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プロフィール
- 徳川慶喜とは
- 名前
- 幼年期
- 一橋家相続
- 将軍継嗣問題
- 将軍後見職
- 禁裏御守衛総督
- 将軍職
- 戊辰戦争
- 余生
- 年譜
- 一橋家当主として
- 将軍として
- 逸話
- テレビドラマ
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年‐1868年)。江戸幕府最後の将軍で征夷大将軍に任じられた最後の人物。御三卿一橋徳川家の第9代当主として将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた後に徳川宗家を相続、第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸城明け渡し( 無血開城)を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。
名前
| 「慶喜」は「''よしのぶ''」あるいは通称として「''けいき''」(有職読み)とも読む。 |
| 将軍在職中、江戸幕府の公式な文書等には「''よしひさ''」と読んだとの記録が残っている。 |
| 本人によるアルファベット署名や英字新聞に「''Yoshihisa''」の表記も残る(このため偏諱を貰った弟・松平喜徳にも同様の説が存在する)。 |
| 出身地である水戸では「よしのぶ」と呼ばれる事が多いが、余生を送った静岡では「けいき」と呼ばれる事が多い。 |
| 生前の慶喜を知る人によると、慶喜本人は「けいき様」と呼ばれるのを好んだらしく、弟・徳川昭武に当てた電報にも自分のことを「けいき」と名乗っている。 |
| 慶喜の後を継いだ七男・慶久も慶喜と同様に周囲の人々から「けいきゅう様」と呼ばれていたといわれる。 |
| 「けいき様」と「けいきさん」の2つの呼び方が確認でき、現代においても少なくなりつつあると思われるが「けいきさん」の呼び方が静岡に限らず各地で確認できる。 |
| 司馬遼太郎は「『けいき』と呼ぶ人は旧幕臣関係者の家系に多い」とするが、倒幕に動いた肥後藩関係者でも使用が確認できる。 |
| また慶喜が偏諱を与えた人物として実弟・喜徳や細川喜廷(喜延とも)などがいる。 |
幼年期
| 天保8年(1837年)9月29日、江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれる。 |
| 母は正室・吉子女王第3代・家光以来となる正室を生母とした将軍である。 |
| 幼名は七郎麻呂(しちろうまろ)。 |
| 「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)など一部史料では「七郎麿」との表記になっているが、慶喜本人は「七郎麻呂」と署名している。 |
| 尊敬する第2代藩主・光圀の教育方針を踏襲して子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸)で教育するという斉昭の教育方針に則り、天保9(1838)年4月末(生後7ヶ月)に江戸から水戸に移り、一橋徳川家を相続するまでの多くを同地で過ごす間、会沢正志斎らから学問・武術を教授されている。 |
| 慶喜の英邁さは当時から注目されていたようで、斉昭も他家に養子には出さず、長男・慶篤の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていた。 |
一橋家相続
| 弘化4年(1847年)8月1日、老中・阿部正弘から水戸藩に七郎麻呂当時は松平昭致(あきむね)と名乗っていた。 |
| を御三卿・一橋家の世嗣としたいとの第12代将軍・徳川家慶の思召(意向)が伝えられる。 |
| これを受けて七郎麻呂は8月15日に水戸を発ち、9月1日に一橋家を相続。 |
| 12月1日に将軍・徳川家慶から偏諱を賜わり慶喜(『よろこぶが2つでめでたい』の意で)と名乗る。 |
| 家慶は度々一橋邸を訪問するなど、慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、老中・阿部正弘の諫言を受けて断念している。 |
将軍継嗣問題
| 嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ第13代将軍・徳川家定は病弱で男子を儲ける見込みがなかったため、将軍継嗣問題が浮上する。 |
| 慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した。 |
| 一橋派は阿部正弘、島津斉彬が相次いで亡くなると勢いを失い、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。 |
| 同年、直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を調印。 |
| 慶喜は斉昭、福井藩主・松平慶永らと共に登城し直弼を詰問するが、翌・安政6年(1859年)に隠居謹慎処分となる(安政の大獄)。 |
| この日は三卿の将軍面会日であり、斉昭や慶永と違って不時登城ではなく罪状は不明のままの処分であった。 |
| なお、慶喜本人は将軍継嗣となることに乗り気ではなかったのか「骨折りは申し訳ないが、天下を取ってから失敗するよりは取らないほうがいい」という内容の手紙を斉昭に送っている原文は「骨折れ候故、(中略)天下を取り候て後、仕損じ候よりは、天下を取らざる方、大いに勝るかと存じ奉り候」(家近p.22)。 |
将軍後見職
| 安政7年(1860年)3月3日・桜田門外の変における大老・井伊直弼の死を受け、万延元年(1860年)9月4日に謹慎を解除される。 |
| 文久2年(1862年)、島津久光と勅使・大原重徳が薩摩藩兵を伴って江戸に入り、勅命を楯に幕府の首脳人事へ介入、7月6日、慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に任命させることに成功した。 |
| 慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行なった。 |
| 文久3年(1863年)、攘夷の実行について朝廷と協議するため、徳川家茂が将軍としては230年ぶりに上洛することとなったが、慶喜はこれに先駆けて上洛、将軍の名代として朝廷との交渉にあたった。 |
| 慶喜は朝廷に対し、攘夷実行を含めた国政全般を従来通り幕府へ委任するか、政権を朝廷に返上するかの二者択一を迫った。 |
| しかし朝廷からは、幕府への大政委任を認める一方で「国事に関しては諸藩に直接命令を下すことがあり得る」との見解が表明され、逆に幕府は攘夷の実行を命じられるなど、交渉は不成功に終わった。 |
| 春嶽が朝廷の要求に反発して政事総裁職の辞表を出す一方で、慶喜はこれを受け入れる姿勢をとり、江戸の幕閣の猛反発を招いた。 |
| しかし攘夷の実行は慶喜の本心ではなく、孝明天皇が石清水八幡宮へ行幸しての攘夷祈願において将軍が天皇から節刀を拝受してしまえば攘夷を決行せざるを得なくなるので「風邪発熱」(仮病)と称して家茂の拝謁を急遽取りやめさせている。 |
| 江戸に戻った慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷の実行方策として横浜港の鎖港方針を確定させる。 |
| 八月十八日の政変で長州藩を中心とする尊皇攘夷派が排斥されたのち、公武合体派諸候・幕閣による参預会議に参加すべく再び上洛するが、ここでも横浜鎖港に反対する参預諸候の島津久光・松平春嶽らと慶喜は対立した。 |
| 薩摩藩による朝廷の主導を警戒した慶喜は、参預諸候を朝廷から排除する動きをみせ、中川宮朝彦親王らとの酒席で故意に泥酔し、同席していた伊達宗城、春嶽、久光を罵倒、さらに中川宮に対し「島津からいくらもらっているんだ」などと暴言を発して体制を崩壊に追い込むなど、手段を選ばぬ交渉を行なった。 |
禁裏御守衛総督
| 参預会議解体後の元治元年(1864年)3月25日、慶喜は将軍後見職を辞任し、朝臣的な性格を持つ禁裏御守衛総督に就任した。 |
| 以降、慶喜は京都にあって武田耕雲斎ら水戸藩執行部や池田慶徳・池田茂政鳥取藩主・岡山藩主。 |
| いずれも水戸家出身で、慶喜とは兄弟らと提携し、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。 |
| 江戸においては、盟友である政事総裁職・松平直克(川越藩主)と連携し、朝廷の意向に沿って横浜鎖港を引き続き推進するが、天狗党の乱への対処を巡って幕閣内の対立が激化し、6月に直克は失脚、慶喜が権力の拠り所としていた横浜鎖港路線は事実上頓挫する奈良p.238。 |
| 同年7月に起こった禁門の変においては、慶喜は自ら御所守備軍を指揮し、鷹司邸を占領した長州藩軍を攻撃した(歴代の徳川将軍家の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結んだ)。 |
| これを画期として慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄し、反尊攘派である会津藩・桑名藩らとの提携が本格化することとなる(一会桑体制)奈良p.240。 |
| それに続く第一次長州征伐が終わると、欧米各国が強硬に要求し、幕府にとり長年の懸案事項であった安政五カ国条約の勅許を得るため奔走した。 |
| 慶喜は自ら朝廷に対する交渉を行い、最後には自身の切腹とそれに続く家臣の暴発にさえ言及、一昼夜に渡る会議の末に遂に勅許を得ることに成功した(ただし、京都に近い兵庫の開港については勅許を得ることができず、依然懸案事項として残された)。 |
将軍職
| 慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜が長州征伐の勅命を得る。 |
| しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫した。 |
| その第二次長州征伐最中の7月20日、将軍・家茂が大坂城で薨去する。 |
| 慶喜は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定の締結に成功する。 |
| 家茂の後継として、老中板倉勝静・小笠原長行は江戸の異論家茂が後継に指名した田安亀之助(のちの徳川家達)を推す大奥を中心とする反慶喜勢力や慶喜の将軍就任を強硬に反対する水戸藩の動きなど、慶喜に向けられた強い反感が将軍職固辞に大きく関わっていた(家近p.p.113-117)。 |
| を抑えて慶喜を次期将軍に推した。 |
| 慶喜はこれを固辞し、8月20日に徳川宗家は相続したものの将軍職就任は拒み続け、12月5日に将軍宣下を受けようやく将軍に就任した。 |
| これは言わば恩を売った形で将軍になることで政治を有利に進めていく狙いがあったと言われるが、就任固辞が「政略」によるとみなせる根拠も「政略」説を否定する根拠もないのが実情である家近p.116。 |
| 慶喜政権は会津藩・桑名藩の支持のもと、朝廷との密接な連携を特徴としており、慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣を上京させるなど、実質的に政権の畿内への移転が推進された。 |
| また、慶喜は将軍就任に前後して上級公家から側室を迎えようと画策しており、この間、彼に関白・摂政を兼任させる構想が繰り返し浮上した奈良p.323。 |
| 慶喜はフランス公使・レオン・ロッシュを通じてフランスから240万ドルの援助を受け、横須賀製鉄所や造・修船所を設立し、ジュール・ブリュネを始めとする軍事顧問団を招いて軍制改革を行った。 |
| 老中の月番制を廃止し、陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置した。 |
| また、実弟・昭武をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した。 |
| 兵庫開港問題では朝廷を執拗に説いて勅許を得て、勅許を得ずに兵庫開港を声明した慶喜を糾弾するはずだった薩摩・越前・土佐・宇和島の四侯会議を解散に追い込んだ。 |
| 薩長が武力倒幕路線に進むことを予期した慶喜は慶応3年(1867年)10月14日、政権返上を明治天皇に上奏し、翌日勅許された(大政奉還)。 |
| 従来の通説的見解によれば、慶喜は当時の朝廷に行政能力が無いと判断し、列侯会議を主導する形での徳川政権存続を模索していたとされる。 |
戊辰戦争
| 大政奉還後の政治体制については諸侯会議によって定められるはずであったが、12月、薩摩藩らはクーデターにより朝廷を制圧し、慶喜を新政府から排除した(王政復古)。 |
| 慶喜には辞官(内大臣の辞職)と納地(幕府領の返上)が命ぜられた(ただし400万石全納から松平春嶽らの要求により200万石半納に減免された)。 |
| 慶喜は越前藩・土佐藩に運動して辞官納地を温和な形とし、年末には自身の議定就任(新政府への参画)がほぼ確定する。 |
| しかし、翌・慶応4年(1868年)に薩摩藩の挑発に乗った慶喜は、会津・桑名藩兵とともに京都に向け進軍し、薩摩藩兵らとの武力衝突に至る。 |
| 1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いでにおいて旧幕府軍が形勢不利になったと見るや、まだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、陣中に伴った側近や妾と共に軍艦開陽丸で江戸へ退却したのちに慶喜は回顧録の中で、「討薩表はあの時分勢いで実はうっちゃらかしておいた」と語っている(『徳川十五代将軍グラフティー』(新人物往来社)P.143)。 |
| 近年の説では、慶喜政権が天皇権威を掌中におさめ、それに寄生することによってのみ成立していた政権であったとし、天皇権威を他勢力に譲り渡した時点でその政治生命は潰え、一連の退却行動につながったとする奈良p.323。 |
| 間もなく、慶喜を朝敵とする追討令が正式に下り、東征大総督・有栖川宮熾仁親王に率いられた新政府軍が東征を開始する。 |
| 江戸総攻撃の前に行なわれた勝海舟と新政府軍参謀・西郷隆盛との交渉により江戸城は4月11日に新政府軍に明け渡された(彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れた慶喜は4月11日午前3時に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かった)。 |
余生
| 明治2年(1869年)9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され、引き続き、駿府改め静岡に居住した。 |
| 生存中に将軍職を退いたのは11代家斉以来であるが、過去に大御所として政治権力を握った元将軍達とは違い、政治的野心は全く持たず、写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活をおくり、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。 |
| 明治30年(1897年)に東京・巣鴨に移り住む。 |
| 明治35年(1902年)には公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就いて、35年ぶりに政治に携わることになった。 |
| 明治43年(1910年)12月8日、七男・慶久に家督を譲って貴族院議員を辞し、隠居。 |
| 大正2年(1913年)11月22日、感冒にて死去。 |
年譜
| 同日、従三位・左近衛権中将兼刑部卿叙任。 |
| 安政2年(1855年)12月3日、一条忠香の養女・美賀と結婚。 |
| 安政6年(1859年)8月27日、安政の大獄において隠居謹慎蟄居の処分を受ける。 |
| 12月5日、正二位・権大納言兼右近衛大将に叙任。 |
| 200px|thumb|慶応3年(1867年)大阪での慶喜。 |
| 明治41年(1908年)4月30日、大政奉還の功により、明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与される。 |
| 明治43年(1910年)12月8日、慶久に家督を譲って貴族院議員を辞め、隠居。 |
一橋家当主として
| 文久3年(1863年)末から翌年3月まで京都に存在した、大名経験者合議制であった参預会議の体制は、参預諸侯間の意見の不一致からなかなか機能しなかったが、これを危惧した朝廷側の中川宮は、問題の不一致を斡旋しようと2月16日参預諸侯を自邸に招き、酒席を設けた。 |
将軍として
| 英邁さで知られ、実父・斉昭の腹心・安島帯刀は、慶喜を「徳川の流れを清ましめん御仁」と評し、幕威回復の期待を一身に背負い鳴物入りで将軍位に就くと、「権現様の再来」とまでその英明を称えられた。 |
逸話
| 西洋の文物にも関心を寄せ、晩年はパンと牛乳を好み、カメラによる写真撮影・釣り・自転車・顕微鏡・手芸(刺繍)などの趣味に興じた。将軍時代には西周からフランス語を習ったこともあったようだが、こちらは挫折した。 |
| 写真家の長野重一によれば腕前はセミプロ並みとの評価であるが写真集『将軍が撮った明治』(朝日新聞社)を見る限り、写真が芸術性を帯びてくるのは昭和の初期からであり、たんに日記代わりとして撮っていたと、評価している。 |
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