| 曹叡(明帝)の時代になると、張郃は荊州に配置され、司馬懿とともに孫権の部将の劉阿を破るなど、呉との戦いで功績を挙げたが、228年、蜀(蜀漢)の諸葛亮が祁山に出兵してくると(北伐)、張郃は特進の位を与えられ、対蜀の前線に再度赴くことになった。 |
| 張郃は街亭の蜀軍を攻撃した。 |
| 蜀の前線大将馬謖は砦に頼らず山に布陣していた。 |
| 張郃はまず馬謖軍の水を汲む道を絶ってから攻撃し、これを散々に撃ち破って街亭を奪還した。 |
| これにより戦略上の要所を奪われた蜀軍は撤退した(街亭の戦い)。 |
| 張郃ら魏軍は蜀に降伏した天水・南安・安定の三郡を平定した。 |
| この戦功で張郃は食邑を1000戸加増され、以前と合わせて4300戸となった。 |
| 張郃は関中の諸軍を率いて再び荊州に戻り、司馬懿の呉征伐に参加するよう命令を下されたが、張郃がついたころには冬で水位が下がっており大型船が運行できない状況になっていたことから、張郃は引き返して方城に駐屯した。 |
| 諸葛亮が再び侵攻し、陳倉を攻撃してきた(陳倉の戦い)。 |
| 張郃は明帝より駅馬を支給され、首都に戻された。 |
| 明帝は直々に河南城まで出向いて張郃を宴席でもてなし、南北の軍兵3万とともに護衛のための近衛兵を分け与えた。 |
| 明帝は張郃の援軍が遅れることを心配していたが、張郃は諸葛亮の兵糧事情から、長く対陣できないだろうと予測した。 |
| 張郃は朝も夜も進んで南鄭にたどり着き、諸葛亮は撤退した。 |
| 張郃は首都に召喚され、征西車騎将軍魏志「張郃伝」より。 |
| この官名は他に見えず、征東車騎将軍や征南車騎将軍なども例を見ない。 |
| そのためこの記述については、「誤植である」「征西の命を帯びた車騎将軍という意味である」などの指摘がある。 |
| なお『晋書』宣帝紀では張郃は車騎将軍と記述されている。 |
| に任命された。 |
| 231年、諸葛亮率いる蜀軍がまたも祁山を包囲し陳倉に進出したが、張郃が略陽に到着すると、陳倉方面の蜀軍は祁山まで後退した。 |
| 魏軍は祁山を蜀軍から開放するために、司馬懿が諸葛亮の軍を、張郃が王平の軍を攻撃したが、失敗した。 |
| 諸葛亮率いる蜀の軍勢が祁山から全面撤退を開始した時に、張郃は蜀軍を追撃したが、木門まで来たところで蜀軍と交戦となり、矢が右膝に当たり死去した『魏略』によると、司馬懿は張郃に追撃するように命じたが、張郃は「軍法にも敵を囲む際には必ず一方を開けよとある。 |
| 追い詰められて退却する軍を追撃してはならない」と反発したが司馬懿は聞かず、止むを得ず出撃したところ、蜀軍の伏兵の攻撃に遇い、敵の射撃を受ける中で矢が髀に当たって死去したという。 |
| 『太平御覧』巻291に引く『漢表伝』によれば、蜀軍は樹木の木肌を削って「張郃此の樹下に死せん。 |
| 」と大書し、その両側に強弩数千を伏せておいた。 |
| 追撃軍がこの樹を見つけて不審に思い、張郃自ら上記の文章を読んだ途端、弩兵が一斉射撃し張郃を射殺したという。 |
| ただし、この内容は『史記』孫臏伝で、孫臏が龐涓を誘殺した際と全く同じものであり、物語を引き立たせるために過去の故事を引き写した可能性が高い。 |
| 参照、渡邊義浩『諸葛亮像の変遷』p15(『大東文化大学漢学会誌』37,1998年) |
| 明帝は歴戦の老将である張郃の陣没を大いに悲しんだという(魏志「辛毗伝」が引く『魏略』)。 |
| 壮侯と諡号が贈られた。 |
| 張郃は変化の法則を弁えており、よく陣営を統率し、状況や地形を考慮して計略通りにいかないことはなかったとされる。 |
| そのため、諸葛亮以下蜀の将兵は、皆張郃を恐れたとある。 |
| また儒学者を大事にする面もあり、同郷の卑湛を推挙したりしている。 |
| 陳寿は曹操の在世時に最も功績を立てた武将の一人と賞し、張遼・楽進・于禁・徐晃と同じ巻に張郃の伝を収録している。 |