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プロフィール
- 平野謙とは
- プロ入り前
- 中日時代
- 西武時代
- 千葉ロッテ時代
- 引退後
- 人物
- 打撃
- 守備
- タイトル
- 表彰
- 記録
- 現在の出演番組
- 関連項目
平野謙(ひらのけん、1955年6月20日-)は、愛知県名古屋市中村区道下町出身の元プロ野球選手(外野手)。現在は、韓国プロ野球・起亜タイガースのバッティングコーチ。夫人は元タレント・ 秋本理央、姉はエッセイストの 内藤洋子。
プロ入り前
| 両親は平野金物店を営んでおり、6歳上の姉・洋子がいる4人家族だった。 |
| 母に似て幼少期から運動能力が優れ、4歳の頃に父が買ったビニール製のグラブでキャッチボールを始めた婦人公論、1993年5月号、P.276。 |
| 小学校4年で野球チームに入ると5年生で選抜チームの遊撃手を務めるようになり、「将来は絶対プロ野球選手になれる」との高い評価を受ける。 |
| なお、小学生時代は王貞治に憧れ、部屋に貼ったポスターの前で素振りをしていたという。 |
| 一方で1961年に肝硬変で亡くなった父に続き、1967年には母が胃ガンで亡くなる。 |
| このため姉が高校を1年間休学して金物店を経営するようになり、謙も店を手伝った。 |
| 中学校は敷地が狭くて野球部がなかったため、サッカーや卓球、バスケットボールなど複数の部活を掛け持ちしていた婦人公論、1993年5月号、P.277。 |
| やがて近所に大型のスーパーマーケットが開店したこともあって経営が苦しくなり、姉弟は1970年の冬に金物店を廃業して土地・家屋を売り、犬山市に転居した。 |
| 謙は地元の犬山高校に進学し、強豪ではなかった同校野球部を投手として盛り立てた。 |
| 特に2年生の夏は愛知県大会でベスト4まで進んだが、この試合で3安打を放つも同学年の山倉和博を擁する東邦高校に敗れた週刊ベースボール、1990年6月4日号、P.96。 |
| 高校時代の活躍が認められて名古屋商科大学に特待生として進学し婦人公論、1993年5月号、P.278、投手として登板しない試合では外野手で4番を打つこともあったNumber、1991年11月5日号、P.78。 |
| エースだった3年次の秋季リーグ戦ではMVPを受賞している。 |
| 1977年のドラフト会議では中日ドラゴンズが指名した6選手中3選手が入団を拒否したため、球団はドラフト外での獲得を積極的に進め、その一環として平野の入団も決まったNumber、1991年11月5日号、P.77。 |
| 担当スカウトは山崎善平で、契約金、年俸はそれぞれ1,400万円、264万円、背番号は81だった婦人公論、1993年5月号、P.279。 |
中日時代
| 1年目のは投手としてウエスタン・リーグで登板し、2勝を挙げた。 |
| しかし大学時代に死球で痛めた右肘が春先に痛む事もあり、2年目の春季キャンプでコーチの広野功に外野手転向を勧められる。 |
| 紅白戦で自信を持って投げたストレートを藤波行雄に簡単に打たれたのを契機に転向を決め、この年はウエスタン・リーグで35試合に出場し打率.276の成績を残している。 |
| 3年目のは打撃不振に陥った事もあって俊足を生かすため右打ちからスイッチヒッターに転向し、広野とともに練習を重ねた。 |
| 同年はウエスタン・リーグで61試合に出場し、出場機会は増えたが打率は.271とほぼ前年並みだった。 |
| この年のシーズンオフには戦力外になりかけるが新監督に就任した近藤貞雄の進言により残留となる。 |
| 近藤は打力偏重のチーム構成もあって野手の分業制を掲げ、守備や走塁のスペシャリストを発掘しようとしたNumber、1991年11月5日号、P.79。 |
| 翌のオープン戦で補殺を成功させたことなどから開幕一軍入りを果たし、シーズン中は主にチャーリー・スパイクスの守備固めなどで試合に出場した。 |
| しかし引き続き打撃が課題だったため、この年は一軍に帯同して110試合に出場しながら昼は二軍の試合にも出場しているNumber、1991年11月5日号、P.80。 |
| 同年オフにスパイクスとレイ・コージが解雇されると、左翼手には大島康徳がコンバートされ右翼手も田尾安志がレギュラーだったものの、中堅手のポジションが空白となった。 |
| 翌から背番号が前年オフで引退した富田勝が着けていた3となり、2番打者として活躍。 |
| には初のゴールデングラブ賞に選ばれている。 |
| からはトップバッターを務めるようになったNumber、1991年11月5日号、P.73。 |
| 同年は初の打率3割を記録し、2回目のゴールデングラブ賞も受賞している。 |
| さらにに荒木雅博が盗塁王を獲得するまで、中日選手として最後の盗塁王であった、初のオールスターゲーム出場も果たすなど、セントラル・リーグを代表する外野手となっていった。 |
| またオフにはチームの野手で最高額となる年俸4,000万円数週間後にトレードで移籍してきた落合博満に抜かれているで契約を更改し、鈴木孝政の後任としてドラゴンズの選手会長に就任している。 |
| しかしは左ふくらはぎとアキレス腱を痛めてキャンプの調整から出遅れ、さらに4月16日の対広島戦で北別府学から死球を受けて右手小指の付け根を亀裂骨折し、一軍登録を抹消されるNumber、1991年11月5日号、P.74。 |
| 6月に一軍に復帰したがその間に彦野利勝が台頭し、平野の復帰後は右翼手のレギュラーとなった。 |
| この年から監督に就任した星野仙一は選手に闘争精神を強く求め、平野の淡白な初球打ちや出塁時のリードが小さく投手を揺さぶらないプレー、そして練習量に文句を言う姿勢などが問題視された星野就任以前のドラゴンズは、チーム全体がマイペースな練習を行っていた。 |
| さらに7月21日に3.5ゲーム差で迎えた首位巨人との直接対決で、3対3の4回1死にウォーレン・クロマティが打ち上げた打球を遊撃手の宇野勝と譲り合うような形でヒットにしてしまい、この回に3点を奪われると平野はそのままベンチに下げられた。 |
| この試合の敗戦を機に不動のレギュラーの座を失い、同年の出場試合数は90試合にとどまった。 |
| 秋季キャンプ中の11月18日に星野からトレードを告げられ、小野和幸との交換トレードで西武ライオンズに移籍したNumber、1991年11月5日号、P.82。 |
| 当初は個人的な好き嫌いでチームを放出されたのではと星野を恨みもしたが、実際は石毛宏典とAK砲をつなぐ2番打者として森祇晶の方が積極的に平野を欲しがっていた。 |
| なお、夫人は実家が熊谷市であり、同じ県内に本拠地を置く西武への移籍を喜んだという。 |
| 中日時代の応援歌の原曲は『狼少年ケン』であった。 |
西武時代
| 森監督は現役時代に巨人で見ていた森永勝也らへの悪質ないじめを反面教師として移籍選手に気を配り、平野には「全130試合に出場してもらう」と声をかけていた。 |
| 合同自主トレでもベテランとして調整は自由に任されていたが、周囲がベテランもハードなトレーニングをしているのを見て意識を改めたNumber、1991年11月5日号、P.84。 |
| 数ヶ月もせずに「自分以上にひょうきん」と石毛に言われるようになるなど西武のチームカラーにもなじみ週刊ベースボール、1988年7月18日号、P.120、移籍初年のは自己最高の打率.303を記録するとともに、リーグ最多の41犠打を成功させている。 |
| この年は活躍の一方で体力の消耗も激しく、日本シリーズの頃にはやつれこけながらもシリーズ全5試合に出場した。 |
| 以後は西武で2番・右翼手に定着し、には出場98試合でシーズン21補殺を記録したシーズン20補殺以上は、1981年のジム・タイロン(南海)の20補殺以来Number、1991年11月5日号、P.82。 |
| 翌まで5年連続でパ・リーグの最多犠打を記録している。 |
| こうして西武黄金時代になくてはならない存在となり、本人も中日時代には成し遂げられなかった日本シリーズ優勝を4度も経験した。 |
| しかしには6年連続9回目のゴールデングラブ賞を受賞したものの打率.239と年齢的な衰えを見せ始め、日本シリーズでは第7戦でスタメンを外れた。 |
| 前年の契約更改で1億円となった年俸婦人公論、1993年5月号、P.275もネックとなり、チーム若返りを目指す西武からオフに戦力外通告を受けてチームを去った。 |
千葉ロッテ時代
| 子供に野球選手としての姿を見せたいとの思いもあって現役続行を希望した婦人公論、1994年3月号、P.327ため自由契約の身分となり、に千葉ロッテマリーンズに入団。 |
| なお、かつてのトレード相手の小野和幸も同時にロッテに移籍している。 |
| 翌にはコーチ兼任となった。 |
| 5月23日の対近鉄戦(ナゴヤ球場)で史上初の通算450犠打を達成するが、6月頃に移動の際に乗った新幹線のテーブルに右手小指をはさんで骨折し一軍登録抹消となった。 |
| 同年限りで現役を引退している。 |
引退後
| 引退後はそのまま千葉ロッテに残ってコーチに就任し、さらにはヘッドコーチを務めた。 |
| 選手のケガに気をつけながら、勝つ喜びと負ける悔しさを教えてチームプレーの自覚を促すことを目標とした週刊ベースボール、2001年2月19日号、P.118。 |
| 勝負にこだわりながらもファームは育成の場と割り切って、不慣れなポジションを守らせたり、マウンド度胸を付けさせるために打ち込まれても投げさせるなどの手法も取っていた。 |
| 自身の経験も踏まえ、個人の実力がなければチームプレーも成立せず、技術を磨いた上でチーム力を上げる存在となるよう指導を心がけたという。 |
| ロッテ退団後のからは総合コーチとしてベンチ入りしている。 |
| また平野と同時期にロッテから礒恒之も入部した。 |
| 2004年は都市対抗への出場を逃したものの、悔しさをバネに真夏も猛練習を行い |
| 翌は都市対抗への出場とベスト8進出を果たしたが、北海道日本ハムファイターズのコーチに誘われたことから同年限りで退部している。 |
| なお、住金鹿島時代は東海テレビ放送・東海ラジオ放送・JSPORTS・東京メトロポリタンテレビジョンの野球解説者、中日スポーツの評論家も務めた。 |
| 2010年11月3日放送のHBCラジオ「ファイターズDEナイト!」に出演、2011年シーズンは起亜タイガースのバッティングコーチを務める旨を自ら語った。 |
| 同月の日向市キャンプよりチームに帯同し、2011年1月起亜と正式にコーチ契約を結んだ。 |
人物
| 西武時代は後輩から「謙さん」と呼ばれ、慕われていた。 |
| 西武時代に居を構えた所沢市の家から、千葉ロッテでは浦和市の練習所や千葉市の球場へ通勤していた。 |
打撃
| スイッチヒッター転向の際は広野功コーチがつきっきりで指導し、左打席ではとにかくダウンスイングで思い切りボールを叩いた。 |
| 当初は前に打球が飛ばず、右足の脛はコブだらけになったという。 |
| また、生涯犠打数451はプロ野球史上2位の記録である1998年に川相昌弘(巨人)によって破られるまでは歴代最多だった。 |
| バントの際には打球の勢いを殺すことを意識しすぎるよりもコースが重要だと考え、フィールディングが良くなければ投手の前に転がすのが良いと語っている。 |
| また、走者を送った後にクリーンアップが凡退すると落胆も大きいが、試合に勝てば自分が安打を打たなかった事など気にならなかったという。 |
守備
| ゴールデングラブ賞を9回、最多補殺も5回記録しており、プロ野球史上屈指の強肩・好守の外野手であった。 |
| 西武で右翼手として中堅手・秋山幸二と構成した右中間守備は史上最強とまで評され週刊ベースボール、2001年7月2日号、P.24、守備範囲の分担もスムーズだった。 |
| 外野守備の見せ場は普通に守備範囲に飛んできた球を簡単に捕る事だと述べており週刊ベースボール、2001年7月2日号、P.25、打球を予測する状況判断能力と、打球を追う際に頭が上下動しないフットワークの良さを、外野守備に重要な能力として挙げている。 |
| 捕球後はいかに早く送球できるかを重視し、普通の外野手が5、6歩ステップするところを3歩で送球できるようになった事で進塁を防ぐ機会が増えた。 |
| また、素早い送球のために井手峻コーチとゴロ捕球の研究を重ね、ダッシュして右足を前にした時の歩幅の中にボールが入るような体勢で捕球するという、当時の定説と異なるスタイルを確立している。 |
| 現役時代は強肩の評価が高く、俊足の広瀬哲朗をライトゴロに仕留めたこともある。 |
| 投手時代の経験から、無理な体勢でも必ず送球方向を見ていたためコントロールも良かったNumber、1992年2月20日、P.36。 |
| 補殺はの21個をピークにその後は減少しているが、強肩を恐れて進塁を控えるほうが次打者を抑える可能性があって望ましかったという週刊ベースボール、2001年7月2日号、P.24。 |
表彰
| ベストナイン:1回(1988年)。 |
| ゴールデングラブ賞:9回(1982年、1985年、1986年、1988年-1993年)。 |
記録
| オールスターゲーム出場:2回(1986年、1988年)。 |
現在の出演番組
| プロ野球中継(東海テレビ)。 |
| JSPORTSSTADIUM(JSPORTS、東海テレビ制作分)。 |
| HBCファイターズナイター(HBCラジオ)。 |
関連項目
| 愛知県出身の人物一覧。 |
| 中日ドラゴンズの選手一覧。 |
| 埼玉西武ライオンズの選手一覧。 |
| 千葉ロッテマリーンズの選手一覧。 |
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1955年
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平野 謙(ひらの けん)は、愛知県名古屋市中... |
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1961年
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肝硬変で亡くなった父に続き、1967年には母が... |
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