| 207年、荊州の劉表の部下である江夏太守黄祖の陣営から、甘寧が投降してきた。 |
| 甘寧は孫権に西上して黄祖を討つことを勧めた。 |
| 張昭は反対したが、甘寧に反論され、孫権もまた甘寧の意見に賛同した(「甘寧伝」)。 |
| 208年の赤壁の戦いでは、曹操軍の圧倒的兵力の前に参謀の秦松ら多くの家臣達とともに、曹操への降伏を進言している。 |
| このときは劉備と同盟し主戦論を主導した周瑜が軍を率いて曹操を退けた。 |
| 後に孫権が劉備の推薦で車騎将軍に任命されると、その軍師となった。 |
| 周瑜の死後、孫権は魯粛を重用するようになるが、張昭は魯粛を嫌い信任しないよう孫権に忠告した(「魯粛伝」)。 |
| 長年の曹操との抗争の末、孫権は217年には曹操に降伏し、臣従することになる。 |
| 221年、孫権が魏により呉王に封じられると、使者の刑貞が呉を訪問した。 |
| 邢貞は尊大な態度で臨んだが、張昭は強くこれを咎めた。 |
| 張昭は綏遠将軍となり、由拳侯に封じられた。 |
| 張昭は孫邵、滕胤、鄭礼と共同して、朝廷の儀礼制度を整備したという(『呉録』)。 |
| 孫権が呉王となったとき、群臣は張昭を初代丞相に推した。 |
| しかし、孫権は丞相は百官の取りまとめなど責務が重要であり、張昭を丞相にすることは彼を優遇することにはならないとして、孫邵を丞相に任命した。 |
| 孫権は、太子の孫登のために、張昭に命じて『漢書』を講義させようとしたが、考え直して張昭の少子の張休に講義をさせることにした。 |
| この間、張温という人物が評価を集め、太常の顧雍や蜀の丞相諸葛亮など多くの者達が彼を称賛した。 |
| 張昭は張温のことを自分の後を引き継げる人材として期待をかけたが、彼は後に孫権に疎まれ失脚した(「張温伝」)。 |
| 225年に孫邵が死ぬと、再び張昭が推されたが、孫権はこれを退け、顧雍を後任とした。 |
| 孫権はこのときは、「張昭は剛直な性格なので、感情的な行き違いが起こるだろうから、張昭を丞相にすることは彼のためにならない」と、張昭を丞相に任命しない理由を述べた。 |
| 孫権は酒好きで、しばしば酒宴を催し、張昭もそれに同席した。 |
| あるとき、武昌での宴会で、孫権は酔いつぶれた配下に水をかぶせ、台から転げ落ちるまで飲ませようとしたが、張昭はものもいわず立ち去った。 |
| 孫権が後を追い、「皆で一緒に楽しもうとしているだけなのに、なぜあなたは腹を立てるのか」と言うと、張昭は「むかし紂が糟丘酒池を作り、長夜の飲(さかもり)をいたしましたが、その時にも楽しみのためにやっているのだと考え、悪事を考えているなどと考えてはおりませんでした」と反論した。 |
| 孫権は恥じて宴会を中止した。 |
| その他、孫権と神仙についての話をしているところを虞翻にからかわれた逸話や(「虞翻伝」)、諸葛恪に弁舌で手玉に取られた逸話もある(「諸葛恪伝」)。 |
| 229年、孫権が皇帝になったとき、張昭は高齢で病気がちであるとして官位と領地と兵を返上した。 |
| 孫権は改めて張昭を三公に次ぐ輔呉将軍に任命し、婁侯に封じ、一万戸の食邑を与えた。 |
| 一説には孫権が帝位につき百官を呼び集めた席で、帝位に即位できたのは周瑜のおかげだと述べた後、同意して周瑜を称賛しようとした張昭に対して、「もしあのとき、張公の(赤壁の戦いで曹操に降伏する)進言を聞いていたら、我は帝位に即位するどころか、今頃は乞食になっていた」と皮肉り、張昭は酷く恥じ入ったという(『江表伝』)。 |
| 張昭は参内することも稀になったことから、家において著作に励み、『春秋左氏伝解』や『論語注』などを著したという。 |
| あるとき、孫権が衛尉の厳畯に幼い頃に覚えた書を暗誦するよう求めた。 |
| 厳畯は求めに応じ『孝経』の冒頭を暗誦したが、張昭はその場に割って入り、より主君の前の場で適当だと考える部分を暗誦し、孫権に示した。 |
| 人々は張昭を称賛した。 |
| 妻を亡くした長男の張承のために、諸葛瑾の娘を後添えとして迎えてやった。 |
| また、甥の張奮が歩騭の推薦で軍務に就いたときは、これを喜ばなかった。 |