9881
10023
119404
%E6%87%90%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
%E6%87%90%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
%E6%87%90%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
%E6%87%90%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
%E6%87%90%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 懐良親王の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
プロフィール
- 懐良親王とは
- 生涯
- 墓所・霊廟
- エピソード
- 辞世の歌
- 関連書籍
- 関連項目
懐良親王(かねながしんのう/かねよししんのう、元徳元年(1329年)?-弘和3年/永徳3年3月27日(1383年4月30日))は、 後醍醐天皇の皇子である。母は二条為道の娘。 南北朝時代、南朝の 征西大将軍であったことから 征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に 征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。名前の読みが二種類あることについては、 後醍醐天皇の皇子の読みを参照。
生涯
| 建武の新政が崩壊した後、後醍醐天皇は各地に自分の皇子を派遣し、味方の勢力を築こうと考え、延元元年/建武3年(1336年)(時期については諸説あり)にまだ幼い懐良親王を征西大将軍に任命し、九州に向かわせることにした。 |
| 親王は五条頼元らに補佐されて四国伊予国忽那島(愛媛県松山市)へ渡り、当地の宇都宮貞泰や瀬戸内海の海賊衆である熊野水軍の援助を得て数年間滞在した。 |
| その後、興国2年(1341年)頃に薩摩に上陸。 |
| 谷山城にあって北朝・足利幕府方の島津氏と対峙しつつ九州の諸豪族の勧誘に努める。 |
| ようやく肥後の菊池武光や阿蘇惟時を味方につけ、正平3年(1348年)に隈府城に入って征西府を開き、九州経略を開始した。 |
| この頃、足利幕府は博多に鎮西総大将として一色範氏、仁木義長らを置いており、これらと攻防を繰り返した。 |
| 正平5年(1350年)、観応の擾乱と呼ばれる幕府の内紛で将軍足利尊氏とその弟足利直義が争うと、直義の養子足利直冬が九州へ入る。 |
| 筑前の少弐頼尚がこれを支援し、九州は幕府、直冬、南朝3勢力の鼎立状態となる。 |
| しかし、正平7年/文和元年(1352年)に直義が殺害されると、直冬は中国に去った。 |
| これを機に一色範氏は少弐頼尚を攻めたが、頼尚に支援を求められた菊池武光は針摺原の戦い(福岡県太宰府市)で一色軍に大勝する。 |
| さらに懐良親王は菊池・少弐軍を率いて豊後の大友氏泰を破り、一色範氏は九州から逃れた。 |
| 一色範氏が去った後、少弐頼尚が幕府方に転じたため、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸ら南朝方は正平14年/延文4年(1359年)の筑後川の戦い(大保原の戦い、福岡県小郡市)でこれを破り、正平16年(1361年)には九州の拠点である大宰府を制圧する。 |
| 幕府は2代将軍足利義詮の代に斯波氏経、渋川義行を九州探題に任命するが九州制圧は進まず、正平22/貞治6年(1367年)には幼い3代将軍足利義満を補佐した管領細川頼之が今川貞世(了俊)を九州探題に任命して派遣する。 |
| 明の太祖がこの頃北九州で活動していた倭寇と呼ばれる海上勢力の鎮圧を要求する国書を懐良親王に送ると、懐良ははじめは断るものの、後に「日本国王良懐」(『太祖実録』の記述による)として冊封を受け、中央では既に南朝勢力は衰微していたものの、懐良親王は明の権威と勢力を背景に独自に九州に南朝勢力を築く。 |
| その後は今川貞世(了俊)に大宰府・博多を追われ、足利直冬も幕府に屈服したため九州は平定される。 |
| 懐良は征西将軍の職を良成親王(後村上天皇皇子)に譲り筑後矢部で病気で薨去したと伝えられる。 |
| また、懐良親王が「良懐」として明と冊封関係を結んでしまったため、足利義満が日明貿易(勘合貿易)を開始する際に新たに建文帝から冊封をうけ「日本国王」となるまでは、北朝や薩摩の島津氏なども明に使節を送る場合は「良懐」の名義を用いねばならないという事態も発生した。 |
| その足利義満も、当初は明国から、「良懐と日本の国王位を争っている持明の臣下」と看做されて、外交関係を結ぶ相手と認識されず、苦労している。 |
墓所・霊廟
| 墓所の伝承地はいくつかあるが、宮内庁は熊本県八代市のものとしている。 |
| 明治になって同市の八代宮に祀られた。 |
| 昭和3年(1928年)には鹿児島県谷山市に懐良親王を祭神とする谷山神社が建立された。 |
辞世の歌
| 「雲井にものぼるべき身のさはなくて 雲雀の床に音をのみぞなく」。 |
|
1348年
|
隈府城に入って征西府を開き、九州経略を開始... |
|
1350年
|
観応の擾乱と呼ばれる幕府の内紛で将軍足利尊... |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
後醍醐天皇
第96代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日)-延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。諱は尊治(たかはる)。 |
|
|
菊池武光
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。菊池氏第15代当主。第12代当主菊池武時の子で9男とも。兄に第13代当主武重、弟に第14代当主武士。官位は肥後守。 |
|
|
永徳
永徳(えいとく、1978年1月16日-)は日本の俳優。千葉県出身。ジャパンアクションエンタープライズ所属。旧芸名は大岩永徳(おおいわひさのり)。 |
|
|
菊地武
菊地 武顕 雑誌記者 1962年宮城県生まれ。明治大学法学部卒業。86年1月から、「Emma」(当時は隔週刊。後に週刊化)にて記者活動を始める。以後、「女性自... |
|
|
足利尊氏
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年-1358年)。足利将軍家の祖。 |
|
|
後村上天皇
南北朝時代の第97代、南朝第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日)-正平23年/応安元年3月11日)。諱は初め義良(のりよし/のりなが)、後... |
|
|
護良親王
鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。また公家の藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。興良... |
|
|
成良親王
南北朝時代の後醍醐天皇の皇子である。母は後醍醐の寵姫阿野廉子。恒良親王、義良親王(後村上天皇)の同母兄弟。名前の読みが二種類あることについては、後... |
|
|
征西大将軍
コブスの中にあるコンテンツの単語とウィキペディアの中にある単語を結びつけるコンテンツです。リンクされたキーワードをクリックするとその意味を表示しま... |
|
|
征西将軍宮
征西将軍宮 【セイセイショウグンノミヤ】 1件の用語解説(征西将軍宮で検索) Tweet デジタル大辞泉 の解説 せいせいしょうぐん‐の‐みや〔... |
|
|
足利義満
足利義満(あしかがよしみつ)は室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年-1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。封号は日本国王。... |
|
|
建武
後漢の光武帝劉秀の治世に行われた最初の元号。25年-56年。建武32年(56年)は4月に改元され、建武中元元年となった。この元号は、漢王朝を再興した際に初め... |
|
|
征西府
征西府秘帖 作家: 森本繁 250円 (新品定価: 1,835 円 → 1,585円おトク) 在庫なし 森本繁の在庫あり商品を探す お気に入りに追加 この商品をお友達に紹... |
|
|
南北朝時代
日本の歴史で、皇室が南北2つに分裂した時代である。 |
|
|
宗尊親王
鎌倉幕府6代将軍で皇族での初めての征夷大将軍。後嵯峨天皇の皇子。母は蔵人木工頭平棟基の娘・棟子。後深草天皇、亀山天皇らの異母兄。正室は近衛宰子、子に... |
|
|
北畠顕家
南北朝時代の公家・武将。北畠家は村上源氏の庶流。准大臣北畠親房の長男。従二位・権中納言。贈従一位・左大臣。 |
|
|
良成親王
八女という地名の発祥となった神社。その境内には樹齢約600年以上、樹高44.8m、幹周り5.7mの巨木があり… 所在地/ 八女市矢部村北矢部神窟 830回 【筑後エ... |
|
|
少弐頼尚
南北朝時代、室町時代の九州の武将である。少弐氏当主。父は少弐貞経。子に少弐直資、少弐冬資、少弐頼澄。法名は、梅渓本通。1333年(元弘3年)に鎌倉幕府討... |
|
|
楠木正成
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍... |
|
|
懐良親王さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|