| 大学の同期生に山之内一次、伊集院彦吉、原嘉道、一級下に後に竹二郎の政治顧問を務めることとなる佐々木多門らがいる。 |
| 明治23年(1890年)に大学を卒業後、大蔵省に入省しその後内務省に転ずる。 |
| 宮城県参事官、岡山県警察部長、東京府書記官、徳島県知事、秋田県知事(未赴任)などを歴任し、1906年(明治39年)、第1次西園寺内閣で内務省地方局長に就任。 |
| 内務大臣だった原敬に重用され、立憲政友会との関係を深めていく。 |
| 原内相のもと、郡制廃止に努力するも貴族院の反対で頓挫した。 |
| 明治41年(1908年)、樺太庁長官。 |
| 明治44年(1911年)、内務次官。 |
| 大正元年(1912年)、第2次西園寺内閣の総辞職に伴い次官を辞任。 |
| 大正2年(1913年)の第1次山本内閣の成立時には、薩派と政友会の提携に奔走。 |
| 山本内閣では鉄道院総裁に就任。 |
| 鉄道幹線広軌化計画の中止と地方路線拡張方針を打ち出した。 |
| 大正2年(1913年)11月に政友会に入党。 |
| 大正3年(1914年)、山本内閣総辞職を受けて辞任。 |
| 郷里の鹿児島県から衆議院議員補欠選挙に立候補し当選する。 |
| 以後、昭和7年(1932年)の総選挙まで連続8期当選。 |
| 政友会院内総務、大正7年(1918年)の原内閣で内務大臣兼鉄道院総裁。 |
| 長年の懸案であった郡制廃止、選挙法改正による選挙権拡張と小選挙区制の導入を実現した。 |
| また内務省内に社会局を新設したほか、協調会を設立し社会政策に取り組んだ。 |
| 大正10年(1921年)に原が暗殺され、後継の高橋内閣でも内相に留任したが原の死後、政友会は党内における内紛が激化し原の有力な後継者に目されていた床次も党内改革派に同調し高橋是清らと対立するようになっていった。 |
| 大正13年(1924年)1月、清浦内閣が成立すると高橋が憲政擁護の立場から清浦内閣打倒を唱えたが、竹二郎は清浦内閣支持に回り腹心・榊田清兵衛らと共に政友会を脱党、政友本党を結成し総裁に就任した。 |
| しかし党勢は振るわず、大正14年(1925年)に政友会との合同には反対しながらも政友会との提携を図る。 |
| その後、政友本党内部に憲政会に接近する動きが進行し竹二郎自身は消極的ではあったものの後藤新平の仲介によって昭和2年(1927年)、憲政会・政友本党が合同して立憲民政党が結成され竹二郎は党顧問に就任した。 |
| しかし民政党の対中国不干渉政策に反対し昭和3年(1928年)8月に民政党を脱党、新党倶楽部を結党した。 |
| 政友会と新党倶楽部は共同で衆議院議員選挙法改正案を提出した。 |
| 導入されたばかりの中選挙区制から小選挙区制への復帰を狙った内容だったが、政友会・新党倶楽部両党に露骨に有利な選挙区割りであるとして「床マンダー」との罵声を浴び民政党や無産政党の激しい抵抗を受け失敗した。 |
| 昭和4年(1929年)7月に政友会へ復党し、昭和6年(1931年)12月に犬養内閣の鉄道大臣に就任。 |
| 犬養毅首相が五・一五事件で暗殺された後、後継総裁の座を鈴木喜三郎と争い敗れた。 |
| 昭和9年(1934年)7月、岡田内閣成立に当たっては党内の反対を押し切り逓信大臣として入閣し政友会を除名された。 |
| 在任中の昭和10年(1935年)9月8日、心臓病により東京市淀橋区西大久保(現:東京都新宿区大久保)の自宅で死去。 |
| 東京多磨墓地(多磨霊園)、鹿児島市新照院町徳大寺に分けて葬られた。 |
| 「万年首相候補」と呼ばれ首相候補と目されるも余人の不評を買い、政権獲得の夢を遂に果たせなかった。 |
| 一方で鉄道員の福利厚生に意を用い、公傷退職者を救済するため鉄道弘済会の創設に尽力した。 |
| 発会に当たっては、5,000円という多額の寄付をしている。 |