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建武
後漢の光武帝劉秀の治世に行われた最初の元号。25年-56年。建武32年(56年)は4月に改元され、建武中元元年となった。この元号は、漢王朝を再興した際に初め... |
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足利尊氏
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年-1358年)。足利将軍家の祖。 |
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楠木正成
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍... |
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新田義貞
鎌倉時代末から南北朝時代にかけて活躍した御家人・武将。正式な名は源義貞(みなもとのよしさだ)。河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、... |
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大覚
先祖
南北朝時代の日蓮宗の僧。名は妙実。近衛家の出と言われ、初めは真言宗の僧であった。1313年(正和2年)京都布教中の日像の説法に共感し、宗派を改め弟子とな... |
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後宇多天皇
鎌倉時代の第91代天皇(在位:文永11年1月26日(1274年3月6日)-弘安10年10月21日(1287年11月27日))。諱は世仁(よひと)。 |
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護良親王
対立
鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。また公家の藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。興良... |
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光明天皇
南北朝時代の北朝第2代天皇である。諱を豊仁(ゆたひと)という。 |
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後二条天皇
鎌倉時代の第94代天皇(在位:正安3年1月21日(1301年3月2日)-徳治3年8月25日(1308年9月10日))。諱は邦治(くにはる)。 |
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鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した、備前国児島郡出身の武将。軍記物語の『太平記』に登場する。通称は、三郎、備後三郎で、備後守とも呼ばれるこ... |
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名和長年
日本の南北朝時代の武将。伯耆守。又太郎長高。父は名和行高。子に義高・基長・高光、一族に石山城(岡山城)を最初に築いた上神高直がいる。伯耆(キ)守で... |
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足利義満
足利義満(あしかがよしみつ)は室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年-1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。封号は日本国王。... |
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邦良親王
先祖
大覚寺統の後二条天皇の第一皇子。叔父である後醍醐天皇の皇太子となるが即位することなく薨去する。木寺宮家の祖となった。名前の読みが2種類あることについ... |
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後村上天皇
南北朝時代の第97代、南朝第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日)-正平23年/応安元年3月11日)。諱は初め義良(のりよし/のりなが)、後... |
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光厳天皇
南北朝時代の北朝初代天皇とされている(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日)-元弘3年/正慶2年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。 |
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北畠親房
北畠親房(きたばたけちかふさ、正応6年1月29日(1293年3月8日)-正平9年/文和3年5月10日(1354年6月1日))。南北朝時代の公卿。著書『神皇正統記』で名高い。 |
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北畠顕家
南北朝時代の公家・武将。北畠家は村上源氏の庶流。准大臣北畠親房の長男。従二位・権中納言。贈従一位・左大臣。 |
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森茂暁
著者情報 森 茂暁 1949年長崎県生まれ。1975年九州大学大学院文学研究科博士課程中途退学。九州大学文学部助手、京都産業大学助教授、山口大学教授を経て、現... |
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足利高氏
又太郎といいました。高氏の一時は北条高時から一字をもらったものです。元服してから1333年建武の新政の時には、28才になっていたと思います。この間の足利... |
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楠木正行
楠木正行(くすのきまさつら)は南北朝時代の武将。楠木正成の嫡男。「大楠公」と尊称された正成に対して「小楠公(しょうなんこう)」と呼ばれる。前名は正... |
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プロフィール
- 後醍醐天皇とは
- 生涯
- 即位
- 倒幕
- 流罪、そして復帰
- 建武の新政
- 足利尊氏の離反
- 南北朝時代
- 系譜
- 論評
- 諡号・追号・異名
- 后妃・皇子女
- 皇子の名の読み
- 在位中の元号
- 陵墓・霊廟
- 参考文献
- 登場作品
- 関連サイト
後醍醐天皇(ごだいごてんのう、正応元年11月2日(1288年11月26日)-延元4年/暦応2年8月16日(1339年9月19日)は、第96代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日)-延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。諱は尊治(たかはる)。
生涯
| 後醍醐天皇は、大覚寺統の後宇多天皇の第2皇子。 |
| 生母は内大臣・花山院師継の養女、談天門院・藤原忠子(実父は参議・五辻忠継)。 |
| 正応元年11月2日(1288年11月26日)に誕生し、乾元元年(1302年)に親王宣下。 |
| 嘉元2年(1304年)に大宰帥となり、帥宮(そちのみや)といわれた。 |
即位
| 徳治3年(1308年)に持明院統の花園天皇の即位にともない皇太子に立てられ、文保2年2月26日(1318年3月29日)に花園天皇の譲位を受けて31歳という壮齢にて践祚、3月29日(4月30日)に即位。 |
| 即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。 |
| 後宇多法皇の遺言状に基づき、はじめから後醍醐天皇は兄後二条天皇の遺児である皇太子・邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎとして位置づけられていた。 |
| このため、後醍醐天皇が自己の子孫に皇位を世襲させることが否定された(ただし、後醍醐天皇の子孫が世襲親王家を立てることは認められており、邦良親王系統の皇位継承者が幼少の時の中継ぎや断絶時の後醍醐天皇系からの皇位継承については考慮されていたとする見方がある)。 |
| 後醍醐天皇の治天の君就任も想定されておらず、後醍醐天皇は不満を募らせた。 |
| それが後宇多法皇の皇位継承計画を承認し保障している鎌倉幕府への反感につながってゆく。 |
| 元亨元年(1321年)、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される。 |
| 前年に邦良親王に男子(康仁親王)が生まれて邦良親王への皇位継承の時期が熟したこの時期に後醍醐天皇が実質上の治天の君となったことは大きな謎とされ、後宇多法皇の仏道修行説、法皇の圧力による退位を警戒した後醍醐天皇による圧迫説、持明院統側からの皇位委譲要求をかわすための大覚寺統側による政治的延命工作説などが存在する。 |
倒幕
| 正中元年(1324年)、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、六波羅探題が天皇側近日野資朝らを処分する正中の変が起こる。 |
| この変では、幕府は後醍醐天皇には何の処分もしなかった。 |
| 天皇はその後も密かに倒幕を志し、醍醐寺の文観や法勝寺の円観などの僧を近習に近づけ、元徳2年(1329年)には中宮の御産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、興福寺や延暦寺など南都の寺社に赴いて寺社勢力と接近する(ただし、有力権門である西園寺家所生の親王は邦良親王系に対抗する有力な皇位継承者になり得るため、実際に御産祈祷が行われていた可能性もある)。 |
| 大覚寺統に仕える貴族たちはもともと邦良親王を支持する者が大多数であり、持明院統や幕府も基本的に彼らを支持したため、後醍醐天皇は次第に窮地に陥ってゆく。 |
| そして邦良親王が病で薨去したあと、持明院統の嫡子量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられ、退位の圧力はいっそう強まった。 |
| 元弘元年(1331年)、再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。 |
| はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。 |
| これを元弘の乱と呼ぶ。 |
流罪、そして復帰
| 幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子・量仁親王(光厳天皇)を即位させた。 |
| 捕虜となった後醍醐天皇は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年/正慶元年(1332年)隠岐島に遷った(流された)。 |
| この時期、後醍醐天皇の皇子・護良親王、河内国の楠木正成、播磨国の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。 |
| このような情勢の中、後醍醐天皇は元弘3年/正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆国船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。 |
| これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が天皇方に味方して六波羅探題を攻略。 |
| その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。 |
建武の新政
| 帰京した後醍醐天皇は、自らの退位と光厳天皇の即位及び在位を否定し、光厳朝で行われた人事を全て無効にするとともに幕府・摂関を廃していわゆる建武の新政を開始する。 |
| また、持明院統のみならず大覚寺統の嫡流である邦良親王の遺児たちをも皇位継承から外し、本来傍流であったはずの自分の皇子恒良親王を皇太子に立て、父の遺言を反故にして自らの子孫により皇統を独占する意思を明確にした。 |
| 建武の新政は表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。 |
| 性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする大内裏建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。 |
| 武士勢力の不満が大きかっただけでなく、公家達の多くは政権に冷ややかな態度をとり、また有名な二条河原の落書にみられるようにその無能を批判され、権威を全く失墜した。 |
| また、倒幕に功績のあった護良親王が征夷大将軍の地位を望んだために親王との確執が深まり、同じく天皇と対立していた尊氏の讒言を受けて親王を鎌倉に配流している。 |
足利尊氏の離反
| 建武2年(1335年)、中先代の乱の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えるなど新政から離反する。 |
| 後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破る。 |
| 尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で体制を立て直し、光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る。 |
| 楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが後醍醐天皇はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。 |
| しかし、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れる。 |
南北朝時代
| 足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、建武式目を制定して幕府を開設する。 |
| 後醍醐天皇は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。 |
| 後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を陸奥国へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。 |
| しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年/暦応2年(1339年)8月15日、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御した。 |
| 享年52(満50歳)。 |
| 摂津国の住吉行宮にあった後村上天皇は、南朝方の住吉大社の宮司の津守氏の荘厳浄土寺において後醍醐天皇の大法要を行う。 |
| また、尊氏は後醍醐天皇を弔い、京都に天竜寺を造営している。 |
系譜
| 大覚寺統の後宇多天皇の皇子。 |
| 母は内大臣花山院師継の養女、談天門院・藤原忠子(実父は参議五辻忠継)。 |
論評
| 同時代では、早くも天皇側近の北畠親房が『神皇正統記』において保守的公家観から新政策への批判を加えている。 |
| 近世においては後醍醐天皇を不徳の君であるとする評価が定着し、徳川光圀によって編纂が開始された『大日本史』においては南朝を正統とする立場から後醍醐天皇を不徳とする認識が見られ、新井白石は『読史余論』において、王朝政治における累代の天皇の失徳が武家政権成立の過程であるとする歴史観の中で、後醍醐天皇をその末尾に位置付けている。 |
| 頼山陽の『日本外史』では後醍醐天皇批判の一方で即位直後の親政に関しては肯定的評価をしている。 |
諡号・追号・異名
| 後醍醐天皇は、延喜の治と称され天皇親政の時代とされた醍醐天皇の治世を理想としていた。 |
| 天皇の諡号や追号は通常死後におくられるものであるが、醍醐天皇にあやかって生前自ら後醍醐の号を定めていた。 |
| これを遺諡といい、白河天皇以後しばしば見られる。 |
| また、醍醐天皇は宇多天皇の皇子であり、後醍醐天皇は自己を父・後宇多天皇の正統な後継者として位置づける意味で命名したとする説もある。 |
| なお「後醍醐」は分類としては追号になる(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。 |
| 崩御後、北朝では崇徳院・安徳院・顕徳院・順徳院などとのように徳の字を入れて院号を奉る案もあったが、生前の意志を尊重して南朝と同様「後醍醐」とした。 |
| あるいは、その院号は治世中の年号(元徳)からとって「元徳院」だったともいう。 |
皇子の名の読み
| 「なが」説の根拠は、一条兼良が著したと伝える『諱訓抄』の写本で「護良」に「モリナカ」と読み仮名が振ってあることなどがあげられる。 |
| 明治維新後の南朝忠臣顕彰の風潮に乗って、南朝関係者を祭神とする神社(建武中興十五社)が次々と建立され、明治2年(1869年)には護良親王を祀る鎌倉宮、明治5年(1872年)に宗良親王を祀る井伊谷宮、明治17年(1884年)に懐良親王を祀る八代宮、明治23年(1890年)に尊良親王を祀る(明治25年(1892年)に恒良親王を合祀)金崎宮の4つの神社が創建されたが、これらの神社では、すべて祭神名を「なが」と読むことで統一している。 |
| また、大正4年(1915年)に宮内省書陵部が職員のための内部資料として編纂した『陵墓要覧』でも、たとえば「護良親王墓」に「もりながしんのうはか」との読み仮名を振っている。 |
| 一方、大正時代の頃(1920年代)から歴史学者らの研究で「良」を「よし」と読む説が発表されていた。 |
| 大正9年(1920年)には八代国治、昭和14年(1939年)には平田俊春が、史料的根拠を示して「よし」と読むべきことを指摘している。 |
| その後「よし」説の根拠として挙げられている史料には、八代と平田が指摘したものも含めて、次のようなものがある森茂暁『皇子たちの南北朝後醍醐天皇の分身』〈中公文庫、2007年〉ISBN978-4-12-204930-7永積安明・上横手雅敬・桜井好郎『太平記の世界変革の時代を読む』(日本放送出版協会、1987年)ISBN4-14-008561-4 上横手雅敬執筆部分。 |
| #『諱訓抄』の写本は多く残されているが、「モリナカ」の読みを載せるものは天和元年(1681年)に写されたものが最古であり「モリナカ」の読み仮名が一条兼良の生きた室町時代まで遡れるものかどうか疑問が残る。 |
| #応永15年(1408年)に書写された「人王百代具名記」(茨城県那珂市の常福寺所蔵)では「後村上院」の名を「儀良」と記して「良」の字に「ヨシ」と振り仮名をしている。 |
| #後醍醐天皇と政権を争った光厳天皇の曾孫後崇光院自筆の『増鏡』の写本(尊経閣文庫所蔵)では「世良」に「ヨヨシ」「尊良」に「タカヨシ」と振り仮名をしている。 |
| #永正年間(1510年前後)に書写された『増鏡』の写本(学習院大学付属図書館所蔵)では「尊良」の名を平仮名で「たかよし」と書いている。 |
| #寛永初年(1625年前後)に書写された『神皇正統記』の写本(青蓮院本。 |
| 代表的な歴史百科事典である『国史大辞典』(吉川弘文館)において、たとえば護良親王の項目では、「もりよししんのう」で記事を立てて解説を記し、「もりながしんのう」の項には「⇒もりよししんのう」と記載している。 |
| 平成20年度(2008年度)現在、高等学校の日本史B(高校の日本史の授業には、近現代史のみを扱うAと、古代から現代までの通史を扱うBとがある)の教科書で、文部科学省の検定に合格しているものは11種ある。 |
在位中の元号
| 文保(1318年2月26日)-1319年4月28日。 |
| 元応1319年4月28日-1321年2月23日。 |
| 元亨1321年2月23日-1324年12月9日。 |
| 正中1324年12月9日-1326年4月26日。 |
| 嘉暦1326年4月26日-1329年8月29日。 |
| 元徳1329年8月29日-1331年8月9日。 |
| 元弘1331年8月9日-1334年1月29日。 |
| 建武1334年1月29日-1336年2月29日。 |
| 延元1336年2月29日-(1339年8月26日)。 |
陵墓・霊廟
| 250px|thumb|後醍醐天皇塔尾陵。 |
| 陵墓は奈良県吉野郡吉野町吉野山にある如意輪寺内の円墳の塔尾陵(とうのおのみささぎ)である。 |
| 後醍醐天皇が紫衣を許して官寺とした總持寺(神奈川県横浜市鶴見区)には、後醍醐天皇の尊像、尊儀などを奉安する御霊殿がある。 |
参考文献
| 平泉澄『建武中興の本義』(至文堂、1934年9月/新版日本学協会、1983年5月)。 |
| 森茂暁『後醍醐天皇南北朝動乱を彩った覇王』(中公新書、2000年)ISBN4121015215。 |
| 河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007年)ISBN978-4-642-02863-9。 |
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1288年
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後醍醐天皇は、大覚寺統の後宇多天皇の第2皇... |
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