| 222年、呉征伐に出ていた劉備と出会い帰参を果たし、そのまま東征(夷陵の戦い)に参加した『三国志』宗預伝付・廖化伝。 |
| 劉備が崩御すると丞相諸葛亮の参軍となり、のちに督広武に任じられた 。 |
| 蔣琬は諸葛亮から茂才に推挙されると、固辞して廖化らに譲っている『三国志』蔣琬伝。 |
| 後に廖化は陰平太守となり、238年9月、魏の守善羌侯である宕蕈の陣営を攻撃した。 |
| 魏の雍州刺史郭淮は広魏太守王贇・南安太守游奕に軍勢を預け、山の東西から廖化を挟み撃ちさせた。 |
| 軍勢の分散を懸念した魏の明帝曹叡は「別働隊のうち必要でない者は引き揚げて要地を守らせよ」と勅命を下すが、詔勅が届かぬうち、廖化は游奕軍を打ち破り、王贇は流れ矢に当たって死んだ『三国志』明帝紀。 |
| 248年、姜維は北征を行い、西方へ向かって、魏に反乱を起こした羌族の治無戴を出迎えた。 |
| 廖化は成重山に留まって城を築き、羌族たちから人質を取り立てる。 |
| 郭淮は諸将の反対を押し切って軍勢を二手に分け、夏侯覇には沓中へ姜維を追わせ、自分は諸軍を率いて廖化を攻撃した。 |
| 姜維は引き返して廖化を救援し、北征は未発に終わった『三国志』郭淮伝。 |
| 一応郭淮に破られた羌族の治無戴らを迎え入れ、蜀漢に移住させることには成功した。 |
| 翌249年秋、姜維はまた北方へ進出したが郭淮に阻まれて撤退した。 |
| 郭淮が勝利に乗じて羌族を攻撃するため西方へ出かけた隙を突き、三日後、廖化が軍を返して白水の南岸に布陣して鄧艾と対峙した。 |
| もともと廖化が鄧艾を釘付けにして姜維が東進して洮城を奪取する計画であったが、鄧艾に見抜かれ、姜維が洮城に着いたころにはすでに鄧艾が引き返して楯籠っていた『三国志』鄧艾伝。 |
| 廖化は次第に昇進して右車騎将軍・仮節・領并州刺史となり、中郷侯に封ぜられた。 |
| (おそらく張翼と同様259年のこと)果断激烈をもって称えられ、官位は張翼と同等で宗預の上であった 。 |
| 廖化が張翼とともに大将になったとき、人々は「前に王平・句扶あり、後に張翼・廖化あり」と語り合った『華陽国志』劉後主志。 |
| 諸葛瞻が朝政を統括することになったとき、廖化は宗預の屋敷を訪ねて諸葛瞻に挨拶しに行こうと誘ったが、「吾らは七十歳を越えて望むことは一日でも死を遅らせることのみ。 |
| 年少の輩に何を望んでせこせこと訪問せねばならんのだ」と断られている『三国志』宗預伝。 |
| 262年、姜維が軍勢を率いて狄道に進出した際に、「戦いはやめなければ必ず我が身を焼くことになる(『左伝』)。 |
| それは伯約(姜維)のことだ。 |
| 智略は敵に勝らず、力量も賊に劣っているのだから、それを飽くまで仕掛け続けたとしても、どうやって成功させられようか。 |
| 『詩経』に、我より先んじず我より後れず、というのは今日のことだ」と姜維を批判した『三国志』宗預伝付・廖化伝注『漢晋春秋』。 |
| 263年、魏が攻めてきた時、姜維・張翼と共に剣閣を守備して最後まで魏の鍾会軍に抵抗したが、先に成都が陥落したため降伏する(蜀漢滅亡)『三国志』姜維伝。 |
| 264年、洛陽に連行される途上で病死した 。 |
| 宗預との会話を見るに、没年齢は70歳台だった様である。 |