| 高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれる。 |
| 幸徳家は、酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で、陰陽道をよくする陰陽師の家であった。 |
| なお、妻師岡千代子の父は幕末の尊王攘夷運動で活躍し、足利三代木像梟首事件の首謀者とされている国学者の師岡正胤である。 |
| 1887年(明治20年)に上京し、同郷の中江兆民の門弟となる。 |
| 新聞記者をめざし、『自由新聞』板垣退助社長。 |
| 小泉策太郎と親友になどに勤めた。 |
| 同年に発布された保安条例で大阪に移った兆民は角藤定憲に芝居公演の企画を提唱し、角藤は大日本壮士改良演劇会を旗揚げ、いわゆる壮士芝居の先駆となる。 |
| そのときの演目のひとつ「勤王美(義とも)談上野曙」は兆民が秋水に執筆を依頼したといわれる松本克平『日本社会主義演劇史明治大正篇』(筑摩書房,1975)。 |
| 1898年(明治31年)より黒岩涙香の創刊した『萬朝報』記者となる。 |
| 万朝報は日本におけるゴシップ報道の先駆者として知られ、権力者のスキャンダルを追求、「蓄妾実例」といったプライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した新聞である。 |
| 1899年(明治32年)末には東京の新聞中発行部数一位に達し、最大発行部数は30万部となった。 |
| また一時淡紅色の紙を用いたため「赤新聞」とも呼ばれた。 |
| 秋水は記者のかたわら国民英学会などで学び、1900年(明治33年)8月30日、旧自由党系政党の憲政党がかつての政敵である藩閥の伊藤博文と結び立憲政友会を結成したことを嘆き、萬朝報に「嗚呼、自由党死すや」との一文で有名な「自由党を祭る文」と題した批判論文を発表した。 |
| また同年6月より起こった義和団の乱(北清事変)制圧の際、日本軍が清国の馬蹄銀を横領した嫌疑を万朝報で追求し、陸軍中将真鍋斌を休職に追い込む(馬蹄銀事件)。 |
| このことで真鍋や山県有朋の恨みを買ったことがのちの大逆事件につながったとする説があるウィキペディア「義和団の乱」参照。 |
| 1901年(明治34年)、『廿世紀之怪物帝国主義』を刊行し帝国主義を批判。 |
| これは当時、国際的に見ても先進的なものであった。 |
| また、この年田中正造が足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴したときの直訴状は、まず幸徳が書き、田中が手を加えたものである(田中が直訴状の執筆を依頼した者たちが後難をおそれてしりごみする中、幸徳だけが断らずに書いたといわれる) |
| 1903年(明治36年)、日露戦争開戦以前は殆どの新聞の論調は戦争反対であったが、ロシアとの開戦へと世論の空気が押されていくなかで、『万朝報』も社論を非戦論から開戦論へと転換させたため、堺利彦、内村鑑三、石川三四郎と共に発行元の朝報社を退社する坂野潤治・田原総一朗『大日本帝国の民主主義』小学館,2006年,139頁。 |
| 幸徳と堺は非戦論を訴えつづけるために平民社を開業し、週刊『平民新聞』を創刊した。 |
| このころ、「萬朝報」で同僚だった斉藤緑雨が病で貧窮したため、「週刊・平民新聞」に、緑雨のために「もゝはがき」という欄を設け、原稿料を得ることができるようにした師岡千代子「夫・幸徳秋水の思い出」1946年東洋堂。 |
| 緑雨はその送金が待ちきれずに、病躯をおして平民社に受け取りに来る時も多くあり、秋水はいつも、小遣い銭を加えて渡すようにしていたという師岡前掲書。 |
| 1904年(明治37年)、「与露国社会党書」発表、堺と「共産党宣言」を翻訳発表、即日発禁される。 |
| 1905年(明治38年)、新聞紙条例で入獄、獄中でクロポトキンを知り、無政府主義に傾く。 |
| 出獄後11月、渡米、サンフランシスコに着く。 |
| アメリカに亡命していたアナキストのフリッチ夫人やアルバート・ジョンソンらと交わり、アナルコ・サンディカリズムの影響を受けた。 |
| 1906年(明治39年)、第1次西園寺内閣が成立すると、同政権の融和政策のもとで同年1月、西川光二郎らによる「日本平民党」の結党が認められたのに続いて堺利彦らを中心に「日本社会党」が結成、翌2月には両党が合同して日本社会党が結成された。 |
| この党は「国法ノ範囲内ニ於テ社会主義ヲ主張ス」という合法主義を掲げていた。 |
| 結党直後から東京市電値上げ反対運動など積極的に大衆運動を展開したが、米国より秋水が帰国し、ゼネラル・ストライキによる「直接行動論」を党内で提唱する。 |
| 労働者による普通選挙運動を主張する片山潜や田添鉄二らの「議会政策論」と対立し袂を分ける。 |
| のち秋水は社会革命党を岩佐作太郎と結成。 |
| 1909年(明治42年)、『自由思想』発刊、即日発禁。 |
| 1910年(明治43年)6月、幸徳事件(大逆事件)において逮捕(湯河原の「天野屋」に小泉策太郎に勧められて宿泊中)。 |
| 翌年に死刑判決を受け、他の死刑囚とともに1月24日処刑された。 |
| これには当時すでに国内や海外の一部から批判があり、社会主義者たちを一網打尽にしたかった当局が仕組んだ謀略である、というのがほぼ定説になっている管野須賀子ら数名による皇族暗殺計画の準備はあったので、全てが事実無根の謀略というわけではない。 |
| しかし幸徳を含め、処刑になった者の中には冤罪による刑死者が混ざっていたのではないかとの指摘もある。 |
| ただし幸徳は事件当時、皇族暗殺計画の首謀者である管野と同棲中だった。 |
| 墓は、高知県四万十市の正福寺に、妻千代子の墓と隣接してある。 |
| 碑銘は小泉策太郎(小泉三申)。 |
| 検察庁、裁判所の裏手にあり、戦前は墓碑に鉄格子がはまっていた。 |
| 刑死後もなお、当局に監視されていた |