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つながりの強いひと
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李世民
李世民 小前亮/著 出版社名 : 講談社 出版年月 : 2005年6月 ISBNコード : 978-4--5
( 4--2 ) 税込価格 : 2,310円 頁数・縦 : 534P 20... |
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杜如晦
杜如晦(とじょかい。585年-630年)は中国唐代の政治家。字は克明、京兆杜陵の人。隋の昌州長史であった杜タク(杜)の子として生まれる。史書に親しみ、隋末には... |
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魏徴
魏徴(ぎちょう、580年-643年)は唐の政治家。巨鹿曲陽(今の河北省晋県)の人で字は玄成。諫議大夫・左光禄大夫に任じられ、鄭国公に封じられた。直諫(じか... |
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李延寿
中国の唐の歴史家。字は邏齢。祖籍は隴西(今の甘粛省臨洮県)だが、代々相州(今の河南省安陽市)に住んだ。李大師の子。延寿の父の大師は、隋末に竇建徳に... |
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比田井天来
長野県出身の書道家。「現代書道の父」と呼ばれる。長野県北佐久郡協和村(現・佐久市望月)出身。本名・鴻。その活動は近代日本の書道界において新境地であ... |
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東晋
中国の西晋王朝が劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年-420年)。西晋に対し史書では東... |
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姚思廉
中国の唐初の歴史家。字は簡之。一説には名を簡、字は思廉。本貫は呉興(現在の浙江省湖州)。 |
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李靖
中国唐代に太宗に仕えた軍人・政治家。李勣とともに初唐の名将として知られ、突厥征伐などで戦功を挙げた。字は薬師。衛公に封じられた。李靖と太宗の対話は... |
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李淵
唐朝の初代皇帝(在位:618年6月18日-626年9月4日)。隋末の混乱の中、長安を落として根拠地とし、恭帝侑を隋の正統として立て、その禅譲により唐朝を建国し... |
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李建成
唐の初代皇帝高祖李淵の長子。高祖の即位に伴い皇太子に立てられたが、玄武門の変にて弟の李元吉とともに次弟の李世民(太宗)に殺された。 |
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王羲之
王羲之(おうぎし、WángXīzhī、303年-361年)は中国東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現... |
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沈約
中国南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。 |
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陳寿
三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。字は承祚(しょうそ)。巴西郡安漢の人。俗説では、蜀漢の将であった陳式の末裔と言われているが根拠は無い。甥に陳符・... |
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管仲
中国の春秋時代における斉の政治家である。桓公に仕え、覇者に押し上げた。一般には字の仲がよく知られており、以下本稿でも管仲(かんちゅう)として記す。 |
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班固
班固(はんこ、32年-92年(建武八年-永元四年)は中国後漢初期の歴史家、文学者。字は孟堅。班超の兄。「漢書」の編纂者として一般に知られるが、文学者とし... |
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虞世南
唐代の書家、政治家。字は伯施。越州余姚(浙江省)の人。初唐の三大家の一人。 |
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范曄
中国魏晋南北朝時代の南朝宋の政治家・文学者・歴史家にして『後漢書』の作者。字は蔚宗。先祖は順陽(現河南省淅川)の出身であり、山陰(現浙江省紹興)に... |
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長孫無忌
中国の初唐を代表する政治家。唐の太宗の長孫皇后の兄であり、唐朝の外戚に当たる。長孫无忌とも書かれる。字は輔機。本貫は河南郡洛陽。 |
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蕭子顕
中国の南朝梁の歴史家・文学者。字は景陽。梁南蘭陵(現在の江蘇省常州)の人。斉の高帝蕭道成の孫。豫章王・大司馬の蕭嶷の第8子。弟に文学者・書家の蕭子雲... |
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戚継光
中国の明代の武将である。倭寇及びモンゴルと戦ってともに戦果を挙げたことからその名を知られる。字は元敬。諡は武毅。竜行剣という剣法の開祖とも伝えられる。 |
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プロフィール
- 房玄齢とは
- 生涯
- 子女
- 評価
- 関連項目
- 伝記資料
- 外部リンク
- 関連サイト
房玄齢(ぼうげんれい 578年-648年)は中国唐代の政治家・歴史家。玄齢は字で、諱は喬。 杜如晦と共に 太宗の謀臣として玄武門の変において 太宗の権力奪取を助け、貞観の治の立役者の一人とされる。また正史編纂にも関わり、『北斉書』などを総監した。
生涯
| 斉州臨淄(現在の山東省臨淄)の人。 |
| 父の房彦謙(ぼうげんけん)は隋に仕えて司隸刺史になった人で、『隋書』に列伝があり、山東省済南の東に碑が建てられている。 |
| 開皇十五年(595年)に科挙に及第。 |
| 隋末の混乱時に唐に投じて、621年に李世民(太宗)の元の秦王府十八学士(当時の秦王である李世民の下の学士たち)の筆頭とされた。 |
| 高祖李淵が統一を果たして以後、優秀な人材の確保に努め、貞観の治のもう一人の立役者である杜如梅を見出し、太宗に推挙もおこなっている。 |
| 建国間もない唐の王朝で皇太子・建成と世民の間で継承争いが起きると、房玄齢と杜如晦はその謀略の才を建成側に恐れられ、讒言を受けて秦王府への立ち入りを禁じられた。 |
| 世民も建成に悟られないように策謀を進め、直前に二人に連絡を取り、玄武門の変を成功させて建成を殺して即位した。 |
| 630年、房玄齢は尚書左僕射(尚書省長官、筆頭宰相)・監修国史とされ、『北斉書』・『梁書』・『陳書』・『隋書』・『周書』の編纂を総監し、636年に完成させた。 |
| また褚遂良らと共に『晋書』を撰した。 |
| 晩年は病気がちになり、太子太傅とされ、648年に死去した。 |
| 死後、太尉・并州都督を追贈され、遺体も昭陵に陪葬された。 |
子女
| 子に房遺直・房遺愛・房遺則がいた。 |
| 房遺直は汴州刺史となった。 |
| 房遺愛は太宗の娘の高陽公主を娶り、荊王李元景の擁立を謀って失敗し、処刑された。 |
| 房遺則は荊王李元景の娘を娶った。 |
評価
| 房玄齢は杜如晦・魏徴らと共に唐代でも最高の政治家の一人として名高い。 |
| 貞観の治を記録したとされる『貞観政要』にも太宗の諮問に答える人間として数多く登場する。 |
| 中でも太宗が「創業と守文、どちらが難しいか?」(王朝を作るのと、それを守るのとどちらが難しいか)と問われたときの問答が有名である。 |
| 房玄齢はこれに対して、「天下乱れ群雄競い起こる。 |
| 攻め破りて降し、戦い勝ちて乃ち尅つ。 |
| 此れに由りて言えば、草創を難しとなす」と答え、魏徴は守文が難しいと答えた逸話が有名である。 |
伝記資料
| 『旧唐書』巻66列伝第16「房玄齢伝」。 |
| 『新唐書』巻96列伝第21「房玄齢伝」。 |
外部リンク
| zh-classical:房玄齡。 |
| zh-yue:房玄齡。 |
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