人。摂津源氏の源仲政の長男。平氏が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出した従三位に叙せられた... |
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平知盛
平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の四男。母は平時子。同母兄弟に平宗盛、平重衡、建礼門院がいる。官位は従二位行権中納言。世に新中納言と称された。 |
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後白河天皇
後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日)-建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日)-保元3年8月1... |
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平敦盛
平安時代末期の武将。平清盛の弟である平経盛の末子。位階は従五位下。官職にはついておらず、無官大夫と称された。 |
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平貞能
平貞能(たいらのさだよし)は平安時代末期の武将。伊賀国を本拠とする平氏譜代の有力家人である。父は平氏の「一ノ郎等」(『愚管抄』)である平家貞。 |
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藤原隆信
平安時代末期から鎌倉時代初期の貴族。父は長門守藤原為経(寂超)。母の再婚相手である藤原俊成に育てられる(歌人・藤原定家は異父弟にあたる)。正四位下... |
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足利直義
鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。河内源氏義国流、足利氏の嫡流・足利貞氏の3男。室町幕府初代将軍、足利尊氏の同母弟。足利将軍家の一門。世... |
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平資盛
平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の次男。母は藤原親盛の娘。位階は従三位まで昇叙、新三位中将と称された。和歌に優れ「新勅撰和歌集」「風雅和歌集」... |
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俊寛
俊寛(しゅんかん、康治2年(1143年)-治承3年3月2日(1179年4月10日))は平安時代後期の真言宗の僧。村上源氏の出身で、木寺(仁和寺院家)の法印寛雅の子... |
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プロフィール
- 平重盛とは
- 保元の乱、平治の乱
- 順調な昇進(二条親政期)
- 清盛の後継者(後白河院政期)
- 嘉応の強訴
- 殿下乗合事件
- 右大将、内大臣就任
- 安元の強訴と鹿ケ谷の陰謀
- 終焉
- 評価
- 肖像画
平重盛(たいらのしげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。 平清盛の嫡男。保元・平治の乱で若き武将として父清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身とともに累進し、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、室が 藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。政治的には平氏一門の中で最も 後白河法皇に近い立場にあった。清盛の後継者として期待されながらも、清盛と 後白河法皇の対立では有効な対策をとる ...
保元の乱、平治の乱
| 保延4年(1138年)、清盛の長男として誕生。 |
| 母は右近将監高階基章の女。 |
| 久安6年(1150年)12月、鳥羽法皇の蔵人に補される。 |
| 翌年正月に従五位下になる。 |
| 保元元年(1156年)の保元の乱に父に従って参戦。 |
| 『兵範記』には中務少輔・重盛の名が記されている。 |
| 清盛の軍勢は源為朝との戦闘で大きな被害を出し、形勢不利と見た清盛は撤退を指示した。 |
| この時に重盛は父の制止を振り切って、為朝と戦うため出陣しようとするなど血気盛んなところを見せた。 |
| 保元の乱は清盛の属す天皇方の勝利に終わり、保元2年(1157年)正月、重盛はその功績により19歳で従五位上に昇叙した。 |
| 同年10月22日に大内裏が再建され、清盛は仁寿殿を造営した。 |
| 父から造営の賞を譲られた重盛は、正五位下となった。 |
| 保元3年(1158年)年8月、清盛は知行国を安芸から遠江に移す。 |
| 自らは大宰大弐であったため、重盛が代わりに遠江守となった。 |
| 平治元年(1159年)12月9日、平治の乱の勃発の時、清盛は熊野参詣のため紀伊にいた。 |
| 『平治物語』では重盛は動揺する父を励ましたとするが、『愚管抄』によれば清盛と一緒にいたのは基盛・宗盛と侍15人で、重盛は同道していない。 |
| 京都に戻った清盛は二条天皇を内裏から六波羅に脱出させ、信頼・義朝の追討宣旨を受ける。 |
| 重盛は叔父・頼盛とともに出陣する。 |
| この戦いで重盛は「年号は平治、都は平安、我らは平氏、三つ同じ(平)だ、ならば敵を平らげよう」と味方の士気を鼓舞し、源義平と御所の右近の橘・左近の桜の間で激戦を繰り広げ、堀河の合戦では馬を射られながらも材木の上に立ち上がって新たな馬に乗り換えるなど獅子奮迅の活躍をする。 |
| もっとも『愚管抄』によれば義朝はすぐに内裏を出撃して六波羅に迫ったとあるので、内裏で戦闘が行われたかどうかは定かでなく、話を盛り上げるための創作の可能性もある。 |
| この合戦で信頼に与していた成親は助命されているが、成親の妹・経子を妻にしていた重盛の嘆願が背景にあったと推測される。 |
| 乱の終結後に合戦の恩賞の除目があり、重盛は勲功賞として伊予守に任じられる。 |
| 年が明けてすぐに従四位下となり、左馬頭も兼任する。 |
順調な昇進(二条親政期)
| 応保元年(1161年)9月、後白河と平滋子の間に生まれた皇子憲仁親王(高倉天皇)を皇太子にしようとする陰謀が発覚した。 |
| この事件では時忠・教盛・成親らが二条天皇によって解官されるが、清盛は同調せず二条を支援したため、その信任を確固たるものにした。 |
| 重盛の昇進も目覚ましく、応保2年(1161年)正月に正四位下、10月に右兵衛督、翌年正月には26歳の若さで、従三位に叙せられ公卿となった。 |
| 清盛は二条の親政を支える一方で後白河に対しても配慮を怠らず、後白河のために蓮華王院を造営した。 |
| 長寛2年(1164年)2月、父から造営の賞を譲られた重盛は、正三位に叙された。 |
| 9月、清盛は一門の繁栄を祈願して、厳島神社に装飾経33巻(平家納経)を寄進するが、重盛も一門・家人とともに製作に携わった。 |
| 長寛3年(1165年)4月、二条天皇は病に倒れた。 |
| 重態となった二条天皇は5月に重盛を参議に任じ、6月に皇子・順仁に譲位、院庁を開設して執事別当に重盛を指名するなど最期まで執念を見せるが、7月に崩御した。 |
| 六条天皇を平氏と摂関家が支える体制が成立し、重盛は永万2年(1166年)4月に左兵衛督、7月には権中納言・右衛門督となった。 |
| しかし天皇が幼少のため、政局は著しく不安定だった。 |
| 7月に基実が薨去すると、六条天皇の政権は瓦解する。 |
清盛の後継者(後白河院政期)
| 平氏が二条親政派から離脱して後白河上皇を支持したことにより、仁安元年(1166年)10月に憲仁親王の立太子が実現した。 |
| 憲仁親王の乳母には重盛の室・経子と藤原邦綱の女・綱子が選ばれ、重盛は乳父(めのと)になった。 |
| 12月には清盛の後任として春宮大夫となる。 |
| 仁安2年(1167年)2月には、権大納言となり帯剣を許された。 |
| 清盛は5月17日に太政大臣を辞任するが、それに先立つ5月10日、重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が下された(『兵範記』)。 |
| これにより、重盛は国家的軍事・警察権を正式に委任され、清盛の後継者としての地位を名実ともに確立した。 |
| さらに重盛は丹後・越前を知行国として、経済的にも一門の中で優位にあった。 |
| 後継者となった重盛だが健康を害したらしく、「日来所労」「昨今不快」により12月の東宮の御書始を欠席し、大乗会の上卿も交替する。 |
| 仁安3年(1168年)2月、清盛が病のため出家。 |
| 政情不安を危惧した後白河は憲仁を即位させ(高倉天皇)、体制の安定を図った。 |
| 重盛は体調不良が続いたらしく、12月に権大納言を辞任する。 |
| 出家後の清盛は福原に退隠し、六波羅には重盛が残って一門の統率にあたった。 |
| 嘉応元年(1169年)11月の八十嶋祭では、重盛室の経子が勅使役となって重盛の六波羅邸から出立し、後白河と滋子が七条殿の桟敷で行列を見送っている。 |
嘉応の強訴
| 嘉応元年(1169年)12月23日、延暦寺の大衆が、重盛の義兄で尾張の知行国主・藤原成親の流罪を求めて強訴を起こした(嘉応の強訴)。 |
| 大衆は内裏を取り囲んで気勢を上げ、検非違使別当・時忠は官兵の派遣など早急な対策をとることを進言する。 |
| この時、重盛は官兵300騎を率いて宗盛・頼盛とともに待機していた。 |
| 公卿の議定では慎重論が大勢を占め、重盛も後白河の三度に渡る出動命令を拒否したため、やむを得ず後白河院は成親の流罪を認めた。 |
| しかし、すぐに巻き返しに転じて成親を検非違使別当に任命、時忠は解任され身代わりに配流とされてしまう。 |
| 後白河院と延暦寺の対立は悪化の一途をたどり、事態を憂慮した清盛は正月14日、重盛を福原に呼び寄せて状況を報告させた。 |
| このように重盛は一門の代表とはいえ、重要案件については清盛の判断が優先していて、自らの意思・行動はかなり制約されていた。 |
| 結局、成親の解官で延暦寺は引き下がり事態は沈静化する。 |
| 同年4月、重盛は権大納言に復帰し、成親も検非違使別当に返り咲いた。 |
殿下乗合事件
| 嘉応2年(1170年)7月3日、法勝寺八講の初日、摂政・松殿基房の従者が参詣途中で出会った平資盛の車の無礼をとがめて恥辱を与えた。 |
| その後、重盛の子の車と知った基房は震え上がり、ただちに下手人を重盛のもとに引き渡して謝罪するが、重盛は申し出を拒絶した。 |
| ほとぼりが冷めたと思われた10月21日、天皇の元服定のため基房が参内する途中、重盛の武者が基房の従者を襲い乱暴を働いた。 |
| 重盛は天皇の乳父の立場にあり、その行為は許されるものではなかった。 |
| 重盛を高く評価する慈円も、さすがにこの事件に関しては「不可思議ノ事ヲ一ツシタリシナリ」(『愚管抄』)と困惑しているなお、『平家物語』ではおそらく重盛の善良ぶりを強調する為に史実を改編しており、重盛は基房に報復するどころか、むしろ非は息子の資盛にあるとして資盛を叱責している。 |
| しかし清盛は激怒し、重盛が制止するのも聞かずに基房に報復する。 |
右大将、内大臣就任
| 承安元年(1171年)12月、清盛の女・徳子が高倉天皇に入内したのを機に、重盛は権大納言に復帰する。 |
| 復帰後の重盛は、朝廷の公事を精力的に勤めた。 |
| 承安3年(1173年)4月、法住寺殿の萱御所の火災ではいち早く駆けつけて消火活動にあたり、後白河から称えられた(『建春門院中納言日記』)。 |
| 承安4年(1174年)7月、重盛は空席となっていた右近衛大将に任じられる。 |
| この任官に対して清盛の喜びは大きく、21日の拝賀の儀式には邦綱以下公卿10人、殿上人27人が付き従った。 |
| 安元2年(1176年)正月、後白河の50歳の賀には重盛も一門の筆頭として出席、平氏と後白河法皇の蜜月ぶりを示した。 |
| 3月には藤原師長が太政大臣となったことで空席となった内大臣に任じられる。 |
安元の強訴と鹿ケ谷の陰謀
| しかし、4月になると延暦寺が加賀守・藤原師高の流罪を要求して強訴を起こす。 |
| 高倉天皇は法住寺殿に避難し、後白河は大衆を実力で排除しようとするが、京都が戦場になる可能性があると反対の声が上がり、実際に出動する平氏一門も、延暦寺との衝突には極めて消極的な態度をとったために断念、大衆の要求を受諾して師高の配流・神輿を射た重盛の家人の投獄を行った。 |
| その後、「太郎焼亡」と呼ばれる大火が発生し、太極殿・関白以下13人の公卿の邸宅が焼失する。 |
| 5月、後白河は延暦寺に報復を決意すると、天台座主・明雲を解任、所領を没収して伊豆への配流を命じた。 |
| しかし明雲の身柄は大衆に奪還されたため、後白河は重盛・宗盛を呼び出して延暦寺への攻撃を命じた。 |
| 重盛らは「清盛の指示がなければ動かない」と返答したため、話にならないと見た後白河法皇は、清盛を福原から呼び出した。 |
| 清盛の怒りは凄まじく、成親は備前へ配流され関係者も一網打尽に検挙された(鹿ケ谷の陰謀)。 |
終焉
| 治承2年(1178年)2月には内大臣の辞任を申し出るが、中宮・徳子が懐妊したため、中宮の兄とされていた重盛の辞任は認められなかった。 |
| 徳子は11月に皇子を出産(安徳天皇)、皇子は翌月には言仁親王として立太子した。 |
| 治承3年(1179年)2月、重盛は東宮の百日(ももか)の祝に出席するが、病により家に籠もるようになる。 |
| 6月21日には後白河法皇が、六波羅の小松殿を訪れて重盛を見舞った。 |
| 時を同じくして清盛の娘・盛子も亡くなっているが、後白河法皇は盛子の相続していた摂関家領を自らの管理下に置き、平氏への圧力を強めていた。 |
| 死因については、胃潰瘍、背中にできた腫瘍、脚気などの説がある。 |
| 10月、仁安元年(1166年)以来の重盛の知行国・越前が、後白河法皇によって没収された。 |
| 翌月、清盛と後白河法皇の関係は完全に破綻、治承三年の政変によって後白河院政は停止される。 |
評価
| 重盛に対する同時代人の評価は、「かくの如きの時、必ず使を送られ殊に芳心(親切な心)を致されるなり」(『山槐記』)、「イミジク心ウルハシク」(『愚管抄』)、「武勇時輩にすぐると雖も、心懆甚だ穏やかなり」(『百錬抄』)など好意的なものが多く、優れた武人であると同時に穏和で気配りのできる人物だった(ただし九条兼実は重盛を嫌っていて、非難の言葉を日記に記している)。 |
| 重盛がつぶやいたという「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」(『日本外史』)の言葉も史実かどうかは不明だが、『愚管抄』でも重盛は「トク死ナバヤ(早く死にたいものだ)」と生きることに望みを失った言葉を残しており、清盛と後白河の対立の中で無力であった状況を考えれば、あり得ない話ではない。 |
| 異母妹の徳子を養女として高倉天皇の中宮としたものの、実際に外戚として重んじられたのは徳子の同母兄弟の宗盛・知盛・重衡らであり、平氏の棟梁としての地位すら危うくなっていた(これは重盛の没後、重盛の子である維盛ではなく宗盛が棟梁となっていることからも分かる)。 |
| 重盛の死は、清盛と後白河法皇の対立を抑えていた最後の歯止めが失われたことを意味し、両者の同盟関係を完全に崩壊させることになった。 |
| また、勤皇思想が広まった江戸時代には、後白河を庇って父清盛を諌め、そのため命をすり減らしたという伝承から、万里小路藤房、楠木正成と共に「日本三忠臣」として高く評価されていた。 |
肖像画
| だが、近年、足利尊氏の肖像画ではないかという説が有力となってきているため、論争となっている(評細は神護寺三像の項目参照)。 |
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1138年
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清盛の長男として誕生 |
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1159年
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平治の乱の勃発の時、清盛は熊野参詣のため紀... |
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平重盛さんについてのひとこと紹介
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