| それをもって張布の下を訪れ、酔いにまかせて恨み言を吐き、孫休の廃立を口にした。 |
| 張布はこのことを孫休に知らせた。 |
| 孫休は孫綝の権力を恐れ、一族諸共厚遇し懐柔に努めた(「孫綝伝」)。 |
| やがて孫休は孫綝がクーデターを計画していることを知らされ、張布と共に孫綝打倒の計画を練った。 |
| 張布は丁奉を計画の協力者として推挙した(「丁奉伝」)。 |
| 丁奉の進言で、孫綝が祭りのため参内してきたときに討つことが決まったため、12月、孫休の命令で張布は丁奉と共に兵士に命じて孫綝を捕らえさせ、即日処刑した。 |
| 孫綝を討ち取った功績で中軍督が加官された。 |
| 弟の張惇には都亭侯の爵位と兵士300人が与えられ、その張恂は校尉に任じられた。 |
| 262年冬10月、濮陽興が丞相に任命された。 |
| 孫休は濮陽興・張布と個人的に親しかったこともあり、彼等に国政を任せ自身は学問に興じるようになっていった。 |
| 濮陽興が軍事と行政を取り仕切る一方で、張布は宮中を掌るようになった。 |
| 張布は権力を掌握すると、礼に外れた行動が多くなった。 |
| あるとき、孫休が博士祭酒の韋昭と博士の盛沖を招いて、学問の話相手を務めさせようとしたところ、張布は自身の過失が彼等の口から明らかになり、国政を動かせなくなることを恐れ、その登用に反対した。 |
| 孫休は、張布の行いについては、韋昭達の口から聞かずとも把握しており、隠す必要はないと窘めた。 |
| 張布は陳謝したが、学問が政治の妨げになるとしてあくまで反対を崩さなかった。 |
| 孫休は張布が、かつての孫綝と同様の行いをしていると批判した。 |
| 張布ははいつくばって叩頭した。 |
| 孫休は張布に対する信任は変わらないと張布を宥め、終わりをよくするよう励ました。 |
| 孫休は結局、古くから付き合いのある張布の気持ちを慮って、韋昭達の登用を取りやめ、書物の解釈議論をすることもしなくなった。 |
| 264年、孫休は死去した。 |
| 孫休は後継ぎは自分の息子にするように遺言したが、孫休の遺児が幼少であったので、国難に対処できないと判断した張布は、左典軍であった万彧の薦めに従い、濮陽興と図り、朱夫人の了承も得て、烏程侯の孫皓(孫和の子)を皇帝として擁立した。 |
| これにより驃騎将軍・侍中となった。 |
| しかし孫皓が即位後まもなく驕慢となり酒と女色に溺れるようになると、濮陽興と共に擁立したことを後悔したという。 |
| そのことを知った万彧の讒言により、11月に濮陽興と共に広州へ流罪となった。 |
| 移送中に殺害され、残りの一族も皆殺しにされたという。 |
| 孫皓は張布を特に憎んでおり、後に寵臣の何定を悪事を働いたとして誅殺したとき、悪事が張布と似ているという理由で、名を何布と改めさせた。 |
| 一方、張布の娘の一人が美人であったため、自身の後宮に入れて寵愛したが、父を殺された恨み言を言われたため殺害した。 |
| しかし、その美貌は惜しかったため、既に馮朝の子である馮純に嫁いでいた娘を奪って強引に後宮に入れ、左夫人として寵愛し、彼女が亡くなった後は豪勢に弔い、悲嘆のあまり半年も後宮に引きこもり、表に姿を見せなかったという(「孫和何姫伝」が引く『江表伝』)。 |