| 若手の時期はどちらかといえば中距離打者であった。 |
| しかし、チームの主砲であった田淵が1978年のオフに移籍したことで、長距離打者になる道を選ぶ。 |
| 体格的に決して恵まれていなかった掛布は、猛練習による強靱な体力で打球をスタンドまで叩き込んだのである。 |
| しかしこの打法は体への負担も大きく、選手寿命を縮める一因ともなった。 |
| 掛布自身、「体が大きくない僕が、ホームランを30本、40本まで増やすためには肉体的にはかなりの無理をしていた」と述べている『巨人-阪神論』P87。 |
| 甲子園球場で本塁打を量産するために、浜風とケンカするのではなく利用しようと研究を重ね、レフトスタンドへ本塁打を量産する独特の芸術的な流し打ちを身に付けた『巨人-阪神論』P19。 |
| 以降、レフトへの本塁打が飛躍的に増え、球界を代表するホームランバッターとなった。 |
| 本塁打は「狙って打つもの」と考えており、「ホームランの打ち損じがヒット」というイメージを持っていた。 |
| ただし、負傷による不調から復帰した1981年には「4番として全試合出場」を目標としたため、本塁打を意識しない打撃に徹した。 |
| その結果、フル出場を果たすとともに打率も.341という高い数字(現役時代の最高記録)を残したが、そのオフのイベントでファンから「もうちょっとホームランを見たい」(この年の本塁打は23本)と言われたことがきっかけで再び本塁打を意識した打撃に変更したという『巨人-阪神論』P88-89。 |
| 「田淵がもし残っていれば」と思うことが多いとも話している。 |
| 掛布は引退後に、この1981年が「一番自分らしかったのかもしれない」と語り、「今でも自分がホームランバッターとは思っていない。 |
| (1981年のバッティングをやれれば)違うバッティング、違う掛布があったのかなという思いが今でも強い」という。 |
| セリーグ審判部長を務めた田中俊幸は、著書『プロ野球審判だからわかること』で、攻守の技術に優れ審判に対する態度も良かった選手として掛布を高く評価している。 |
| 特に打撃面では、掛布の打球はバットに当たった瞬間、ほんの一瞬だが消えたと証言している。 |
| これは、掛布がボールを手元まで呼び込み、それを速いスイングにのせて弾きかえすので、ボールがバットにへばりついている間、見えなくなったのではないかと推測し、「闘魂ドラマに出てくるようなワザ」と称している。 |
| 投手の癖を観察して球種を判断することを途中からしなくなった。 |
| これは、大洋時代の野村収と対戦した際に、「癖を見破っている」と思って打ちに行ったところ、頭部への死球となり、癖を見て判断することへの怖さが生じたからだと述べている『巨人-阪神論』P58-59。 |
| 江川卓は著書『江川流マウンドの心理学』(廣済堂出版、2003年)で「掛布の弱点はインコース高め」と指摘し、掛布自身も対談で「インコースは弱い」と認めている『巨人-阪神論』P69-70。 |
| しかし、「4番打者の強さ」を相手投手に見せつけるため、インコースに投げられたボールのコントロールミスをライトスタンドへの強烈な本塁打にすることを意識していた。 |
| 引退への発端となった1986年の死球の際も、ライトに引っ張る本塁打を打つためにインコースを待っていて起きたと述べている。 |
| 手首の保護目的でリストバンドを着用してプレーした野球選手は、掛布が初めてである。 |
| プロ15年間、公式戦ではサヨナラ本塁打を打ったことが一度もなく、サヨナラ安打も1本のみである。 |
| オールスターゲームには強く、には3打席連続本塁打の記録を残している。 |
| また、にも第2戦-第3戦にかけて3打席連続本塁打を記録しており、そのうち2本目が公式戦では記録しなかったサヨナラ本塁打であった。 |
| 守備については、現役時代にダイヤモンドグラブ賞を6度受賞。 |
| これに関して、プロ野球記録の調査・分析で知られた宇佐美徹也は「ほかに特にうまい選手がなく恵まれた感じが強い」と記している宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社、1993年、P972。 |
| 吉田義男は初任監督時代の掛布の守備を「やや粗雑だが肩は強かった」と記し、ジョージ・アルトマンやハル・ブリーデンといった体格が大きかったり捕球技術に優れた一塁手に恵まれたことで、成長が促されたと評している『牛若丸の履歴書』P162。 |