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つながりの強いひと
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徳川家光
父
江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年-1651年)である。2代将軍秀忠の次男(嫡男)で、母は浅井長政の娘で織田信長の姪にもあたる江であった。乳母は春日局(福... |
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徳川徳松、鶴姫。俗に、柳沢吉里が綱吉の落胤であるといわれるが、実際には疑わしい。 |
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保科正之
江戸時代の大名。会津松平家初代、陸奥会津藩初代藩主。江戸幕府第3代将軍徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍家綱を補佐し、幕閣に重きをなした。 |
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竹千代
父
竹千代 プロフィール ブログ なう ピグの部屋 ペタをつける アメンバーになる メッセージを送る プレゼントを贈る 最新のなう 「薬剤のパワ... |
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徳川秀忠
安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府第2代征夷大将軍。 |
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松平信綱
江戸時代前期の大名で川越藩主。老中。官位名入りの松平伊豆守信綱の呼称で知られる。 |
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徳川吉宗
江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は紀州藩第5代藩主をつとめ、さらにそれ以前は越前国葛野藩主であった。 |
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宝樹院
父
宝樹院(ほうじゅいん、元和7年(1621年)-承応元年12月2日(1653年1月1日))は江戸幕府3代将軍徳川家光の側室、4代将軍徳川家綱の生母。本名は蘭。別名、楽... |
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徳川慶喜
江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年‐1868年)。江戸幕府最後の将軍で征夷大将軍に任じられた最後の人物。御三卿一橋徳川家の第9代当主として将軍後見職... |
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上野寛
上野寛奈 プロフィール ブログ なう ピグの部屋 アメンバーになる メッセージを送る プレゼントを贈る プロフィール ニックネーム 上野寛奈 ... |
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徳川家慶
江戸幕府の第12代征夷大将軍(在位:1837年-1853年)である。11代将軍徳川家斉の次男で、母は側室の楽(香琳院)であった。 |
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阿部忠秋
江戸時代前期の下野壬生藩・武蔵忍藩藩主。忠秋系阿部家初代。徳川家光・家綱の2代にわたって老中を務めた。同じく老中の阿部重次は従兄にあたる。「細川頼之... |
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由比正雪
由比正雪公演の新聞記事
<平成13年9月3日(月)>
江戸初期に徳川幕府にち向かった「由比正雪公を
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菩提樹院... |
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矢島局
江戸時代の幕府4代将軍・徳川家綱の乳母である。父は八島氏。 |
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太田道灌
室町時代の武将。武蔵守護代、扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、... |
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プロフィール
- 徳川家綱とは
- 将軍就任
- 治世前半
- 治世後半
- 人物・逸話
- 官歴
- 偏諱を受けた人物
- 徳川家綱が登場する作品
徳川家綱(とくがわいえつな)は江戸幕府の第4代将軍(在職:慶安4年(1651年)-延宝8年(1680年))である。父は第3代将軍 徳川家光、母は側室のお楽の方( 宝樹院)で、 竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。
将軍就任
| 寛永18年(1641年)8月3日、第3代将軍・徳川家光の長男として江戸城本丸に生まれる。 |
| 父の家光は、生まれた時から家綱を自らの後継ぎに決めていたという。 |
| その理由は、家光と弟の忠長との間で世継争いがあったためとも、ようやく生まれた待望の男児だったためともいわれている。 |
| 正保元年(1644年)12月、名を「家綱」と改め、正保2年(1645年)4月に元服する。 |
| 慶安3年(1650年)9月に西の丸へ移る。 |
| 慶安4年(1651年)4月20日、家光が48歳で薨去すると、家綱は8月18日(10月2日)、江戸城において将軍宣下を受けて第4代将軍に就任し、内大臣に任じられた。 |
| 幼年で将軍職に就いたことにより、将軍世襲制が磐石なものであることを全国に示した。 |
| 12月には本丸へ移る。 |
| この前例を受け、家綱以後(徳川慶喜を除く)の将軍宣下は京都ではなく、江戸で行われることとなる。 |
治世前半
| 将軍家を継承した時は僅か11歳に過ぎなかったため、家光死去の直後に浪人の由井正雪や丸橋忠弥らによる討幕未遂事件(慶安の変)が起こるなどして政情不安に見舞われた。 |
| しかし叔父の保科正之や家光時代からの大老酒井忠勝、老中の松平信綱、阿部忠秋、酒井忠清ら寛永の遺老といわれる名臣の補佐により、この危難を乗り越えた。 |
| このため、以後は29年間にわたる安定政権をみたしかし、政治的には安定したものの、家綱の治世後半になると経済の窮乏や百姓一揆の増加などを招いた。 |
| また、後に父の乳母・春日局の孫稲葉正則や側衆の久世広之と土屋数直も幕閣に加わった。 |
| 家綱の時代には幕府機構の整備がさらに進められた。 |
| 特に保科正之を主導者にして外様大名などに一定の配慮を行ない、末期養子の禁を緩和し、大名証人制度の廃止や殉死禁止令が出されるなど、これまでの武力に頼った武断政治から文治政治への政策切り替えが行われた。 |
| 万治2年(1659年)4月には左大臣に任じられるのを辞退している。 |
| 寛文4年(1664年)には1万石以上の大名に対する領知朱印状を、翌寛文5年(1665年)には公家や寺社を対象とした領知目録を交付している(寛文印知)。 |
治世後半
| 寛永の遺老と呼ばれた面々は、寛文年間に入ると相次いで死去したり、老齢で表舞台から隠退するなどした。 |
| このため、彼らに代わって寛文6年(1666年)には酒井忠清が大老に就任し、治世後半の寛文・延宝期には忠清の主導の下、老中合議制と家綱自身の上意により幕政が運営された。 |
| 治世後半には家光期に起こった寛永の大飢饉の反省から飢饉対策として農政に重点が置かれ、宗門改の徹底と全国への宗門人別改帳の作成命令や諸国巡見使の派遣、諸国山川掟の制定、河村瑞賢に命じて東廻り航路・西廻り航路を開拓させるなど全国的な流通・経済政策が展開され、『本朝通鑑』編纂などの文化事業も行われた。 |
| また、家綱期には幕府職制の整備が完成され、幕朝関係も安定し、対外的には蝦夷地でのシャクシャイン蜂起などが起こっているが、家光期以来の鎖国政策が堅持された。 |
| この時期には伊達騒動や越後騒動など大名家のお家騒動も発生している。 |
| 側室のお振、お満流は家綱の子を懐妊したが、死産または流産であった。 |
| 加えて家綱自身は生まれつき体が弱く病弱で、30半ばに至っても男子がなかったため将軍継嗣問題が憂慮されていたが、延宝8年(1680年)5月初旬に病に倒れ、危篤状態に陥った家綱は、堀田正俊の勧めを受けて末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、直後の5月8日に死去した。 |
| 家綱の危篤に際して、忠清は鎌倉時代に将軍源実朝の死後に宮将軍が迎えた例にならい、家綱の祖父秀忠の兄・結城秀康の血を引く有栖川宮幸仁親王を将軍に迎えようとしたが、正俊の反対にあって実現しなかったとする宮将軍擁立説があるが、近年では忠清が宮将軍擁立に動いたことを否定する説もある。 |
人物・逸話
| 『文武太平記』に拠れば、家綱は温厚な人柄で絵画や魚釣りなど趣味を好み、政務を酒井忠清をはじめ老中らに任せ自らは「左様せい」で決裁していたことから「左様せい様」という異名が付けられたという。 |
| この逸話は家綱自身が幕政指導者としての指導力を発揮できず忠清の専制を示すものとしても引用されているが、辻達也や福田千鶴らは幕政の意思決定における将軍上意の重要性を指摘している。 |
| 生後4ヶ月で脳膜炎にかかったことがあり、脳に障害があったのではないかとされている。 |
| 家綱が元服するまでは保科正之ら家光時代の遺産ともいうべき人材に恵まれていたのが安定した時代を築ける幸運でもあった。 |
| 『徳川名君名臣言行録』では、「吾、幼年なりといえども、先業を承け継ぎ、大位に居れり」とある。 |
| 新井白石著の『白石手簡』では、家綱は中国の唐時代の政治書である『貞観政要』を好み、幕政運営の参考にしたという。 |
| 『武野燭談』に拠れば、家綱の将軍就任から間もない幼少期のことであるが、江戸城天守閣へ登った際、近習の者が遠眼鏡をすすめたが、「自分は少年ながら将軍である。 |
| もし将軍が天守から遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れたら、おそらく世人は嫌な思いをするに違いない」と遠眼鏡を手に取らなかったという。 |
| あるとき、遠島となった罪人の話を聞き、家綱は「彼らは何を食べているのだろう」と近臣の者に尋ねたが誰も答えられず、それに対し、家綱は「命を助けて流罪にしたのに何故、食料を与えないのか」といった。 |
| それを聞いた父の家光は喜び、「これを竹千代(家綱)の仕置きはじめにせよ」と家臣に命じ、流人に食料を与えるようになったという。 |
| 家綱が食事していたとき、汁物を飲もうとしたところ、髪の毛が入っていた。 |
| 家綱は平然とその髪の毛を箸で摘まんで取り除いたが、小姓があわて新しい物と交換しようとした。 |
| 家綱はその小姓に対し「その汁は途中で捨て、椀を空にして下げるように」といった。 |
| これは御椀を空にすることにより、普段のおかわりと同じ様に扱えということで、咎められる者が出ないようにとの家綱の配慮があったということである。 |
| 明暦の大火により、焼失被害にあった江戸市中の武家屋敷、社寺仏閣などに資金援助し、復興に助力したという。 |
官歴
| 正保2年(1645年)4月23日、元服。 |
| 家綱を名乗り、従二位に叙し、権大納言に任官。 |
| 慶安4年(1651年)8月18日、正二位に昇叙し、内大臣に転任。 |
| 右近衛大将を兼任。 |
| 併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。 |
| 承応2年(1653年)7月10日(『幕府祚胤伝』では8月12日)、右大臣に転任。 |
| 右近衛大将兼任如元。 |
| 延宝8年(1680年)5月8日、薨去。 |
| 5月21日、贈正一位太政大臣。 |
徳川家綱が登場する作品
| 影の軍団服部半蔵(1980年、松竹 演者:上田孝則)。 |
| 魔界転生(1981年、東映 演者:松橋登)。 |
| 大奥十八景(1986年、東映 演者:あおい輝彦)。 |
| 必殺4恨みはらします(1987年、松竹 演者:中村錦司)。 |
| 将軍家光の乱心激突(1989年、東映 演者:茂山逸平)。 |
| 江戸城大乱(1991年、東映 演者:金田賢一)。 |
| 魔界転生(2003年、東映 演者:高山澪諒)。 |
| 大奥(1968年、フジテレビ 演者:津川雅彦)。 |
| 大奥(1983年、フジテレビ 演者:田中健)。 |
| 風雲江戸城怒涛の将軍徳川家光(1987年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ 演者:福原学)。 |
| 天下の副将軍水戸光圀徳川御三家の激闘(1992年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ 演者:下元年世)。 |
| 元禄繚乱(1999年、NHK大河ドラマ 演者:堀内正美)。 |
| 大奥〜第一章〜スペシャル(2004年、フジテレビ 演者:笠原織人)。 |
| 大奥〜華の乱〜スペシャル(2005年、フジテレビ 演者清家三彦)。 |
| カムイ伝第二部(劇画、白土三平・岡本鉄二)。 |
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1641年
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第3代将軍・徳川家光の長男として江戸城本丸... |
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1644年
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名を「家綱」と改め、正保2年1645年4月に元服... |
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