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つながりの強いひと
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高原永伍
同期
元競輪選手。現在は日本競輪学校名誉教諭。現役時は日本競輪選手会神奈川支部所属。 |
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滝澤正光
滝澤正光(たきざわまさみつ、1960年3月21日-)は日本の元競輪選手である。現在は日本競輪学校第23代校長(名誉教諭兼務)。千葉県八千代市出身。血液型はB型。 |
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白鳥伸雄
同期
元競輪選手。千葉県出身。日本競輪学校創設以前の期前選手で選手登録番号2224。現役時は日本競輪選手会千葉支部所属。初出走は1950年1月30日の神戸競輪場。 |
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石田雄彦
浪速のこって牛という異名を取った。また、後述するが、香川の吉田実とは永遠のライバルとも言われ、また二人で、石田・吉田時代を築いた。 |
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神山雄一郎
神山雄一郎(かみやまゆういちろう、1968年4月7日-)は日本の競輪選手、自転車競技選手である。栃木県小山市出身。作新学院高等部卒業。日本競輪学校第61期卒... |
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福島正幸
日本の元競輪選手である。群馬県前橋市出身。日本競輪学校第22期卒業。現役時代は日本競輪選手会群馬支部所属。1966年(昭和41年)デビュー。 |
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吉田実
吉田実(よしだみのる、1934年(昭和9年)5月1日-)は香川県出身の元競輪選手である。ホームバンクは観音寺競輪場であった。1950年(昭和25年)7月25日選手登... |
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井上茂徳
井上茂徳(いのうえしげのり、1958年3月20日-佐賀県佐賀市出身)は日本の元競輪選手である。現在はSPEEDチャンネル専属競輪解説者、スポーツニッポン専属競輪... |
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田中博
田中博(たなかひろし。1947年3月6日-)は日本競輪選手会群馬支部に所属していた元競輪選手。日本競輪学校第21期生で、同期にはスピードスケート選手から転身... |
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吉岡稔真
日本の元競輪選手である。現在は競輪解説者・評論家。福岡県北九州市小倉南区出身。血液型はA型。座右の銘は「不動心」。 |
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阿部道
阿部道(あべとおる。1948年1月19日-)は元競輪選手。宮城県仙台市出身。日本競輪学校第23期卒業。現役時は日本競輪選手会宮城支部所属。初出走は1966年9月16... |
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山本清治
山本清治(やまもとせいじ、1930年(昭和5年)9月26日-)は元競輪選手である。熊本県出身。熊本県立熊本商業学校(現・熊本県立熊本商業高等学校)卒業。1949... |
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戸上守
日本競輪選手会・福岡支部に在籍していた元競輪選手。日本競輪学校第2期生で、登録番号は5805である。 |
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松本勝明
元競輪選手。現在は日本競輪学校名誉教官。京都府出身。 |
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稲村雅士
群馬県出身の元競輪選手。日本競輪学校第16期生。59歳まで現役を続けた。 |
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藤巻昇
元競輪選手、現在はスポーツ報知北海道総局所属の競輪評論家。現在の山梨県笛吹市石和町出身。日本競輪学校第22期卒業。初出走は1966年1月11日の立川競輪場で... |
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伊藤繁
伊藤繁(いとうしげる1947年8月12日-)は元スピードスケート選手、元競輪選手。長野県安曇野市出身。競輪選手時代は日本競輪選手会神奈川支部所属。日本競輪... |
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荒川秀之助
宮城県名取市出身で、日本競輪選手会・宮城支部に所属していた元競輪選手。 |
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吉井秀仁
元競輪選手、現在は東京中日スポーツ所属の競輪解説者、競輪レポーター。千葉県茂原市出身。日本競輪学校第38期卒業。現役時は日本競輪選手会千葉支部所属。... |
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伏見俊昭
伏見俊昭(ふしみとしあき、1976年2月4日-)は日本の競輪選手、自転車競技選手である。福島県白河市出身。日本競輪学校第75期卒業。日本競輪選手会福島支部所... |
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プロフィール
- 平間誠記とは
- 戦績
- 主な獲得タイトルと記録
- 競走スタイル
- エピソード
- 参考文献など
- 関連項目
平間誠記(ひらませいき1937年3月21日-1968年8月21日)は競輪選手。宮城県刈田郡 蔵王町出身。日本競輪学校第13期卒業。現役時は日本競輪選手会宮城支部所属。選手登録番号6789。日本競輪学校91期出身の競輪選手である平間一洋の大叔父にあたる。
戦績
| 宮城県立大河原高等学校を卒業後、アマチュア選手としてアジア大会などのスクラッチ(現在のスプリント)種目に出場し数々の優秀な成績を治める。 |
| この頃は早稲田大学商学部の聴講生であったが、大学の自転車部が平間を一般学生として登録し出場させていたため、部全体が長期の活動停止処分を受けてしまい、アマとしての活動が難しくなったため、プロである競輪学校への転向を決断している。 |
| 1959年3月に日本競輪学校へ入学し、6月27日に門司競輪場でデビューを果たすと、既にアマチュアでの実績があったことから際立つ強さを発揮するようになり、1962年にはオールスター競輪を優勝しトップクラスとしての確固たる地位を築き、やがて同期の高原永伍、年上の白鳥伸雄らと共に「3強」とまで評されるようになる。 |
| だがトップクラスとなってからも常に頂点を目指すため、レースではライバルと目した相手を攻める競走を続けており、特に高原永伍への対抗心は凄まじく、同じレースに同乗する場合は同期としての連携を拒み必ず別線で戦いを挑んでいた。 |
| しかし勝負にかける性格の激しさからか、選手の間においてだけでなく私生活でもトラブルを引き起こし、やがて当時の公営競技につきものであった「黒い霧」の噂まで囁かれるようになり、1965年8月には日本自転車振興会から事情聴取を受けた後、無期限の自粛欠場処分を言い渡され、選手生命の危機に立たされた。 |
| しかし関係団体の調査において平間の不正行為を立証することはできず、1966年の年明けと共に自粛処分は4ヶ月ほどで解除された。 |
| ここから平間の驚異的な快進撃が始まり、復帰レースとなった平でのレースを完全優勝し、直後の大宮記念も優勝したが、その時観戦した阿佐田哲也は迎え撃って特選で平間を退けた白鳥伸雄との激突をエッセイに残している。 |
| そして2月には秩父宮妃杯競輪を優勝して高らかに復活をアピールした。 |
| 1967年には特別競輪(現在のGI)を3勝して自身初の年間賞金王となり、高原永伍やこの年に引退した白鳥伸雄を抑えて競輪界の頂点に上り詰めた。 |
| これにより競輪選手では初めて特別競輪の全冠制覇(グランドスラム)を達成することも期待されたが、1968年8月に残り一つとなっていた全国都道府県選抜競輪において準決勝で敗れ、全冠制覇達成は翌年以降に持ち越しかと思われた。 |
| しかし、その直後の8月16日に世界選手権自転車競技大会へ向けての合宿中、平塚競輪場にて練習を行っていた時に落車して頭蓋骨を骨折し、重体のまま平塚市内の病院へ搬送された。 |
| 当時の報道によると、隊列を組んで走行中、運悪く前の転倒に巻き込まれる形で乗り上げてしまい、さらにこの時平間はヘルメットではなく皮製の防護具を装着していたため、走路への頭部激突による衝撃が緩和されず深刻な致命傷を負ってしまった。 |
| 平間は病院に搬入された時点で既に自発呼吸が停止しており、そのまま8月21日に脳挫傷のため亡くなった。 |
| まだ31歳の若さだった。 |
| なお、この事故により、この年の世界選手権へのプロ選手参加は取りやめとなった。 |
| また平間が特別競輪で唯一勝利できなかった全国都道府県選抜競輪は、平間が事故直前に出場した年を最後に、翌年以降は開催されることなく廃止されてしまった。 |
| 平間誠記が受けた自粛欠場処分については現在も詳細が判明しておらず、その当時の関係者も平間について語ることが少ないため、現在の競輪における平間の存在は昭和40年代における競輪盛況期の「伝説」と化している。 |
主な獲得タイトルと記録
| 1962年-オールスター競輪(川崎競輪場)。 |
| 1966年-秩父宮妃賜杯競輪(西武園競輪場)。 |
| 1967年-高松宮杯競輪(大津びわこ競輪場)・日本選手権競輪(後楽園競輪場)・競輪祭(小倉競輪場)。 |
| 年間賞金王1回-1967年。 |
| 年間最高連対率-9割1分1厘(1967年)。 |
| 通算成績742走中469勝。 |
競走スタイル
| アマチュア時代からスプリントを得意としていたことから、捲り追い込み中心の自在選手として活躍しており、他のラインの自力選手に対し徹底的に体当たりを行うマーク技術や、最後の直線で爆発的とも言えるダッシュによる追い込みを見せていたが、メンバー次第では自ら先行することもあったという。 |
| しかし他の選手から恐れられる実力がありながら、あっさり敗退してしまうこともある不安定さや、上述の「黒い霧」に関する噂が絶えなかったことから、当時の競輪ファンは平間に対し畏怖も込めて『悪魔の脚』というあだ名をつけていた。 |
エピソード
| 1966年の西ドイツ・フランクフルト、翌1967年のオランダ・アムステルダムで開催された世界自転車選手権のプロ・スクラッチ(現在はスプリントという名称)種目において、平間は連続してベスト8入りを果たした。 |
| 加えて、当時世界チャンピオンだったイタリアのジュゼッペ・ベゲットのペダリングスキルや、後に中野浩一が確立することになる「爪先立ちフォーム」を体得できたと考えていた平間は、世界選手権でのメダル獲得も十分狙えると思い、1968年のウルグアイ・モンテビデオ大会に照準を合わせて日々の練習を行っていた。 |
| しかし平間本人の事故により日本プロ選手団は派遣中止となってしまう。 |
| 一方、杉原鏘一郎を監督とするアマチュアは選手団を派遣してタンデム・スプリントに出場しており、当時は共に大学生だった班目隆雄・井上三次のコンビが日本人として同大会初の銅メダルを獲得している。 |
| 弟子の河内剛や、阿部道、荒川秀之助といった当時の若手選手に練習をつきあわさせ、「競りの練習」という名の下、決まって最後は阿部らを田んぼの中へと突き落としたという、荒々しい練習をしていたことは有名な話。 |
| 当時を振り返って阿部は「平間さんと練習するのが本当に嫌だった」とこぼしていた。 |
| しかし平間の死後、河内、阿部、荒川はいずれも日本選手権競輪を制覇し、宮城王国と呼ばれる強豪集団を形成していくことになる。 |
参考文献など
| 寺内大吉『寺内大吉スポーツ文学全集4』1976年日本スポーツ出版社。 |
| 最相葉月『高原永伍、「逃げ」て生きた!』1994年徳間書店ISBN4198601380。 |
| 『月刊競輪ダービー』1968年8月号・9月号ダービー社。 |
| 名選手列伝(SPEEDチャンネルで2000年に放送)。 |
関連項目
| 広瀬登喜夫-オートレース選手。 |
| 当時の公営競技における「黒い霧」の実態について。 |
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1962年
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オールスター競輪を優勝しトップクラスとして... |
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1965年
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日本自転車振興会から事情聴取を受けた後、無... |
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平間誠記さんについてのひとこと紹介
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