| 建安16年(211年)、曹操配下の鍾繇が張魯征伐を名目に軍を動かしたところ、関中の有力者の韓遂・馬超らが自分達を攻撃するつもりではないかと疑心暗鬼になり、これに立ちはだかった(潼関の戦い)。 |
| 曹操は両者を破り、関中を平定したが、張魯にまで攻撃の手は及ばなかった同年、孫権の配下の呂岱が兵士2000人を率いて西に遠征し、漢中の張魯を漢興郡のカン城に誘い出そうとしたが、張魯は警戒し道を塞いだため失敗し、孫権の命令により帰還したという(「呂岱伝」が引く『呉書』)。 |
| 韓遂・馬超の乱を避けて、関西の住民より数万の家族が子午道を通って張魯の元に避難した。 |
| また、馬超らと共に曹操に反乱した劉鳴雄、程銀、侯選といった人物も漢中に亡命してきた。 |
| 馬超が隴上で再起を図ったときは、張魯は援軍として将軍の楊昂を派遣している(「楊阜伝」)。 |
| 再び敗れた馬超は一族や部下の龐徳らと共に漢中の張魯の元に亡命してきた。 |
| 張魯は馬超に娘を娶らせようとしたが、ある近侍が主に対して「身内を愛せない人物が増して他人を愛することなどできましょうか」と諫言したために取り止めた。 |
| 馬超は張魯から兵士をたびたび借りたが失敗し、張魯の将軍の楊白らは馬超を批判したため、馬超は武都のテイ族の居住地に出奔した(「馬超伝」が引く『典略』)。 |
| 残存した龐徳などは引き続き張魯の庇護を受けたが、後に張魯が曹操に降伏したとき、曹操の命によって馬超の子の馬秋は処刑されている(「龐徳伝」、「馬超伝」)。 |
| これより前、劉璋は曹操や張魯の脅威に対抗するため、荊州から劉備を呼び寄せて張魯を征伐させようとしたが、益州に入った劉備は劉璋と仲違いを起こし合戦となり(入蜀)、劉備が優勢となり劉璋の本拠である成都を包囲していた。 |
| 馬超は劉備の誘いを受けて軍勢を引き連れて劉備の元に出奔した。 |
| 建安20年(215年)3月「武帝紀」、ついに曹操は大軍を率いて散関から武都を通り漢中に攻め込んで来た。 |
| 張魯は降伏しようと考えていたが、弟の張衛はこれに反対して出陣する。 |
| 秋7月、陽平において「武帝紀」、張衛は初戦こそ曹操軍を撃退したものの、程なくして敗退(陽平関の戦い)。 |
| 張魯はいよいよ降伏しようとしたが、閻圃の「追い詰められて降伏しては軽く見られる」との進言を受け入れ、巴中に逃走した。 |
| この際、張魯は財宝の入った蔵を「国家のものだから」と焼き払わずに封印した。 |
| 曹操は南鄭(漢中)を平定し、財宝を無傷で手に入れることができた。 |
| 巴・漢はすべて曹操に降伏したので、曹操は漢寧郡を漢中郡に戻し、漢中郡から安陽・西城の2県を分けて西城郡とし、錫と上庸の両県を分けて上庸郡とし、それぞれに太守と都尉を置いて統治させた(「武帝紀」)。 |
| 9月には、巴の七豪族のうち、朴胡と杜濩が曹操に降伏をした。 |
| 曹操は張魯の神妙な態度にかねてから感心していたので、使者を送って巴中にいる張魯を説得したので、張魯は家族を引き連れて降伏した。 |
| このとき劉備も張魯を迎えとろうとして、黄権を巴中に派遣していたが、曹操に先んじられて果たせなかったという(蜀志「先主伝」)。 |
| そして張魯を鎮南将軍に任じて、閬中侯に封じて賓客として処遇した。 |
| 張魯の5人の息子もそれぞれ侯に取り立てた。 |
| また、張魯の娘は曹操の第9子である曹宇に嫁いだ。 |
| 『真誥』第四巻によると、張魯は建安21年(216年)に死去し、鄴の東方に埋葬された。 |
| 甘露4年(259年)に水害で棺が開いたとき、死骸は腐敗せず生きているようだったという。 |