| 太熙元年(290年)、豫章郡王に封じられる。 |
| 永興元年(304年)、鎮北大将軍・都督鄴城守諸軍事となる。 |
| 12月、皇太弟となる。 |
| 光熙元年(306年)11月、恵帝が死去、司馬熾が皇帝に即位。 |
| 皇后の羊氏を恵皇后とする。 |
| 生母の太妃王氏を皇太后に追尊し、妃の梁氏を皇后とする。 |
| 永嘉元年(307年)正月、太傅の東海王司馬越が輔政となる。 |
| 3月、豫章王の司馬詮を皇太子とする。 |
| 司馬越を許昌に、高密王司馬簡を襄陽に、新蔡王司馬騰を鄴に、南陽王司馬模を長安にそれぞれ出鎮させる。 |
| 7月、琅邪王司馬睿を安東将軍・都督揚州江南諸軍事に任命し、建鄴に出鎮させる。 |
| 12月、司馬越が偽詔により清河王司馬覃を金墉城に幽閉する。 |
| 司馬越が丞相となる。 |
| 永嘉2年(308年)2月、司馬越が司馬覃を殺害。 |
| 3月、司馬越が鄄城に出鎮。 |
| 劉淵が頓丘・河内の地を席捲し、王弥が青州・徐州・兗州・豫州の四州を侵略する。 |
| 5月、王弥が洛陽に侵攻するも、司徒の王衍により撤退する。 |
| 7月、劉淵が平陽に侵攻する。 |
| 10月、劉淵が平陽で皇帝を称し、国号を漢(後の前趙)とする。 |
| 永嘉3年(309年)3月、司馬越が宮中で中書令の繆播・帝の舅王延ら10余人を殺害。 |
| 9月、司馬越が洛陽に籠城し、侵攻してきた劉聡の軍を破る。 |
| 永嘉4年(310年)6月、劉淵死去。 |
| 子の劉和が継ぐも、劉和の弟劉聡が殺害し自立。 |
| 11月、司馬越が洛陽を離れて許昌に赴く。 |
| 司馬越は豫州牧を称し、太尉の王衍を軍司とする。 |
| 永嘉5年(311年)正月、懐帝は苟晞に司馬越討伐の密詔を出す。 |
| 司馬越が苟晞を攻撃する。 |
| 3月、懐帝は司馬越の罪状をあげ、各地の方鎮に司馬越討伐を命じる。 |
| 4月、王衍が司馬越の葬儀の軍を率いて東海に退却中、石勒軍の攻撃を受けて壊滅する。 |
| 石勒は王衍ら王公をはじめとする10余万人を殺害する。 |
| 5月、司空の王浚が大司馬・征西大将軍に、南陽王の司馬模が太尉に、太子太傅の傅祗が司徒に、尚書令の荀籓が司空・安東将軍に、琅邪王司馬睿が鎮東大将軍にそれぞれ昇進する。 |
| 6月、劉曜・王弥・石勒の攻撃により洛陽が陥落。 |
| 懐帝は劉曜に捕らえられる。 |
| 百官から士人・庶民を含めて死者は3万余人に上った。 |
| 懐帝は平陽に連行され、劉聡により会稽公に封じられた。 |
| 永嘉6年(312年)9月、長安で前雍州刺史の賈疋・衛将軍の梁芬・京兆太守の梁綜らが秦王司馬鄴を皇太子に擁立。 |
| 永嘉7年(313年)正月、懐帝、劉聡により殺害される。 |