| 尾張藩では10代藩主・斉朝から13代藩主・慶臧まで4代、将軍家周辺からの養子が続いた。 |
| また11代藩主斉温がその在世中一度も尾張に入国せずに江戸暮らしをするなど、尾張藩士の士気を地に落とすような出来事が続き、下級藩士を母体とする金鉄党などの養子反対派が支藩の高須藩出身である慶勝の藩主就任を渇望していた。 |
| 嘉永2年(1849年)に慶臧が死去すると、慶勝の14代藩主就任が実現する。 |
| 慶勝は藩祖・義直の遺命である「王命によって催さるる事」を奉じて尊皇攘夷を主張し、内政では倹約政策を主とした藩政改革を行う。 |
| 幕閣において老中・阿部正弘の死後に大老となり幕政を指揮していた井伊直弼が安政5年(1858年)にアメリカ合衆国と日米修好通商条約を調印したため、慶勝は水戸徳川家の徳川斉昭らとともに江戸城へ不時登城するなどして直弼に抗議した。 |
| これが災いし、井伊が反対派に対する弾圧である安政の大獄を始めると隠居謹慎を命じられ、弟の茂徳が15代藩主となる。 |
| この頃から、欧米より伝来した写真機に興味を持ち、自らの手で薬品の調合をし、写真を撮影している。 |
| 撮影した写真の中には明治3年(1870年)に取り壊された名古屋城二の丸御殿、幕末の広島城下、藩江戸下屋敷などの写真が1000点近く残されており、歴史的史料価値に値する写真も数多い。 |
| 万延元年(1860年)に直弼が桜田門外の変で暗殺されると、文久2年(1862年)に「悉皆御宥許」の身となった。 |
| その年に上洛し、将軍家茂の補佐を命じられる。 |
| 文久3年(1863年)、茂徳が隠居し、実子の元千代(義宜)が16代藩主となったため、その後見として尾張藩の実権を握る。 |
| その後、慶勝はたびたび上洛するが、その京都では文久3年(1863年)に会津藩と薩摩藩が結託したクーデターである八月十八日の政変が起こり、京から長州藩が追放された。 |
| 翌元治元年(1864年)に慶勝は、雄藩の藩主経験者からなる参預会議への参加を命じられる(実際には辞退)。 |
| その年、池田屋事件が発生し、これに憤慨した長州藩が京都の軍事的奪回を図るため禁門の変(蛤御門の変)を引き起こす。 |
| しかし、これに失敗して長州藩は朝敵となり、幕府が長州征伐(第一次長州征討)を行うこととなる。 |
| 長州征討軍総督には初め紀州藩主・徳川茂承が任じられたが慶勝に変更され、慶勝は薩摩藩士・西郷吉之助を大参謀として出征した。 |
| この長州征伐では長州藩が恭順したため、慶勝は寛大な措置を取って京へ凱旋した。 |
| しかしその後、長州藩は再び勤王派が主導権を握ったため、第二次長州征討が決定する。 |
| 慶勝は再征に反対し、茂徳の征長総督就任を拒否させ、上洛して御所警衛の任に就いた。 |
| 征伐を受けそうになった長州藩は密かに薩摩藩と同盟を結び(薩長同盟)、幕府軍を藩境の各地で破った。 |
| 慶応3年10月14日(1867年11月9日)には土佐藩の勧めで15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、徳川幕府が消滅した。 |
| 慶勝は上洛して新政府の議定に任ぜられ、12月9日(1868年1月3日)の小御所会議において慶喜に辞官納地を催告することが決定、慶勝が通告役となる。 |
| 翌慶応4年1月3日(1月27日)に京都で旧幕府軍と薩摩藩、長州藩の兵が衝突して鳥羽伏見の戦いが起こり、慶喜は軍艦で大坂から江戸へ逃亡した後、謹慎する。 |
| 慶勝は新政府を代表して大坂城を受け取る。 |
| そのうち尾張藩内で朝廷派と佐幕派の対立が激化したとの知らせを受け、1月20日(2月13日)に尾張へ戻って佐幕派を弾圧する(青松葉事件)。 |
| 閏4月21日(6月11日)に議定を免ぜられ、その後政界に立つことはなくなった。 |
| 明治8年(1875年)、義宜の病死を受けて当主を再承した。 |
| 明治11年(1878年)から始まった旧尾張藩士による北海道八雲町の開拓も指導した。 |
| 明治13年(1880年)家督を養子の義礼に譲り隠居した。 |
| 明治16年(1883年)に死去、享年60。 |