| 幕末の難局にも関わらず、家定は就任直後から後継問題が浮上するほど体が弱く、一説には脳性麻痺だったとも言われ、将軍として指導力を示すことが出来なかった。 |
| カステラを作ったりするなど、菓子作りが趣味だったとされている。 |
| また煮豆やふかし芋などを作り、自分だけで食べずに、時には家臣たちに振る舞まっており、松平慶永(春嶽)から「イモ公方」などと呼ばれた上、「凡庸の中でも最も下等」とまで評されたと伝わる。 |
| しかし、明治時代に幕臣であった朝比奈昌広は「凡庸だ暗愚だと言われているが、それは越前(松平慶永)や薩摩(島津斉彬)らと比較するからであり、300諸侯の中には家定公より劣る大名も多くいたはずである」と弁護している。 |
| 猜疑心が強く人前に出ることを極端に嫌ったとも伝えられており、自分でよく調理をしたのは暗殺を恐れての事であった。 |
| 家定が西之丸の祖父・家斉を訪れた際、出された食事に毒が入っているかもしれないと考えて箸をつけなかったという逸話も残っており、これは後に家定が家斉と不仲であったという俗説を生んでいる。 |
| アメリカ公使ハリスの日記によると、ハリスと引見した際、言葉を発する前に頭を後方に反らし、足を踏み鳴らすという行動をとったとある。 |
| これは脳性麻痺の典型的な症状と言われる篠田達明「徳川将軍家十五代のカルテ」新潮社。 |
| しかし、家定はハリスに対して「遥か遠方より使節をもって書簡の届け来ること、ならびにその厚情、深く感じ入り満足至極である。 |
| 両国の親しき交わりは幾久しく続くであろう合衆国プレジデントにしかと伝えるべし」と告げ、将軍らしい態度も見せた。 |
| 一方、立派な返答をしたのは床下に控えていた代理であり、足を踏み鳴らしたのは代理に対して合図を送っていたという説もある。 |
| 庭の鳥を追いかけるなどしたというのは朝野新聞の記事から派生した訛伝である。 |
| 天璋院(島津斉彬の養女・篤子、のち近衛忠煕の養女・敬子)の入輿について、家定や大奥が長命で子沢山だった祖父・家斉にあやかって薩摩出身の夫人を望んだことが明らかになっている(家斉の御台所広大院は島津重豪の娘)。 |
| こうして幕府からの意向を受けた島津斉彬が、この縁組を一橋慶喜擁立のための政略に役立てたとされる。 |
| 一方で「天璋院入輿は本来継嗣問題と無関係」とする説もある芳即正『島津斉彬の証言に聞く』1994.04『日本歴史』551。 |
| 大樹寺に収められている各将軍の位牌が、遺骨から判明したそれぞれの身長と同じ高さであるとする説から、家定の身長については149cm程度であったと推測される。 |
| また、父・家慶の位牌が153cmで実際の身長より誤差が1cmあまりであることから、家定は150cmであったとも考えられる。 |
| 生来病弱で、3人の正室・側室は懐妊しなかった。 |
| また、継室たる御簾中一条秀子は、極めて矮小な体躯をしており、立っていても首が襖の引き手の下にあったという。 |
| 一説に彼女は、片足が短いため跛行して歩いたと伝えられる。 |
| 自らの後継者候補となった徳川慶喜とも不仲であった。 |
| 家定に影響を及ぼした大奥の意向を反映したものと考えられているが、側小姓であった朝比奈閑水(後に外国総奉行・町奉行・勘定奉行を務める)の回想によると「単に自分(=家定)より慶喜の方が美形であったから」という私怨に近いものであった。 |
| なお、慶喜は(生母貞芳院が家慶の正室浄観院の姉妹にあたるので)義理の従弟である。 |
| 「疾ありて政をきくことあたはず、ただ廷中わずかに儀容を失はざるのみなり」とある(安政紀事)。 |
| 家定は初め家祥(いえさち、いえさき)と名乗っていたが将軍就任に際して家定に改名している。 |
| これは名に偏のついた江戸幕府の将軍(家綱、綱吉、家継、家治)には実子がないか、いても早世したため縁起が悪いとされたためだという。 |
| しかし家定には結局実子が出来ることはなかった。 |
| 将軍の一字(偏諱)を拝領する家柄は固定していたので、元来「定」の字を使用していた大名が遠慮して改名するという現象を生じた(例:久松松平氏)。 |