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プロフィール
建文帝(けんぶんてい、1377年12月5日-1402年?)は、明朝の第2代皇帝。靖難の変により 永楽帝に簒奪されたため明代では皇帝としての存在が否定されていた。日本ではその在位中の年号「建文」から一般的に 建文帝と称される。
生涯
| 1377年、洪武帝の長子で皇太子であった朱標(懿文太子、興宗)の次男として生まれた。 |
| 生母は朱標の側室・呂氏。 |
| 1392年、父・朱標が死去したため、皇太孫に立てられた。 |
| 1398年、祖父・洪武帝の死去により第2代皇帝に即位した。 |
| 即位後、その地位を確固たるものとするため側近の方孝孺らとともに皇族の力を弱めることを画策し、周王・朱、斉王・朱榑、代王・朱桂をそれぞれ庶民に落とし、湘王・朱柏を焼身自殺させ、岷王・朱楩を漳州に流した。 |
| 建文帝にとっての最大の政敵は燕王・朱棣であり、上記の諸王を廃したのは燕王を粛清するための事前準備であった。 |
| これに危機感を持った朱棣は君側の奸である方孝孺らを殺して朝廷を靖めると称し、軍を起こした(靖難の変)。 |
| 兵力では燕王軍の数万に対し、南京の建文帝軍は50万超と圧倒的に勝っていた。 |
| しかし、燕王軍は北のモンゴルとたびたび戦ってきた実戦経験豊かな朱棣自身が指揮を取ったのに対し、南京軍は有能な将軍を欠いていた。 |
| これは洪武帝が有力な部下に皇位を簒奪されるのを恐れ、藍玉ら建国以来の有能な将軍を次々に誅殺していたためである。 |
| しかし指揮官の質だけでは兵力差を覆すには至らず、内乱は長引いた。 |
| 建文帝はその元号からもわかるように文治政策を重視し、出陣する将軍に対して叔父殺しの汚名を自身に与えぬようにすることと訓示したり、戦闘中に朱棣が死んだという誤報を信じ、将軍を首都に召還したりした。 |
| このような状態であり、建文帝の軍事的な優位は確立しなかったどころか、逆に離反者を招く始末だったとされる。 |
| 1402年、燕王軍は南京を陥落させ、建文帝はその際の混乱により行方不明となった。 |
| 当時は僧に変装して逃亡したとも言われている(先帝の洪武帝から「身の危険があったときに開けるように」と渡された箱を、このとき開けると剃刀と金子が入っていたという)。 |
| ただし、逃亡説は伝説的なものに近く、殺されたか自殺したと考えるのが通説である。 |
人物・逸話
| 永楽帝となった朱棣は自らの簒奪を隠蔽するために建文帝の即位の事実を抹消し、建文の年号もなかったことにした。 |
| その後、明が終わるまで建文帝の正統議論は消えることが無かったが、結局明代には建文帝の名誉は復活しなかった。 |
| 年号のみは、万暦帝によって万暦23年(1595年)に復活された。 |
| 清代の乾隆帝の時代に、恭閔恵皇帝と追諡され、ようやく明の正統皇帝として認められた。 |
| 建文帝の最期に関しては「都城陥るや、宮中より火起り、帝終る所を知らず。 |
| (略)或はいう。 |
| 帝、地道により出亡す」(『明史』「恭閔帝本紀」)とあり、自殺の場面は確認されていないという。 |
| 死後38年たった1440年に雲南から広西にかけて放浪していた僧侶が「我は建文帝なり」と自称した。 |
| 当時の皇帝である正統帝はこの僧侶を逮捕して調査したが、全く根拠の無い偽者であった。 |
| この偽者は牢獄で獄死したという。 |
| 雲南・貴州・四川にかけて、建文帝が皇位を追われた後に僧侶として往来したとされる旧蹟がいくつも存在しているほど、生存説は根強くある。 |
| 靖難の変が起こると将軍らに「朕に叔父殺しの不名誉を成さしめないようにせよ」と訓令したり、敗戦の責任者である李景隆を太子太師の地位を授けたり、側近の斉泰や黄子澄らを敗戦に応じて解任したり復帰させたりと政略の能力には欠けていたが、拷問の廃止や重税の軽減、宦官の重用禁止を実施したため、民からは慕われたという。 |
| 幸田露伴『運命』では名君として描かれ、また逃亡説が採られ数十年の余生を過ごしたとされている。 |
参考文献
| 『明史』(中華書局)。 |
| 『永楽帝』徳間書店。 |
| zh-classical:明惠帝。 |
| zh-yue:明惠帝。 |
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1377年
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洪武帝の長子で皇太子であった朱標(懿文太子... |
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1402年
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燕王軍は南京を陥落させ、建文帝はその際の混... |
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