| 第一変期の学術的成果は『今古学考』である。 |
| これは廖平の経学の中で、最も価値あるものとされている。 |
| これは漢代経学を今文と古文とに区別し、その区別される理由を礼制の相違と捉えるものである。 |
| 具体的には、今学(今文学派)は「王制」(『礼記』の一篇)を根拠として立説されているのに対し、古学(古文学派)は『周礼』を根拠としているとするものである。 |
| ただし第一変期の思想は、礼制を以て今古文を「平分」することを求めたもので、今学と古学との尊卑上下を説いたものではない。 |
| 今古文家は各々の奉ずる経文と伝文(経の解釈書)を用いればよいとするに止まる。 |
| では何故に相違が生まれたのかというと、それは今文と古文とで各々奉持した孔子の説が異なるからであるとされる。 |
| まず古文学の奉ずる孔子の説は、孔子早年の説である。 |
| 春秋時代の末期に生れた孔子は、落ちぶれた世の中を如何にすれば立て直せるかに苦心していたが、若い頃の孔子は、まだ周王室に期待する所があった。 |
| そのため、専ら従周(周に従うこと)を力説し、周王室の再建を期待していた。 |
| この時の基本理念を述べたものが『周礼』である。 |
| 一方、孔子は晩年になると、周王室に対してもはや期待することができなくなった。 |
| そのため自ら理想を語りはじめた。 |
| これは因革(周制を因革すること)となって現われたが、その時の要綱が「王制」である。 |
| このように孔子の学説には早年と晩年との二区分があり、各々その主張には変化があるとされる。 |
| しかし弟子の中には、孔子早年の学説を承けただけで、各地に散らざるを得なかった人々がいた。 |
| 一方で、孔子晩年に至るまで側に仕えた弟子もいた。 |
| この中、早年の説を承けた弟子は、地方に帰ってからも孔子早年の説を支持したが、晩年の孔子に接した人々は、孔子晩年の説を支持した。 |
| このため、魯(孔子の故郷、現在の山東省)を中心とする弟子は孔子晩年の説を、燕などの地方に帰っていた弟子は孔子早年の説を支持し、孔子没後、互いに反目するようになったというものである。 |
| 以後、この争いは漢代にまで流れ込み、今文学派は主に博士となり、古文学派は民間に流行したとされる。 |
| この今古文は互いに相容れることなく、峻別して考えなければならない。 |
| しかし両者ともに孔子を根本とするため、何れも等しい価値を持っている。 |
| そのため、学者は各々奉ずる学問を独立して学べばよく、今古文を混合して理解してはならないという点にのみ気を付ければよいということになる。 |
| これを明らかにするために作成された『今古学考』巻上の二十の表は、以後に幾つかの修正を受けつつも、基本的に漢代今古文両派の説明として継承されることになった。 |