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プロフィール
- 広岡達朗とは
- 人物
- 経歴
- 現役時代
- ヤクルトコーチ・監督時代
- 西武監督時代
- 西武監督辞任後
- 再び解説者として
- 指導者として
- 管理野球
- 出演番組
広岡達朗(ひろおかたつろう、1932年2月9日-)は、広島県呉市出身の元プロ野球選手(内野手)・プロ野球監督、野球解説者(野球評論家)。東京都 町田市在住。愛称は「 ヒロさん」、あるいは単に「ヒロ」。また、 野村克也や 森祇晶が「狸」と呼ばれるのに対して、広岡は「狐」とも呼ばれる。1990年代後半ごろから、出版物には「廣岡達朗」表記も見られるようになっている。
人物
| 現役時代は読売ジャイアンツで活躍し、引退後は広島東洋カープ守備コーチ、ヤクルトスワローズヘッドコーチ・監督、西武ライオンズ監督を歴任。 |
| 監督としては、最下位球団だったヤクルト、長期に渡って低迷していた西武をリーグ優勝・日本一へと導いた。 |
| その後は千葉ロッテマリーンズのゼネラルマネージャーを経て、現在は野球評論家。 |
| 父は旧日本海軍の少佐で、駆逐艦の機関長であった。 |
| 兄・広岡富夫は公務員(広島県庁)からプロ入りした異色の経歴を持ち、広島市民球場第1号本塁打を放った広島カープの元選手である。 |
| 宝塚歌劇団94期生(2008年入団)で星組男役の麻央侑希は孫のひとり(長男の長女) |
| 甥の広岡資生は早稲田大学で東京六大学の首位打者に輝き、卒業後は松下電器に進み監督も務めた。 |
| また、鶴岡一人は小学校の先輩にあたる。 |
経歴
| 呉三津田高校を卒業後、早稲田大学教育学部へ進学。 |
| 早大野球部では荒川博・沼澤康一郎・小森光生らとともに東京六大学リーグのスタープレーヤーとして鳴らした。 |
| リーグ通算82試合出場、315打数68安打、2本塁打、52打点、打率.216。 |
現役時代
| 1954年、水原茂監督率いる読売ジャイアンツに入団。 |
| 広岡は「私の野球の原点は巨人軍の野球である。 |
| わたしがプロの厳しさを、いやというほど思い知らされた入団当時の巨人軍の野球である。 |
| 」広岡達朗『意識革命のすすめ』、講談社、22-23頁と述べている。 |
| 当時の正遊撃手だった平井三郎からレギュラーを奪い、打率.314、15本塁打、67打点をマークして新人王を獲得し、ベストナインにも選ばれた。 |
| 以後、大阪タイガースの吉田義男と並びセ・リーグを代表する遊撃手と称され、とりわけ守備の堅実さ、華麗さを吉田と競いあった。 |
| 打撃面では1年目以外は低打率の年が多かったが、通算118本塁打、特に1958年には右膝を故障して2か月欠場したが、復帰後は18本塁打を放つなどパンチ力もあった『巨人軍5000勝の記憶』では、「1年目のまま打てばいいものを、理論派であるだけに考えすぎたのが、3割に復帰できない理由だと言われた。 |
| しかし、意外性のある打者ではあった」という評価が記されている。 |
| 57年12月には、品川主計球団社長(当時)の仲人で挙式日本経済新聞掲載『私の履歴書』2010年8月31日分より。 |
| なお、この祝いの日には別室で、水原監督から厚い信任を得ていた2コーチ・1選手が解雇を言い渡されていた事も明かしている。 |
| 1961年に川上哲治が監督に就任し、広岡はコーチ兼任となる。 |
| 1964年8月6日の対国鉄戦で、広岡の打席のとき三塁にいた長嶋茂雄が独断でホームスチールを行い、巨人ベンチも特にそれをとがめようとしなかったことに対し、バットを叩きつけて「私のバッティングがそんなに信用できないのですか!!」と激怒し、試合途中で球場を後にした。 |
| 同年、川上がシーズン終了後に広岡のトレード放出を画策したが、広岡が正力松太郎に「トレードされるなら巨人の広岡で終わらせてください」と引退を直訴した結果、正力の指示で残留が決定したが(川上はスポーツマスコミに非難を浴びた)、翌年から出番が減り、1966年のシーズン終了後に現役を引退した。 |
| ここから川上との確執がはじまる。 |
| 引退後はラジオ関東、サンケイスポーツなどで評論家活動。 |
| 現役引退直後の1967年2月にメジャーリーグのキャンプの視察をするため渡米する。 |
| フロリダ州ベロビーチのドジャータウンで行われていた巨人のキャンプも訪れたが、川上監督は広岡による取材を許さず、選手に対して「広岡と口を利くな」と指示を出し、さらに広岡のドジャータウンへの宿泊も許可しなかった。 |
| 広岡は川上の仕打ちに激怒し、文字通り殺意を抱くほどの激しい怒りを感じたと述懐している。 |
| しかし森昌彦(祇晶)一人だけが広岡が宿泊しているホテルを訪れ食事をともにし、気遣いを見せた。 |
| 広岡は森に深く感謝し、以後行動を共にするようになる。 |
ヤクルトコーチ・監督時代
| 当時のヤクルトは松園尚巳オーナーの方針で家族主義的なチームカラーであったが、広岡はプロとして弛緩した雰囲気が流れていると判断した。 |
| シーズンに入り故障者が続出したことで、広島コーチ時代に根本に進言して実践した選手の食生活管理をヤクルトの選手に対しておこない、正式に監督に就任後のの春季キャンプで、麻雀・花札・ゴルフの禁止、飲酒・喫煙の制限を打ち出し、選手の生活態度に対して厳しい規制を打ち出した。 |
| キャンプでは守備走塁を徹底的に重視する練習・試合方針を打ち出した。 |
| 当初は選手から反発を受けたものの広岡の方針は成功し、同年チームを球団史上初のシーズン2位に導く結果となった。 |
| しかしペナントレースは巨人が優勝し、2位ヤクルトは巨人に対して7勝19敗と大きく負け越した。 |
| 翌は、森昌彦を作戦コーチとして招聘。 |
| 森は広岡の意向を受けて選手たちの私生活も事細かく管理した。 |
| また森の収集したデータに基づき、巨人に対しての対策を強化する。 |
| 5月からペナントレース争いに加わり、前半戦終了時に首位で折り返した。 |
| 後半戦に入ると調子を落とし、8月25日の時点で巨人に4.5ゲーム差をつけられて優勝は絶望に見えたが、ここから巨人が失速し、ヤクルトは多くの逆転勝利を収めて快進撃を続け、10月4日にリーグ優勝を決めた。 |
| ちなみにこの年はヤクルトは巨人に対して勝ち越している。 |
| 日本シリーズでは四年連続日本一を狙う阪急ブレーブスと対戦。 |
| 世間の予想は「阪急有利」という評が圧倒していたが『巨人軍5000勝の記憶』p.37ほか、ここでも広岡ヤクルトは阪急を4勝3敗で下して初の日本一を手にした。 |
| 広岡は日本一になった時点でヤクルトを退団することを決意していたが、球団の慰留を受け、新たに3年契約を結んだ。 |
| 広岡はチーム強化のためにいくつかトレードを予定していたが、広岡の意図したトレードは殆どが成立しなかった。 |
| 広岡はこれを振り返って「トレードに予定していた選手が残留を訴えたため」と述べている。 |
| も優勝候補の一角であったが、開幕から8連敗を喫して成績が低迷。 |
| 球団は選手から評判の悪かった森を、広岡に無断でバッテリーコーチから解任し、植村義信投手コーチを二軍降格させようとした。 |
| 広岡は球団の人事案を巡って対立を起こし、8月17日には辞任を申し出た。 |
| 退団前に、堪忍袋の緒を切って「巨人びいきの審判がいる。 |
| 丸山、岡田、大里。 |
| 名指しで書いてもらってけっこうだ」とマスメディアにぶちまけたサンデー毎日、1980年6月22日号、p.28。 |
| 退団後は日本テレビの解説者として評論活動を展開。 |
| 1981年には近鉄バファローズと阪神タイガースから監督要請を受けるが、いずれも辞退した。 |
西武監督時代
| 就任一年目の1982年は前期優勝を遂げると、プレーオフで後期優勝を果たした日本ハムファイターズを下して球団19年ぶりのパ・リーグ優勝に導く。 |
| 同年の日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で破り球団24年ぶりの日本一、西武第1次黄金時代の幕開けを導いた |
| 日本シリーズの相手は古巣の巨人であり、さらに藤田元司監督とはかつてのチームメイトということもあって、その対決は「球界の盟主の座を賭けた戦い」として日本中の注目を集めた。 |
| 江夏獲得のため中継ぎ投手の木村広、柴田保光を放出し、さらに小林誠二も広島へトレードとなり、一気に中継ぎ投手が3名も退団した。 |
| カリフォルニア・エンゼルスに在籍していたドン・ベイラーを獲得するようフロントに進言したが、球団は打者ではなく台湾球界のエースだった郭泰源を獲得。 |
| 当時の外国人選手の登録枠は2人だったが、ジェリー・ホワイトの解雇で空いた枠を野手ではなく投手に振り分けてしまったことで、一軍登録は「野手1人・投手1人」となる(スティーブ・オンティベロスと郭泰源)。 |
| は秋山幸二・辻発彦・工藤公康・渡辺久信などの若手選手が台頭し、独走状態でリーグ優勝を果たした。 |
| 同年の日本シリーズでは阪神に2勝4敗で敗れて日本一を逃した。 |
西武監督辞任後
| 1988年には巨人から王貞治の後任として監督就任を要請されたが、これを断っている(理由は後述)。 |
| 1990年から阪神監督に就任した大学の後輩・中村勝広に請われて、阪神の東京遠征時には仲田幸司、猪俣隆、野田浩司の投手陣を指導した。 |
| これは1988年から1990年まで行われて、アメリカ球界から監督・コーチ・現役の選手が来日し、日本からも広岡・古葉竹識・張本勲・鈴木啓示らが参加してサミットで議論を繰り広げた。 |
再び解説者として
| 長嶋茂雄会長が脳梗塞で倒れた2004年以降は、事実上のOB会会長格として活動している(正式な会長ではない)。 |
| 長嶋の前々任だった別所毅彦が死去した時や前任の藤田元司が辞任した時にも会長候補として名前が挙がったが、就任は実現しなかった(2009年に王貞治が会長就任)。 |
指導者として
| 関根潤三は広岡を「文句なしに、球史に残る名監督、大指導者」と評し(関根潤三『一勝二敗の勝者論』佼成出版社、1990年、104頁)、また早稲田大学の後輩である近藤昭仁・中村勝広・八木沢荘六や、監督時代の教え子だった若松勉・大杉勝男・田淵幸一らからは深く信奉されている。 |
| チャーリー・マニエルはかつて池井優の著書で広岡の人間性を批判していたが、現役引退後アメリカ球界で監督と指導者としてキャリアを重ねていくうちに「ようやくヒロオカの言っていたことが理解できた」と発言、指導者としての自分があるのは日本での経験のおかげであると述べている |
| しかしその一方、現役時代から歯に衣着せない毒舌家であるため敵も多く、森祇晶・豊田泰光・江夏豊・東尾修らからは公然とその人間性を批判されている。 |
| いい勉強をさせてもらったよ」「西武ライオンズ30年史」ベースボール・マガジン社などと指導者としての手腕や実績については一定の評価を示しているものの、指導方針などを巡る様々な確執から、現在でもその人間性を批判している江夏の起用法をめぐる確執あらましについては阿部牧郎『われらのプロ野球』(中央公論社、1996年、19-36頁)などに詳しく書かれている。 |
管理野球
| 監督としての広岡は、徹底した「管理野球」で有名である「ライオンズ60年史」1950▷▷▷▷2010、ベースボール・マガジン社、2010年、、58、59、62、63、74-77、106、107頁 |
| 「万全のコンディションでプレーするためには当然のこと」と、その管理は選手の私生活にまで及び、1982年に西武監督に就任した際には、それまでの禁酒、禁煙、禁麻雀に加え、選手の食生活の改善から着手し、ヤクルト監督時代から自ら進めていた玄米食・自然食品摂取をチームに強要、肉の摂取量を制限した(ただ、「あくまでも『制限』であって『禁止』ではない」と後に広岡はマスコミの誇張表現に対し牽制している)。 |
| 実際は、これら肉や牛乳、ビタミン類が失われている白米より、玄米や雑穀類、豆乳などの方が栄養価が比較的高く自然治癒力もつきやすいという意味であり(広岡自身は、肉食が全面的にいけないといっているのではなく食べ過ぎるなという意味だと著書で言っている)また魚介類、野菜、果物で栄養のバランスをとったほうが身体にいい、という程度の要旨であったのだが二宮清純『スポーツ人健康管理学』ライト出版、1986年、103-106頁、日本ハムの大沢啓二監督が「草の葉っぱを食べているヤギさんチームに負ける訳にはいかない」と挑発 |
| 広岡は合宿所の食事に上記の自然食品摂取の他、化学調味料、精製された塩、砂糖をも排したと1982年の著書で既に記している『わが野球教育学』、毎日新聞社、1982年、111-116頁。 |
| 江夏豊は「広岡さん自身が制限を守らない件を指摘したら、そのことで私は二軍に落とされた」「広岡さんは素晴らしい技術を持った野球人だが、言っていることとやっていることが違うのが大いに疑問だった」と記し、東尾修は「百パーセント、選手を統括しておかないと気が済まぬ人 |
| これは予想以上に早く潮が引いた「漫才ブーム」に代わるものは「広岡・西武」しかない、と在京キー局全てが西武の試合をめぐって争奪戦を繰り広げたもので、先の自然食の話は当時のマスメディアの大報道合戦を呼んだ週刊新潮、1982年2月11日号、136頁。 |
| 西武時代に広岡に教えられた食事法を現在も実践し、体調管理に役立てているといい『粗食は最強の体をつくる!』三笠書房、2006年他「これまで何度もあった逆境を乗り越えられたのは、広岡監督に若いうちにプロ魂をたたき込まれたお陰」 |
| ウエイトトレーニングを導入した経緯は、2位になった1977年のシーズン終盤、選手がロッカーにゴルフ道具を持って来たり、オフにどこかの温泉に行こうとか、そんな話ばかり始めた為、シーズンは終わっても野球が終わるわけではない、体の回復とレベルアップを図るには基礎体力を付けることが一番いいという理由で始めた。 |
| 人間の体は動かしていないと駄目だ』と言い渡し、選手から大反発を買ったものの、ユマのキャンプでサンディエゴ・パドレスのクラブハウスに行ったら、真ん中にウエイトトレーニングの機械があってパドレスの選手たちが普通にやっているので、それを目撃して素直に納得したのだという週刊朝日、朝日新聞社、1978年12月1日号、31頁。 |
| ヤクルト時代には、アキレス腱の持病を持つ若松勉が、遠征の移動のバスに乗るとすぐに缶ビールを買い込んでくるので、アルコールが故障にいいはずがないと言い聞かせた。 |
| 阪急との日本シリーズで圧倒的に不利との前評判で勝てたのはヤクルトの方がベストコンディションだったからで、阪急は六・七分、その上、有馬温泉で休んでいたから、心のスキがあったんだろう」と話している週刊朝日、朝日新聞社、1978年12月1日号、29-31頁。 |
出演番組
| ラジオ日本ジャイアンツナイター(RFラジオ日本)-1967年~1969年、1972年~1973年、1998年~2007年に出演(1973年出演時までの局名はラジオ関東)。 |
| 元気を日本に日本プロ野球(日本テレビ系列)-同系列プロ野球中継(1980年~1981年に出演)の現行タイトル。 |
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1932年
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広岡 達朗(ひろおか たつろう)は、広島県呉... |
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1954年
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水原茂監督率いる読売ジャイアンツに入団 |
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つながりの強いひと
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王貞治
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広岡達朗さんについてのひとこと紹介
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