| 武帝は、太子の司馬衷が暗愚であるということを改めて知り、廃太子を考えた。 |
| そこで、武帝は尚書の仕事を司馬衷にやらせることにした。 |
| この時、司馬衷の妃であった賈妃(恵帝が皇帝に即位した後は賈后)が、他人に代筆させて仕事を終わらせた(あまりに出来過ぎると代筆が露見するので、ぎりぎり及第点の文章を書かせたともいう)。 |
| 武帝はこれにすっかり騙されて、廃嫡しようとは考えなくなった。 |
| または騙されなくとも太子の側室の謝夫人が産んだ孫の司馬遹(愍懐太子)がいるので、希望の星である孫の繋ぎ役として太子のままにしたともいわれる。 |
| 290年(太熙元年)4月に武帝が崩御すると、司馬衷が即位した。 |
| 司馬衷は相変わらず暗愚なので、実際の政治は、武帝の皇后であった楊太后の一族が執り行なうようになる。 |
| しかし、皇后となった賈氏の一族が実権を奪おうとした。 |
| 結局永平元年(291年)3月に賈后が楊太后の一族とその与党を粛清した。 |
| さらに、その後政治を行なった司馬亮と衛瓘を司馬瑋に殺害させ、罪を司馬瑋に着せて殺す(291年6月,広義には、ここから八王の乱が始まったとされる)。 |
| この結果、賈后は実力者を一掃して実権を握った。 |
| その後、数年間は賈后の一族の専横の下、皇族の中で最も自制していた司馬泰と司馬晃の補佐を受け、波乱多き恵帝の治世にしては安定した時期を迎える。 |
| 296年(元康6年)1月に司馬晃が死去した。 |
| 8月から秦州雍州で斉万年の乱が始まった。 |
| 297年(元康7年)7月に戦乱と異常気象に関中で大飢饉が起きた。 |
| 298年(元康8年)1月、詔により雍州の飢えた人々に食料が与えられた。 |
| 299年(元康9年)1月斉万年の乱が終わった。 |
| 6月に司馬泰が死去した。 |
| 賈后は、皇太子の司馬遹が自分が産んだ子ではないことを気にして、299年(元康9年)冬12月に、太子の司馬遹を廃嫡し、金墉城にその3人の皇子らと共に幽閉した。 |
| 同時に司馬遹の母は殺害された。 |
| そして、300年春3月には、司馬遹は賈后の手により23歳の若さで殺害された。 |
| これに対して、同年の夏4月に趙王司馬倫は賈后を殺害し、反対派を粛清し、自ら相国となる。 |
| これが八王の乱の始まりである。 |
| 5月に皇太孫に司馬臧がたてられた。 |
| 11月に皇后に羊献容がたてられた。 |
| 301年(永康2年)正月に司馬倫は恵帝に迫って譲位させる。 |
| 恵帝は太上皇とされ、金墉城(なお、この時永昌宮と改称された)に幽閉される。 |
| なお、皇帝経験者で上皇の称号を贈られたのは、恵帝が最初である。 |
| 司馬臧は殺された。 |
| 301年(永康2年)4月には、斉王司馬冏らによって、司馬倫が殺害され、恵帝は復位する。 |
| その後も皇族らの争いは長く続き、恵帝は、実権を握る皇族らの駒としかならなくなっていった。 |
| 306年(光熙元年)冬11月、洛陽の顯陽殿にて、餅を食べて食中(あた)りのため48歳で崩御した。 |
| 或いは毒殺されたのだともいう。 |
| 帝の遺体は太陽陵に埋葬されたという。 |
| 恵帝の暗愚さを示す逸話として、民衆が穀物がなくて飢えている時に、恵帝は「(穀物がないのならば、)肉粥を食べればいいではないか(何不食肉糜)」と言ったと伝えられている。 |
| 但し、暗君といわれる彼にも救いのある逸話もあった。 |
| それは304年の秋7月に侍中の嵆紹(嵆康の子)が皇族の乱に巻き込まれたために主君の彼を庇って、反乱軍によって血を浴びて斬り殺された、この時恵帝も頬に傷を負っている。 |
| その時に嵆紹の血が恵帝の衣装を汚したために、重臣が衣装を取り替えるべく進言した。 |
| だが恵帝は「これは朕を守って死んだ嵆侍中の尊い血である。 |
| そのままにせよ」と言ったそうである。 |
| 北宋の司馬光はこの逸話から、実は恵帝は暗愚ではなく、暗愚を装っていたのではないかと、擁護論を唱えている。 |